第一幕:前編
多分誰も待っていないでしょうが、お待たせしました。
誰しも、憧れっていうのはあるはずだ。
職業、能力、在り方、自分が憧れなりたいと思うそれらがあったはずだ。
それになりたい、そうなりたいと願い、夢見る。
例え叶わなくても、そう思っていたはずだ。子供の頃から、夢という形でそれは存在していた。
大抵は忘れてしまう。思いは風化して、劣化して、あったことすら忘れてしまう。
忘れなかったとしても、それを自分で諦めてしまう人も居る。
だけど、俺は忘れていない。
俺が憧れたもの、それは『正義の味方』とか、『ヒーロー』といった陳腐なものだ。ガキが夢見るには体のいい、単一な正義の形だ。
でも、俺がなりたいのはもっと別のものだ。確かに正義の味方には憧れたが、それはもっと別のものでも良かった。ただ、正義の味方というものがその要素を含んでいただけ。
俺がなりたいのは、俺が憧れたのは、
愛した人を救える人だ。
映画だって、小説だって主人公は正義の味方で、最後は愛しい人をちゃんと救える。どんな苦難が立ちはだかろうが、どんな問題が立ちはだかろうが、それを乗り越えられる。
ご都合主義でありふれたシナリオの中、皆を守れる主人公が羨ましかった。
実際にはあり得ないお話や御伽噺。そんな幻想に憧れた。
愛しい人を救えるならば、ずっと愛しい人と一緒だ。
誰も救えない無力さなんてどうでもいい。俺はただ、誰かを救える俺が欲しい。
俺は、大好きな父さんと母さんを助けることができなかった。
俺が悪いわけではなかったが、俺は父さんと母さんを助けることが出来たかもしれなかった。
弱さは罪ではなく、助けられないのが罪だ。そして助けることができなかった悔しさは、罰だ。
俺は今でもその罰に苦しめられる。割り切ることなんてできなかった。
諦めてしまった瞬間、俺の中の何かが終わってしまうようで。
だから、俺はいい年して強さを求めた。
『最強』を。
俺は『最強』を追い求めた。
その果てに、魔法使いを目指した。俺は魔法を使って、何度もそれを生み出そうとした。
理論でもできないことはわかっている。でも、俺は新しいやり方を思いつくと様々な手段でそれを手に入れようとした。
最強の人物を作り出そうとした、最強の王を作り出そうとした、最強の神を作り出そうとした、最強の魔物を作り出そうとした、最強の力を具現しようとした。
どれも駄目だった。
俺は、そのどれも成功していなかった。最強に拘らなかったら、その内どれかは成功していたかもしれない。
でも、最強じゃなかったらそれは意味を成さない。
その力でも愛しい人を救えなかったら、俺は単なる愚者だ。
だから、俺は誰にも負けない最強を作り出そうとした。
そして、作る。
俺はやり方を違っていたんだ。
現実には最強なんて存在しない。だったら、思い、描けばいい。俺の中での最強を、俺の中での英雄を。
俺の中の、『最強という幻』を。
VISIONS:1
CALL AND ME
俺は、幼いときからある人に魔術を習っていた。
親にも内緒、姉にも内緒。魔術とはオカルト、神秘の中で力を発揮するものだと教えられた。
だから俺は平日、ただの学生を演じる。義務教育は終わっているし、別に通う意味などない。
元々高校なんて目的も無い人間が大多数だ。一般人から見れば、魔術使いという俺も変わらないだろう。
姉貴が高校には通っておけというし、中卒では就職のときも不利だと言われたからいっているだけだ。
尤も、進路が決まっていなかったので高校に来た、というのが本心かもしれない。
「おっす、秋弥」
「秋弥くん、おはよ」
「やあ、真原」
「おう、おはよう」
俺は教室に着くとともに掛けられた挨拶に返す。
廊下から変わる気温に心地よさを感じ、自分の机を忘れてストーブに直行する。
学校の廊下というのは風が通るのか、寒くていけない。俺は既に暖を取っている奴らの隙間に潜り込み、悴んだ両手を当てた。
凍るように固まっていた指が解け、熱くなるまでに温かい。
「今日も寒いな」
近くの椅子に座り、鞄を置く。マフラーを解いて鞄にかけ、横を見回す。
そこには見知りすぎた面子のクラスメートが居並んでいた。
「そうだねぇ、今日は寒いねぇ」
「いや、寒いのは今日に限ったことではないよ。昨日も、そして一昨日も寒かった」
「当然のこと言ってんじゃねぇよボケ」
俺の右横には長い髪を短く纏め上げ、未だコートを着た女の子が床に座っている。その先には眼鏡の男、椅子に腰掛け足を組みながら気障ったらしく暖を取っている。左横には三白眼の目つきの悪い男が胡坐をかいている。
実際、変なトリオとかそういうことは無い。
