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火の女  作者: 北川瑞山
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 実家を後にし、仙台駅まで出て、そこから新幹線に乗ると、窓側の席に座った。昨日捏ねた足首が痛んだ。また尻や腿の辺り一帯に筋肉痛が疼いていた。人間咄嗟の時にはいつも使わない筋肉を使うようだ。虚しい防衛本能だ。

 車窓からぼんやりと外の景色を眺めていると、白石蔵王を過ぎた辺りから雪景色に変わった。山々や森林、あるいは田畑が一面に白で覆われ、輪郭だけが水墨画のように辛うじて薄灰色で縁取られていた。車内は静かである。ただどこからか他の乗客の寝息が微かに聞こえてくる。柔らかな雪明かりを浴びて、晴行は静かに、また神妙な顔つきで外を見ていた。

 どこまでも白く柔和な表情のこの景色の中に、残酷性は潜んでいる様に思われた。厳寒の中に取り残されて初めて、自分が見てきた夢が牙を剥くのを見た様な気がする。そして浅はかだった自分を嘆く。とうに諦めていた筈の甘美な生活の幻想が音も立てずに湯気のように消え失せ、代わりに白々と方向も失われた白の世界に包まれる。それは一瞬の隙をついてどこからか忍び込み、形以上の意味を持たなかった筈の世界を瞬く間に混沌とした抽象の世界に溶かし込んでしまう。

 恐らく自分は何も諦められてはいなかったのだ。繭に閉じこもり、頑なに身を横たえていた筈の自分はやはり外の何かに向かって手を伸ばさざるを得なかった。しかし鉄壁の防御を崩さない事には外にある如何なる要素も自己の内面に引きずり込む事が出来ない。仕方なく自分はほんの何ミリかの穴を針で空け、そっと外をのぞいてみたのだ。すると外には自分が想像していた様な生易しい世界は何一つ無く、そればかりか自分と同じく繭に籠った人間がごろごろと転がっていた。そして彼らは繭の中からそっと手を伸ばして握手をしたり、唇だけのぞかせて接吻したり、あるいは性器だけ差し出して交わったり。だがしかしそれは五十歩百歩の話なのだ。結局は繭に閉じこもっている事に変わりはない。苦痛なのだ。空いてしまった穴を塞ぎきる事が出来ない人間は凍え死ぬ。例えどんなに巧妙な手口で誤摩化そうとしても、すきま風はどこからか入り込み、粘液で湿った繭の内側を凍り付かせてしまう。穴を塞ぎきる事など殆ど不可能だ。寒さに慣れてしまうのをひたすら待つか、さもなくば完全に繭を蹴破って外に出てしまうかのいずれかだろう。勿論蹴破ってみたところで他の連中はしっかり繭に籠ったまま彼を嗤うだけだろうが…。

 ともかく自分は少しだけ穴をあけてみた。そうしたらその一点から容赦なく吹雪が吹き込んできた。外の気圧は高く、まるで自分を集中狙いするかのように一心に吹き込んでくる。そして瞬く間に繭の中は凍えてしまった。後悔は先に立たない。だが自分には後悔する権利も義務もない。なぜなら穴をあけてみない事にはこういう結果になる事すら予想できなかったのだから。どうせこうなる運命だったのだ。しかしそれなら何故もっと早いうちにやらなかった?

 しかし何にしてももう手遅れだ。繭の中で自分はどす黒く変色した醜い肉塊となってしまった。こんな小さな針穴からでは外には出られない。かといって穴を広げるのも恐ろしい。今だってこうして凍え死にそうなのに、この上さらに穴を広げる勇気などない。こうなってしまったにしても相変わらずこの繭は自分にとって唯一の生命維持装置なのだ。そして何より繭を壊したら腐敗したこの姿を外の連中に見られてしまう。この穴からでもよく見えるだろう。腐臭を放つ汚物たる己の身の程も知らずにのこのこと繭を壊して出てきた連中、またそれを繭の中から目だけを出して凝視する連中…。腐敗しきった手足がもげて、肉や脂肪が崩れ落ち、その断片をまき散らして、体液は垂れ流し…そんな風に転げ回っている奴らも醜いが、同時に姿を隠してあの血走ったシュールな目玉だけを繭の穴から剥き出している奴らも相当なものだ。そして自分だってそういう中の一個の繭に過ぎないという事実は何と悲惨なことだろう。

