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火の女  作者: 北川瑞山
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 二人は店に入った。入口のドアを開けるとカランカランとベルが鳴った。手狭な店は相変わらず混雑していた。晴行はカウンターに通され、ひとみは着替えてくると言って何処かへ行った。晴行はカウンターに腰掛け、煙草に火を付けると、とりあえずウイスキーのボトルを入れた。カウンターは三席あって両端に中年の男が座っていた。晴行は中年男二人に挟まれる形だったため、精神的にも肉体的にも大層窮屈だった。

 暫くしても灰皿が出てこないので、対面にいたホステスに灰皿を要求した。

「あ、はい」

若いホステスは悪びれずに晴行の前に灰皿を差し出した。若いが姿勢が悪く、鼻の穴の大きい如何にも品のない顔をした女だった。晴行は少し嫌な気がした。しかし女は晴行に話しかけてきた。

「菅原さんっていくつ?」

キープしたボトルに名前を書いたので、既に名前で呼ばれた。それにしても馴れ馴れしい聞き方だと思った。

「二十七だよ」晴行は素っ気なく答えた。

となりのおやじがドスの利いた声で

「めっちゃ若いやん」と言った。それからおやじが続けざまに

「ジュンちゃんは年いくつやったっけ?」と訊いた。

「私二十歳」

女は晴行から見てどうも二十歳には見えなかった。実年齢が若いというのはどうにか納得できたが、それでも可愛げが無さ過ぎる。初々しさというのか…とにかくひとみより十歳も年下というのは一寸信じられなかった。

「菅原さんって優しそうだよね〜」と突然女が言った。年上だと分かっているくせに敬語も使えないのかと、晴行は増々苛々していた。晴行は何も応えなかった。ただ黙ってウイスキーのグラスを傾けた。酒は大変に不味く、舌の上をひりついた。喉を通る時にも違和感があった。すると女は遂にこんな一言を放った。

「ひとみさんのお客さんってみんな優しそうだよね〜」

晴行は当然ながらこの一言に落胆しない訳にはいかなかった。ひとみにはそんなにも沢山の客が付いているのか。自分はそんな数多くの客の中の一人に過ぎないのか。しかも自分はその中でご多分に漏れず優男で、あの自由気侭な猫顔に惹かれて薄っぺらい財布を持って今日もまた飲みに来ているのか。

 晴行は早くひとみが来ないかと思った。一刻も早くこの女から逃げおおせてひとみと話がしたいと思った。焦れったくなって煙草を吸った。だがそれもさっぱり美味くなく、すぐに灰皿にねじ伏せた。急に頭が割れそうに痛み出した。痛みというより、軋り音だ。乾いたペン先を紙面に擦り付けるように、あるいは発泡スチロールを擦りあわせるように、不快な摩擦の軋り音が脳の奥で泣きわめいていた。晴行はカウンターに肘をついたまま頭を抱えた。すると次第にその軋り音が一層酷くなり、吐き気さえしてきた。晴行は両の掌で顔面を覆った。深い溜息を漏らすと、晴行の精神は肚の中で底の底まで落ち込み、もはやぐうの音も出なかった。

 晴行はトイレに行くと言って席を立った。立ち上がった瞬間に激しい立ちくらみに襲われてふらついたが、どうにかトイレに辿り着く事が出来た。洋式便器に腰を下ろすと、晴行は気怠い調子で溜め息をついた。何故こんなにも突然調子が悪くなったのだろう?勿論あの女の無作法にも原因がある。それに酒も煙草も晴行の体質に決してあっているとは言い難い。それもある。だがさっきまで浮かれ調子だったものがそれを境にしてこんなにも全てがどうでもよくなってしまう事があり得るだろうか?してみるとやはり自分の本質は虚無なのだ。何かひょんなことから空いた小さな穴からその本質が顔を出し、見る見るうちに自分全体を、この世の全てを虚無にそっくり変えてしまうのだ。まるでオセロゲームの終盤のように、全てがひっくり返ってどうしようもなくなってしまうのだ。ああ、自分は何故こんなところにいるのだろう?それすらも疑わずにはいられない。そりゃあひとみは商売女であるのだから、いくら嫣然とした顔をしていても自分などに寸毫も興味などないのだろう。それは分かっている。男は女に騙されていると分かっていて騙されるのだ。そんな事は分かり切っているが、どうしてもここに来てその価値を認める事が出来ない。

 そのときトイレの外で歓声がわき上がるのが聞こえた。ひとみがコスプレをして現れたのだろう。女達や客が口々に可愛いカワイイと褒めそやしているのが聞こえる。自分も早くここを出てそれを言ってやらねばならないだろう。だが今となってはそれが大変に億劫だ。ここに籠ってずっとやり過ごしたい気がする。実際それでまた何の問題も無かろう。なぜなら女達はひとみのコスプレを何や蚊やといって評するが、誰も

