12
そうこうするうちに、十二月になっていた。辺りはぴんと張りつめたように厳しい冷気が遍満する。街には赤と緑のクリスマスカラーや銀色のイルミネーションが飛び散り、貼り付いている。どこへ行っても騒がしい。どこへ行っても忙しい。この季節になって晴行がいつも思うのは、ただ「寒いなあ」と、それだけである。朝、林田さんと会社に行く。デスクの前で欠伸をしながら、一時間おきに喫煙所に行く。定時になると家に帰る。その間晴行は心中でただ寒い寒いを繰り返していた。他に思うところなど何も無い。
晴行はある昼時に、別棟の社員食堂に向かいながら国道沿いの下り坂の下に広がる町並みを見はるかした。そこには日光に染まった背の低い建物の群れが広がっていた。燃えるような輝きを放つそれをぼんやりと見ていると、晴行は一層の虚無感に襲われた。少なくとも自分が生きている間は、太陽はこうして繰り返し繰り返し同じ場所に照りつけるだろう。そうして間もなく自分はその光に吸い込まれるように蒸発してしまう。自分は一滴の水滴に過ぎないのだ。水滴は時の下り坂を流れ落ちる。低いところに低いところにひたすら流れ落ちて、時には他の滴と繋がったり離れたりしながら、最後にはみんな消えてゆく。自他の区別もつかないまま、それらが集まってどれだけ大きな洪水を形成したところで、結局のところそれはいつの間にか跡形もなくなってしまうのだ。晴行は雨が降ればいいと考えた。そしてそれに溶け入ってどこかに流れ去ってしまいたいと思った。こんな想像は晴行に寂しい様な気持ちを与えた。そのため彼は一層憮然とした表情で歩くことになった。尤もそれはいつもの事でもあった。
食堂の隅っこの席で飯を食った。が、食欲も無いので殆ど残した。周りの社員達は飯を食い終わっても無駄なおしゃべりに興じていて、そこを動こうとしない。おかげで食堂はあっという間に大混雑である。喧噪の中一人黙って、晴行は食器を下げた。
寒い風が吹く屋外の喫煙所で煙草を一本吸った。煙草を吸う他の連中は相変わらずはしゃぎ回っている。いい年をした中年の男達が仲間を蹴ったり追いかけ回したり…。しかし晴行はそれに嫌悪を感じることもなかった。むしろ淡い好意すら感じていた。彼らは晴行にとってどこまでも無害な存在だったからだ。
オフィスに戻ると、晴行は残りの昼休み時間をどう使おうかと考えた。昨日の夜も今日の朝も歯を磨かなかったので、口の中が気持ち悪い。歯を磨きに行くか、と一寸考えたが、やはり止した。面倒だった。席に着いて昼寝でもしようかと思った。だが昼休み時間のオフィスはやたらに騒がしくてよく眠れそうになかった。本を読むにも集中できる環境ではなかった。
晴行は一寸億劫だったが、社屋の最上階にあるラウンジに行って、そこで寝ることにした。あそこなら静かだろう。晴行はエレベーターに乗って最上階に向かった。
そういえば、晴行はあれ以来あの女の夢を見ることはなかった。晴行自身もとうにそんな夢を見たことなど忘れかけていた。それはそうだ。一度見た夢をいつまでも覚えているなんてことはそうそうないものだ。確かにあの夢の印象は強烈なものがあったが、そうといって別に記憶に留めておくに値するものではなかったし、第一夢なんてものは大概多かれ少なかれ強烈な印象を伴うものだ。そういう訳でエレベーターに乗る際に晴行が特別の警戒を催す様な事は無かった。
エレベーターは滞りなく最上階に着いた。奥のラウンジからは女性社員同士の話し声が聞こえる。昼飯時にここに来るのは初めてだったので知らなかったが、ここで昼飯を食っている社員も少しばかりはいるようだ。しかしどちらにしろオフィスよりは落ち着いて昼寝が出来るだろう。降り立ったエレベーターホールには様々な賞状やらトロフィーやらが陳列棚に飾られていた。それらが上からのスポットライトを浴びて薄暗がりの中に黄金の光を放っていた。
「○○野球連盟公式大会優勝」
「リーグ戦最優秀選手賞」
その他片目が点じられていない達磨やら、ガラスケースに収まった市松人形やら、額縁に収まった不気味な能面なども並んでいた。晴行は黙ってそれらの側を通り過ぎると、ラウンジに向かった。そこはエレベーターホールとは打って変わって明るかった。外壁が全面ガラス張りで、外の光が惜しげも無く入ってきていた。天井の電燈もついてはいたが、それが殆ど意味をなさないくらいに窓からの光がふんだんに差し込んでいた。そこは恐らく二十畳くらいのゆったりとした広さで、丸テーブルが程よい間隔を空けて十卓程並んでいた。そのいくつかは昼食をとる人々で占められており、それは殆ど女子社員だった。彼女達は四五人のグループを作って談笑しつつ、それぞれ持ち寄った弁当をテーブルに並べてそれを箸でつついていた。