 もう僅かでも穴を空けてしまった以上、繭の中にいても外にいても成虫になれる見込みなどない。成虫になり損なった幼虫の醜さは見ての通りだ。これはもうどうしようもない。

 いっそのこと誰か火をつけてくれないだろうか。きっかけは小さな火でいいのだ。この冷えた粘液の中に眠るのはもうたくさんだ。一時でも熱をくれないだろうか。焦がすような灼熱を。成虫になれない代わりに、完全な幼虫のまま灰にしてくれはしないだろうか。羽が生えなくたって結構だ。どうせそんな奴は自分の知る限り誰一人いないのだから。成虫になって大空を羽ばたくなんてお伽噺の中だけの話だ。

 自分は全く何も諦められていない。だが手を伸ばすこともできない。来るべき臨終をただ無為に待ちあぐねているだけだ。そうして時間が過ぎれば過ぎる程繭は固くなり、粘液は凍り付き、体が動かなくなり、やがては指一本自由にならなくなる。そうなる前に一刻も早く火にくべて欲しい。とにかく今この寒さと恐怖を取り除く事が先決だ。生命の存続など二の次だ。

 この場合の繭も火も勿論、比喩表現である。だが一体何の比喩なのかと聞かれると、晴行にはそれがよく分からなかった。してみると繭や火の喩えは、そもそも最初から火の女に救いを求める気持ちがあって、そこから事後的に湧いてきたのかもしれない。

 そんな妄想の中で、晴行は火の女を想像して彼女に寄り添った。あの冷然とした視線がこの上なく暖かく感じられる事が晴行自身にとっても皮肉だった。真っ赤に染められたあの密室の中で、どうにかして彼女から火を貰いたかった。この未熟者にとって、愛とはただ与えられる事に過ぎなかった。だが今火を貰い受ける事が出来たら、自分は如何なる犠牲を払っても良いという気はした。めくるめく暖色の世界で、粘り着く様な熱を帯びた彼女の視線を感じ始めたとき、窓の外の雪はいつの間にか無くなっていた。晴行には暫く夢うつつの区別がつかなかった。

 それから何となく、鞄にいつも入れて歩いている電子辞書を取り出した。それで「火」という言葉を調べてみた。

とは、物質の発熱を伴う急激な酸化。熱や光と共に様々な化学物質も生成する」

なるほど火とは物質そのものではなく、ある物質が酸素と化合する際の化学反応なのだ。つまりある物質は火を媒介して全く違う物質に生まれ変わる。自分が生まれ変わる為には火の女が必要だ。しかしながら火が起こるから化合するのか、化合するから火が起こるのか、その因果関係が今ひとつ分からない。自分が変われば火の女が見えてくるのか、火の女に近づけば自分が変われるのか…。

 車内販売の女がステンレス製のカートを引いて車両に入ってきた。それが横を通過するとき、晴行は

「ホットコーヒーを一つ」と言った。女は大きな魔法瓶に入った熱いコーヒーを紙コップに注いだ。晴行はそれを受け取ると金を払った。車内は充分に暖房が効いていたが、それでも薄ら寒い妄想のせいで、体がすっかり冷えてしまった気がしたのである。想像や思い込みが感覚を司るなどということがあるのだろうか?無論薬罐に入った冷水に触れた者が、それが熱湯だという思い込みの為に火傷をするなどということはあり得ない。だが感覚の影法師は欲望に従って伸びていくということもあるだろう。それを思えば火の女に思考を侵されている晴行が熱に飢えたのは自然の成り行きだった。

 晴行はスライド式のカーテンを引き下ろし、窓を塞いだ。そして熱いコーヒーを一口啜った。舌に広がる苦みが、晴行をやっとの事で現実に連れ戻した。しかし電車が宇都宮に着くまで、まだ暫くかかりそうだった。


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