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火の女  作者: 北川瑞山
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 晴行は珍しく早起きして、社員寮の一階にあるアトリウムで煙草を吸いながら、タクシーを待っていた。朝六時。アトリウムは伽藍としていて、人気が無い。いるのは彼一人である。ただ出入り口が近くにある為、そこを通り過ぎる人がアトリウム内を瞥見できるようになっている。彼はこの人気のないところで一人淋しく煙草を吸っている事を以て彼らから好奇の視線を受ける事を恐ろしく思った。そのため人の足音やドアの開閉の音に一々敏感にならなければならなかった。その恐怖に気付かぬ振りをしながら、彼は持ってきた本に目を落として時を過ごした。しかし幸い、誰も晴行の側を通り過ぎなかった。

 やがてタクシーがやってくると、彼はそれに乗り込み、宇都宮駅まで向かった。運転手は無口で、行き先を確認した事を除けば一言も発しなかった。晴行は後部座席の窓から見慣れた街並を見ながら、鬱然と揺られていた。本を読もうかとも思ったが、車酔いするので止した。

 タクシーは宇都宮の中心部を通り抜けてJR宇都宮駅前に停まった。晴行は料金を精算すると、駅前のロータリーに降り立った。外は冷えている。晴行はさっきアトリウムの自動販売機で買った冷めたコーヒーの飲み残しを飲み干してしまうと、肩をすぼめて歩き出した。そして実家の辺りはもっと寒かろうとも考えた。

 仙台行きの切符を買うと、新幹線の到着時刻までその辺を逍遙する事にした。駅舎を突っ切り、裏手まで出て行った。実際は裏手ではなく東口が正確な呼び名だが、どう見ても裏手である。西口と比較するとそれくらいに寂れている。ロータリーにバス停やタクシープールがある。それから小屋の様に小さな餃子屋が二件程ある。他にはもう目立ったものは何も無い。だからここに降り立った人は大概餃子屋に行くか、さも無ければバスやタクシーで遠くまで行く。そのいずれでもない晴行は当然行くべき場所もなかった。時間つぶしに来てみたものの、何をするでもなくロータリーの脇の喫煙所で煙草をふかしていた。黒いコートの襟を風に震わせながら、晴行は思う。

(寒い寒い)

殺風景な街並に視界を占められると、何だか全てが面倒になった。ここまで来て、晴行は家まで引き返そうかと半ば本気で思ったくらいである。だが引き返したところでこの倦怠感はどうにもなるまい。いや、むしろ引き返す事すら面倒だ。そのまま惰性で前に進んでしまおう。しかし何だろう?あの薄気味悪い餃子のモニュメントは。まるで女性器に脚が生えた様な。晴行はそこを立ち去った。暁暗の空はようやく東の方から赤みがかって、駅構内の人数も少しずつ増えてきていた。

 六時五十三分発の新幹線に乗る前、晴行は地元の友人にメールを打った。送り先は新田という中学時代からの友人だった。新田は晴行とは違う高校、大学に進み、今は公認会計士の資格を取得して監査法人で働いている。地元を離れて東京の大学に進学し、宇都宮の会社に就職した晴行とは対照的に、一貫して地元志向であったため、根は世間知らずな田舎者であったが、それでも勉強はよくしたため、晴行よりも大分稼ぎがいいらしかった。晴行は地元に帰る度に新田に会っていた。今日も取り立ててすることもないと思われたので、新田に連絡をしたのである。

「久しぶり。突然だけど、今日の夜は空いてる?」

突然の誘いにもかかわらず、これを送った時に晴行は断られる心配を全くしていなかった。なぜなら新田は晴行からのこういう誘いを全く断った事がなかったし、それどころか新田は晴行が実家に帰ると毎日のように晴行を飲みに誘っていたからである。そういうところから、新田が晴行にとって数少ない友人の一人であるのと同様に、晴行もまた新田にとっては数少ない友人の一人である事が容易に想像できた。

 晴行が新幹線に乗ってからすぐ、想像していた通りの返事が返ってきた。

「おう、帰ってくるのか。何時頃が良い?」

晴行は夜七時に実家近くの駅前で待ち合わせる事にした。

 新田はこれだけ朝早くにメールをしても文句一つ言わず、すぐに返事をよこす様な気さくな人間だった。ただ公認会計士の資格を取ってからはその社会的地位や収入を無闇にひけらかす様になって、徐々に友人を失っていった。それは受験生時代に苦学した反動でできた性格の歪みらしかった。新田自身の話によると、大学を卒業してから無職で予備校に通っていた時代、新田は何度となく周囲の人間から親の脛を齧っている事を面と向かって蔑まれたらしい。そういう経験もあって、今更何を言おうが自分の勝手だ、という心理が働き、新田はいくら友人を失っても人から嫌われる様な言動を慎む事をしなかった。ただ新田は晴行だけは信頼していた。晴行だけは新田を受験生時代から応援し、お前なら必ず受かる、というような言葉をかけていた。無論晴行は何の気持ちもなしに気休めとして言ったに過ぎなかったが、新田にはその言葉が心の支えになっていたらしい。こういうわけで晴行は期せずして無二の親友を手に入れたのである。

 新幹線の車窓から、晴行は山々の頂上から差し込む曙光を見た。それは通り過ぎる景色を神妙に赤く照らし、また徐々に昇ってその色を濃くしていった。晴行はその光を心の中にまで受けた気がして、少し気が晴れた。

 同時に晴行は火の女を思い出していた。彼女はきっと同じ会社の社員に違いない。だが名前も知らない相手をどうして自分は夢にまで引きずり込み、あのような非現実的な演出までさせたのだろう?もし仮に自分が前々からあの女を何処かで見た事があって、それが何らかの拍子に脳裡の隅から引っ張り出されてきたのだとしても、それがあのような蠱惑的な夢にまで昇華するほど強い気持ちは持っていなかった筈である。そう思うと自分が故意に彼女を夢に登場させたというよりは、彼女が自分から夢の中に入り込んできたのだという様な気がした。しかし同時にそんな考えは強過ぎる自惚れである様な気もした。自分の様な駄目人間の夢に登場したい女が一体どこにいるというのか。いくら婚期を過ぎた女だって、自分の様な人間と一緒になるよりはまだ結婚を先延ばしにして一人でいた方が良いに決まっている。それはまるで受験に失敗して浪人する受験生のように、不本意なところにはどんな目に遭おうとも決して行こうとしないであろう。

 こんな考えはまた晴行の心に幾分かの焦燥を生んだ。このままずっと駄目人間でいては、いつか自分に欲しいものができたとき、また想う人が現れた時に、その欲望を果たせなくなる。そして強い失望に見舞われる事になって、結果増々無気力な駄目人間に陥る。日頃虚無感と無気力で満たされていた晴行の心は、このとき焦燥を認めたことで僅かな亀裂が走った。そしてその亀裂からは目の前の曙光と同じ色の光が僅かに漏れていた。しかし晴行にはその一筋の光がたまらなく恐ろしかった。晴行は身を翻すように光から目を覆った。そして今までの考えは捨てるように努めた。


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