晴行は隅の方の空いているテーブルの側に腰掛けた。そして背もたれにもたれて浅く腰掛け、眠ろうとした。しかしいざそうしてみると、何だか非常に落ち着かなかった。女子社員のたまり場で一人堂々と眠る気にはどうしてもなれなかった。勿論、彼女達の誰一人として晴行を気にも留めていないし、視線すら送ってよこさない。それでも何となく居心地が悪い様な気がした。やはりオフィスに戻ろうかとも考えた。あるいは目を閉じて無理にでも寝入ってしまおうとも考えた。しかしどちらにしても億劫な気がして、晴行は何となく辺りを見回した。そこここで賑々しくおしゃべりに興じる女達を見るとも無く見た。その中には知った顔もいる。知らないのもいる。若い女もいれば、大分年取ったのもいる。大声を立てて笑い転げる女もいれば、ひそひそと慎ましく話をしている女もいる。
晴行はふと、過去に母親と交わした会話を思い出していた。二人で一緒にテレビを見ていた時の事であった。テレビでは若い男女が喫茶店かどこかで会話を交わしていた。女が男に問う。
「ねえ、男女間の友情ってあると思う?」
男はあっさりと答えた。
「あるよ」
すると女は少しだけ表情を曇らせて言った。
「そっか…」
男は、女の意図を正確に汲み取れなかったようだった。晴行は何も考えずにただぼんやりとこんなやり取りを見ていた。すると母親が突然晴行の背後から言った。
「あるよ」
晴行は意表をつかれて何も言えなかった。首だけは母親の方へ回したが、すぐに元に戻した。母親の気紛れに深入りするのは御免だった。背後から続けざまに母親が言った。
「女同士の友情よりはよっぽどあるよ」
母親の過去に何があったのか、またそれがどういう意図を持って発言されたのかは分からないが、その言葉がいやに晴行の心に残っていた。そして今それを思い出すと同時に、目の前の女達のやり取りが冷ややかで皮肉な言葉の殴り合いに思えてきた。その言葉の応酬が完璧な均衡を保ち、表面的な友情を育んでいるように見える分、それは殊更そう見えた。そういえば漱石の小説に出てくる女同士はしょっちゅう暗黙の火花を散らしているんだっけ…。
途端に付き合いきれない様な気がして、晴行はこの場から立ち去ろうと思った。席を立って、視線をラウンジの出入り口付近に投げかけた、その時だった。晴行はその付近のテーブルに腰掛けた三人の女を見た。その中の一人に、あの夢の女がいた。今まで何故気が付かなかったのか分からないが、それは確かに見れば見る程あの女だった。ただ彼女の顔は火の女と言うには余りにも白く、輪郭がぼやけて迫力が無かった。しかし思えばあの白い下地が無かったらあそこまで鮮やかな赤を投影できなかったのかも知れない。そう思うと彼女の顔に厚く塗られた白粉は単なる身だしなみとか女らしさの主張ではなく、その奥に秘めた正体を隠す為の変装のようにも思われた。そしてその変装を施しているうちは、女の顔はゆで卵のように無表情で、飄々としていた。
彼女は昼食終えているらしく、同じくらいの年格好の女と静かに話していた。とは言え晴行は立ったまま余りじろじろ見ているわけにも行かず、何気ない素振りで彼女の側を通過してラウンジを後にした。
オフィスの階に向かって降りていくエレベーターの中で、晴行は喉元まで心臓の音が高鳴るのを感じていた。そしてあの夢に関してあれこれと揣摩憶測した。自分は実はあの女を何処かで見た事があって、それがたまたま夢に現れたのかも知れないと考えた。あるいは夢の女のただでさえ模糊とした容姿を、自分が都合良く目の前の女に当て嵌めてしまっただけかも知れない、とも考えた。どちらにしても、もう今となってはあの女こそが晴行の夢の中に現れた火の女となった事は変わりようが無かった。
しかしだからと言ってどうしろというのだろうか?確かに女を見た事で、晴行はあの夢の内容を一瞬にして思い出した。そして胸の鼓動が速まる程のただならぬ精神の高揚を覚えた。しかしただそれだけである。虚無の靄は直ちにそれを包み込んだ。そして瞬く間に覆い隠してしまった。だから女に対して晴行がどうしようとか、究明せんと欲する事は殆どなかった。そのため彼がエレベーターを下りた時には、もうその鼓動は治まっていた。その代わりに彼は全く別の新しい考えを心の中に宿していた。
(実家に帰ろう…)