「早く菅原さんに見せてあげなきゃ」とは言わないのだから。ひとみは決して自分の為にそれをやったわけではあるまいし、他の者達にしたってひとみが何をしようとも俺には関係がないこととして扱っているのだから、つまりはあの空間に俺が必要ない事は議論の余地がない。

 晴行はそれらの議論を取り払ってそこを出た。カウンターに戻ると、奥のカウンターで他の客の酒を作っているひとみが目に入った。彼女は秋葉原の路上で良く見かける様なメイドの恰好をしていた。そして晴行が来た事に気が付くと、こちらに手を振った。晴行はそれを一瞥するなり、

「ん、なんだあれ」と言った。

そのそっけない一言が他の客には却って受けた。だが晴行自身は別に笑いを取るつもりは無く、自分の手を離れて勝手に変な恰好をして注目を浴びているひとみにかかわり合う気になれなかっただけである。またひとみが被っていたカチューシャに猫耳が付いていたのも何か気に食わなかった。あいつは最初から自分の猫顔を自覚していたのかと、そんな気がした。

 ひとみは、何故か晴行の側に訪れなかった。代わりに例の無礼な女が始終晴行の相手をしていた。相変わらず両脇にはおやじがいた。晴行はウイスキーを飲んだり煙草を吸ったりしてそれを紛らわしているうちに、例の軋り音が頭の中を浮遊し、膨張して、頭がはち切れそうになった。

「どうしたの?元気無いね」とさすがに気にした女から声をかけられたのを無視し、もう限界だと思い始めた矢先、ひとみが現れた。が、ひとみはまだ晴行の変化に気が付いていなかった。

「菅原さん、私モエが飲みたい!入れてもいいですか?」

「ああ、いいよ」

晴行は力なく言った。カウンターに肘をついて頭を抱えたまま。

「あ、菅原さんのお酒も無くなってますね。もう一本入れますか?」

「ああ、頼む」

「あ、そうだ。ジュンちゃんにも一杯あげていいですか?」

「ああ、いいよ」

「あと、お二方にも良いですか?」

ひとみは両脇のおやじを指差した。

「いいよ」

晴行は何故若輩の自分が見知らぬおやじ達に酒を奢らなければならないのか考えた。結局良い金づるだと思われているだけの事だと思った。そんなことは先刻から分かりきっていた。

 時計を見ると、丁度十時だった。晴行は十時半になったら店を出ようと考えた。本当なら今すぐにも出たい気分であったが、何となく踏ん切りが付かなかった。なので三十分後にリミットを設定したのである。

 ところがそうするとあっという間に三十分が過ぎた。その三十分の間に晴行が期待していた様な変化は何一つ起こらなかった。もういい加減にして帰ろう、自分が決めた制限時間が来たのだから、とも思ったが、重い腰が上がらなかった。そうしているうちにひとみが再び現れた。

「ねえ、菅原さんもこれ被ってみて」ひとみはそう言うと被っていた猫耳のカチューシャを外して晴行に渡した。晴行は拒否した。とてもそんな気分になれなかった。それでもひとみがつけてつけてというので、仕方なく被った。しかしひとみが一人ではしゃいでいるだけで、他は誰も見ていない。晴行はカチューシャを外してひとみに返すと、

「お会計で」と一言言った。

ひとみはここに来てようやく晴行の気持ちを察したようだった。勿論それはもう手遅れであって、ひとみが如何に晴行の気持ちを立て直そうとしてもそれは叶わぬ望みであった。

 晴行はクレジットカードを出すと、店の奥から出てきた伝票にサインをした。それがもの凄い速さで殴り書きをした為、ひとみが

「速い〜速い〜」等と言って茶化したが、晴行はにこりともしなかった。サインを済ませると、晴行は席を立って、出口に向かってすたすたと早足で歩いた。

「速いよ〜」と後ろでひとみが言っていたが、振り返りもしなかった。エレベーターホールでエレベーターを待っていると、ようやく追いついたひとみが隣でもじもじしているのが分かった。晴行は何も言わなかった。到着したエレベーターに乗り込むと、黙って一階のボタンを押してドアを閉めた。ドアが閉まる寸前、ひとみが脇から顔を出して、

「お土産ありがとう。大事にするね」という一言をねじ込んだ。晴行が返事をする間もなくドアが閉まった。実際返事をする気もなかった。

ビルの外に出ると、再び刺す様な寒さが晴行を襲ってきた。だが晴行はただ俯くばかりで、身震いするエネルギーすらも保持していなかった。そんな茫然自失の状態で歩いていたら、歩道の段差を踏み外して足首を捻挫した。歩道の上で膝をつくようにして尻餅をついた。笑ってくれる者もないので、晴行は無言で立ち上がると、近くのタクシーに乗った。

 晴行はその後真っすぐ家に帰って寝た。その間何をしたかも殆ど覚えていない。


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