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火の女  作者: 北川瑞山
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 風が一瞬薙いだ。その隙を狙ってライターで火をつけ、煙草に点した。菅原晴行は、その瞬間の映像が脳内で幾重にも連なるのを感じた。こんな瞬間を、俺は今までに何百回、何千回経験しただろうか?そして何もそこから進歩無く、何の変化も無く今日に至る。それを思うと、何者かに拘束されている様な閉塞感を感じた。晴行は職場の喫煙所で気怠く煙を吐き出しながら、陰鬱に立ち迷うそれを追って、眩しそうな目で空を見上げた。曇天の空は分厚い白一色で、今にも雨が降り出しそうだった。運送係の連中が連れ立って煙草を吸いにきた。彼らは仲間内で何やら楽しそうにはしゃぎ回り、ふざけて同僚を蹴ったり突き飛ばしたりしている。昼休みを知らせるチャイムが鳴る。社員はゾロゾロと食堂に向かって列を作り、不味いと評判の飯を文句一つ言わずに食い始める。

(何かが狂っている)

晴行はそう思わずにはいられなかった。現状に不満がある訳ではない。それなりに上司にも恵まれている。生活に困らないだけの収入も得ているし、多少の贅沢をしても貯金に回すだけの余裕もある。週休二日制で、残業もそれほど多くない。自分の為の時間も取れる。しかし何かが足りない。何かが狂っているのだ。

 晴行は自分に何が足りないのか、最初から諦め半分で探ってみた。するとすぐに自らの孤独に思い至った。確かに晴行には友人と呼べる者が身近に一人としていない。恋人もいない。家族も余り好きではなく、疎遠である。晴行の仕事は一人パソコンに向かって一日中文章を書く仕事なので、公私ともに一人でいる事が殆どである。しかしだからと言って晴行はそんな現状に全く不満を抱いてはいなかった。確かに孤独は堪え難いが、他人と過ごすのは更に堪え難い。晴行は自分のそういう性格を知悉していたから、むしろ日常を一人で過ごす事の出来るこの環境に感謝すらしていた。であるから、孤独は今の自分にとってさしたる問題ではないと、すぐに頭を切り替える事が出来た。

 出世がしたいのか?他人に認めてもらいたいのか?それも確かにあった。晴行は他の同期入社社員よりも昇進が遅れていた。配属される部署という部署が一々気に入らないため、晴行は入社当初から部署間での異動を繰り返していた。お陰で様々な部署の文化を知る事が出来たのは良いが、肝心の仕事がさっぱり身に付かなかった。晴行が現在所属している部署にたどり着いたのは一年前である。晴行はようやくそこに腰を落ち着ける決意をした。が、そこでの仕事に関しては新人同然の経験値であった為、同期入社の社員達が揃って昇進している時にも、晴行は昇進する事が出来なかった。尤もそうなる事を晴行は事前に理解していたので、その時はさしたる傷心も無かった。だが時が経つに連れ、上司の接し方や仕事の重要度など、どこを取っても他の同期とは歴然たる違いのある事を実感し、更にいつ後輩に追い抜かれるか分からない不安なども増し、晴行は徐々に焦燥を催していた。

 だがそれすらも晴行には取るに足らない事に思われた。それは出世しないよりはした方が良いに決まっている。しかしそれは真剣に思い悩むには余りに小さな問題であると思わずにはいられなかった。人の一生とは線香花火の様なもので、単なる化学反応に過ぎない。どんなに華麗な火花を散らそうとも、いずれは小さくなって消えてしまうものである。それを思うと、成功やら出世やら、こんなものは役割を終えてしまった後になっては何の役にも立たぬものと思えた。つまり晴行は虚無的だった。

 にも拘らず自分がこれほどにまで人生に固執するのは何故であろう?こんな問いを晴行は繰り返さねばならなかった。それは模範解答の存在しない問いであり、解決は到底不可能に思えた。晴行の虚無主義が自身を自殺に追い込まないのは、某かの希望の為ではなく、この解決不可能な問いの為であった。この問いが解決せざるうちには、自らが無になってしまう事が晴行には断じて許せなかった。要するに、「何故死んではならないのか?」という問いが眼前に聳えている限り、晴行は死ぬ事が出来なかったのである。

