表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
火の女  作者: 北川瑞山
10/33

10

 気が付くと、晴行はオフィスの椅子に座って、デスクに突っ伏して居眠りをしていた。垂れた涎が机の上に小さな池をなしている。晴行はきょろきょろと辺りを見回す。窓の外はすっかり暗くなっている。なんだ、今までのは夢だったのか?道理で妙な感じがしたものだ。あんな事は普通起こりえない。万が一起こったところですぐに誰かが駆けつけて事なきを得るものだ。それにあの女ときたら、まるで人間とも思われない様な存在感だった。きらびやかで神々しく、それでいて近づけぬ程恐ろしい。あんなものは単なる男の下らない妄想にすぎない。女を神格化して夢見すぎるのは女性経験の少ない男の悪い癖である。晴行は一つ溜め息をついた。そしてパソコンのキーボードを出鱈目に押した。ディスプレイには長らく何の操作もしていなかった為スクリーンセーバーすら表示されておらず、暗転していた。パスワードを打ち込んでログインした後、勤怠管理システムの退社ボタンを押し、パソコンをシャットダウンすると、晴行はすごすごと帰り支度をした。

 社屋の外に出ると、風が冷たかった。最近朝と夜は酷く冷え込む。コートもそろそろ秋物から冬物に変えなければなるまい。晴行は今着ているベルベット地の薄手のコートの他に、アンゴラのコートを持っている。これが冬用である。それに切り替えるか否か、今は微妙な時期である。十一月の下旬。秋と冬の境目だ。

 自転車に跨がって国道沿いの下り坂を下りた。自転車はペダルをこがなくても惰性で自然と加速していく。スピードが上がるにつれて寒さが一層身にこたえる。車道は昼間とは逆に下り斜線が混雑していた。車のヘッドライトが幾重にも連なり、眩しくて視界が白くぼやけた。晴行は人気の無い歩道をペダルもこがず、前もろくに見えないまま、ただ黙然と下っていった。時折、ぶつぶつと口先で何か呟いている。自分にすら聞こえるか聞こえないかという小声で。晴行には何となく、過去の理不尽に対する恨みつらみを思い出す癖があった。そしてその度にそれに対する反駁を至極論理的に呟いた。そうすると、自分の正当性が少なくとも自分にだけは認められる様な気がした。それを一度ならず何度も繰り返す。繰り返し繰り返し反芻し、反駁する。そんな反駁を自身の経験が恨みつらみに変わる前に口にする事が出来たらどんなに愉快だろうと、たまに晴行は思う。だがそれは結局いつも叶わなかった。今、現にこうして呟く反駁すら自分一人しか聞き手のいないことに気付くと、晴行は落胆した。そうやって暗い方に暗い方に自分を追いつめていくうちに、晴行は家に着く。暗い穴蔵の様な自分のワンルームに付くとき、晴行はいつも憂鬱だった。仕事から逃げ、人間関係からも逃げ、辛い記憶や煩悶からもやっとのことで逃げおおせた先には、この暗い一人の部屋があるだけだった。そこで彼を迎えるものは誰一人いない。こんなとき、素直に淋しいと言える程、彼は純粋に人恋しい訳でもなかった。一人が結局一番落ち着く事は、彼自身特に知悉するところであった。しかしながらこの不穏な快適さに、彼は如何なる意味も見出せなかった。そこはかとなく漂う不安をかき消す為に、酒を飲んだり煙草を吸ったり、下らないテレビを付けっぱなしにしているのがどうにも馬鹿馬鹿しく思えた。とは言え馬鹿馬鹿しいと思う事を止める事も出来ず、ただどうしようもなく空疎な時間を垂れ流している他、この家で過ごす方法を晴行は知らなかった。

 晴行はカップにコーヒーを淹れると、そこにバーボンウイスキーを垂らして啜った。すると徐々に体が温まってきた。暫くの間、晴行は何もせずにベッドの上でうずくまっていた。テレビなど見たくない、本を読むのも億劫だ、音楽は五月蝿い、自慰に耽る性欲も持ち合わせてはいない。かといって早く寝るのも何となく嫌だ。する事が無い。これは考えてみればどんな不幸をも凌駕する不幸の様にも思えた。だが自分から不幸を取り除いたら、一体何が残るだろう?とも考えた。

 仕方なく、晴行は北枕でベッドの上に横になった。そして今日見た夢の事を思い出していた。不思議なもので、目が覚めた時程に記憶が明瞭でない。女の姿形も遠くに霞んで、はっきりとは思い出せなかった。ただ真っ赤な明かりに染まった肌の色や、胸を締め付けられる様な興奮と息苦しさは妙に実感として思い出せた。夢に色がついているのは神経衰弱だと何処かで聞いた事がある。自分の場合はどうだろうかとも考えたが、つまらない迷信の様な気がしてすぐに考えるのを止めた。

 白と水色の縞模様の描かれた羽毛布団に、顔を横向きにして半分埋めながら、晴行は思い出していた。何故あんな夢を見たのか?あれには何か象徴的な意味が含まれているのだろうか?けれどもあの夢はただひたすら淫靡な感じがするだけで、何か深い意味とか深層心理の反映とかがあろうとも思われなかった。ただそこから急に目覚めてしまった後に、心に隙間風が吹く様な嫌な喪失感が感じられた。そしてそれは今でも続いているように思われた。晴行は喪失感を拭いきれず、何をする気も起きなかった。起き上がる事すら億劫になった。そのうち晴行は風呂にも入らず、歯も磨かずにうとうと寝入ってしまった。やはり北枕のままだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