 ただし、虚無の行きつく所は畢竟虚無であった。晴行には自分がどんなに懊悩したところで、結局はこの問いを解決できぬままに自分が死に至ってしまうであろう事が容易に想像できた。諦める、という事が自分にとって至極重要な要素であるようにも感じていた。けれども勇気がないせいか、一度たりとも晴行にはその諦念を受け入れる事が出来なかった。

 雲の合間から少し日が差してきた。コンクリートの地面が不気味に光を帯びて日を照り返す。曇っていた時よりも、それは却って不穏な雰囲気を帯びた。コールタールの焼け付く匂いが鼻を突き、それが脳の奥にまで辿り着くと、煙草の香りと相俟って頭の中に何かどす黒い塊が凝結したような心持ちがする。幸福そうな会社の同僚達は僅かな光を浴びて、なお一層生き生きとしている。まるでこの地上の光と匂いを愛すべきであるかの様に。

 晴行には希望が無かった。幸福も無かった。それらは晴行にとって所詮幻想に欺かれた者の戯れ言だった。しかしそんな晴行とて、生きている以上はそれらを求めなければならない。それが晴行には摩訶不思議であった。何もかもを諦め、捨て去った上で生きる。それが可能であれば人の一生はどれほど愉快になるであろう。実際にそれを試みた者は過去にも数多くいた筈である。ただそのどれもが自己欺瞞に終わってしまった事は想像に難くない。晴行もそれと同じだった。

(何故諦める事が出来ないのか?)

自分を殴り飛ばしたくなる様な自己嫌悪に追い立てられ、晴行は度々拳を握った。ただその拳は余りに小さく、白く、まるでさめざめと泣いている様に震えていて、何物をも打ち壊す事が出来ない脆弱な魂のようだった。

 晴行は飯を食いにいこうと、食堂に向かって歩いて行った。食堂の入口にはガラスの扉が聳えていて、そこにはスーツ姿のうらぶれた男が映っていた。その不幸そうな男の影を暫く見つめていると、急に食欲がなくなった。晴行は踵を返し、食堂を後にした。

 晴行はオフィスに戻る途中、嬉々として友人達と食堂に向かう社員達をすれ違い様に眺めていた。彼らの顔に貼り付く笑いには、人生に対する何の疑問も懊悩も見て取れなかった。彼らは実際に如何なる懊悩、煩悶も抱いてはいないのかも知れないし、あるいは笑顔の裏にそれらをひた隠しているのかも知れない。晴行はスーツのポケットに手を突っ込むと、彼らの存在を無視するかの様に一人黙々と歩き続けた。またどこからか風が吹いてきた。

 外は九月というのに蒸し暑く、残暑は舌に粘つく煙草の残り香の様に空気に染み付いていた。遥かに続く国道の向こうには陽炎が揺らめき、向こうの風景を歪めていた。

 仕事机に戻った晴行は、椅子に座ったまま放心した様に散らかった机の上を見つめていた。晴行には元々覇気とか気力といったものが皆無だった。頑張る、努力するなどという行為にほとほと愛想を尽かしていた。小学生、中学生、高校生と勉強勉強と追い立てられ、一応まともな大学に入り、かと思えば今度は資格取得や就職活動に追われ、やっとの事で一部上場企業に入社すると、今度は仕事仕事と追い立てられる毎日に嫌気がさし、部署を転々とし、今に至る。頑張ったところで輝かしい未来など何ら保証されてはいないことにいい加減気が付くべきなのだ。この上更に何かを頑張らなければならないのかと思うと、晴行にはその気が失せた。俺はもう充分頑張ったではないか。もう沢山だ。これ以上頑張ってみた所で、責任は重くなり、すると更に頑張らなければならなくなるだろう。ゴールの見えないマラソンなど走る気はない。頑張る事を辞めてしまおう。努力など止そう。そんなものでは何一つ変わらない。そんな事を考えていると、晴行のしかめっ面から自嘲気味な笑みが漏れる。

 昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。他の者は一斉に読書をやめ、あるいは昼寝から目を覚まし、仕事に取りかかる。ただ晴行だけは、目の前をくるくると踊るスクリーンセーバーに見入って、遠い見果てぬ地に思いを馳せていた。


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