三人とも、見た目はいたって普通だ。見た目は。それぞれ、女は赤宮芹夏。眼鏡は八神総士。目つきが悪いのは居樋青蔵。
何でも三人とも幼馴染であるらしく、一緒に行動していところへ俺が混じるという形になる。
俺たちはそういう図式で、ここ二年つるみあっている。運良くか悪くかは分からないが、クラス二年間一緒なのでこの四人でいるときが一番多い。
「あ〜、暖かいよねぇ」
「何か僕の言い分に文句があるようだね、青蔵」
「あるね。オラァお前みたいなキザなのが嫌いなんだ」
「何だと、偶然だな僕も君が嫌いだ」
「あぁ? やるかこの野郎」
「あ、秋弥くんチョコいる〜?」
「上等だ、表へ出たまえ!」
「やだよ。こんな寒い中外へ出る奴がいるかヴァーカ!」
ステレオで響く声の中、時折赤宮の声が聞こえる。
「いや、それ溶けてる」
「え〜? 溶けてても、中々」
「やるぞこらぁ!」
「口先だけだろ君は!」
騒々しい声を無視し、赤宮と他愛なく話す。赤宮は、開けるごとに指を汚しながら一口チョコを口に運んでいる。
無視された二つの声は、未だに無駄に騒いでいた。
これが俺の平常だった。隠匿するべきものもない。俺の表足るべき世界。
魔術使いというのは世界に隠れて生きるもの。表立って魔法を発表しようとはしない。
披露しても意味がないからだ。魔術はこれまでしてきたことを別の手段でやるだけ。魔法は、人間の思想からの産物、つまりは人間が考えてきたことでしかない。
そこには、歴史的な価値もなければ新しい発見もない。
魔術というのは結果を見るものだ。己のために開発し、己のためだけに役立てる。
「やっぱ、朝から騒がしいな」
俺は頬杖を付きながらストーブに陣取っていた。未だ空調暖房を使用しないこの学校は遅れているどころか、時代を遡っているといっていい。
だから、俺たちみたいな少数グループがストーブを独占するという、独占禁止法ぎりぎりの事態が発生する。勿論、他のクラスメイトから文句を言われることも多々ある。
そんなとき槍玉にあがるのは青蔵と総士だ。その陰に隠れて、俺と赤宮はこそこそと逃げることも多い。
騒がしい二人は、何かとクラスの注目を集めやすい。赤宮は男子から持て囃されるされるし、俺は何かと見逃してもらっている。
図式としては、騒がしい二人に巻き込まれている俺と赤宮に見えるんだろうか。
「よぉしそこまでいうなら表へ出てやるよ! ただし廊下までな」
「十分だ! 今日こそ決着つけてやろう」
ここでは、俺が魔術使いである意味などない。
魔術や魔法なんていうのは、日常世界では何の意味もない。人間は、科学という技術を持って進化してきた種族だ。
そして、魔術使いというのは、魔術を以って退化する生き物。過去の方法ばかりを当てにするのは、退化以外のなにものでもない。
だが、俺は科学も使えば魔術も使う。両者とも利点があるからだ。
妙な主義をもっているわけではない。俺はただの人間だ。ただ、夢のかたちが普通の人とは違うだけだ。
だから、俺は学生としての一面と、魔術使いという側面を持っているに過ぎない。
便利だからと機械を使うし、そう在りたいからと願うから魔術を使う。
必要だから、俺はその二面性を持つ。
二面性を持つことは、二重人格と直結ではない。
俺は望んで魔術を使っているが、現実を厭うているわけではない。現実では魔術は認められていないし、魔術は一般人に対しては隠匿すべきものだと教えられたからだ。
この技術は誇るためにあるのではなく、求めるためにあるのだ。
簡単にってしまえば、俺は魔術を使える普通の学生だった。
―◆―
俺はいたって普通の学生だ、変だと意識することも無く生活する。
だから、気になる奴くらい居る。
「で、……聞いてる? 秋弥くん」
「いや、聞いてない」
赤宮と廊下を歩く。ともに歩くといっても、俺に赤宮が付きまとっている形なので、俺は特に赤宮を意識することもない。
移動教室。俺は早めに動いて、教室で時間を潰すつもりだった。
廊下は冷え切っていて、暖かさは微塵もない。
まるで数年も人が通ったことのないように、無機質な冷たさ。肌に残り、服の中へ入り込む。
薄いように感じる制服を着なおし、ため息を吐く。深く吐くと、その息は白く霞んだ。空気は体内から熱を奪っていき、体を中から凍らせるようだ。
「……」
「寒いね〜。こう寒いと、……ん。寒いね」
赤宮は特に言うこともないのか、舌で飴玉を弄ぶ。
舌足らずで、言動も大人びているとはいえない。天然ボケというのか、今時流行らないそれだ。
実際に、その言動には呆れ果てるものがいくつもある。
そんな赤宮のどこがいいのか、総士と青蔵で赤宮を取り合ったこともある。
確かに赤宮は可愛い。年相応の幼さ、じっとしていれば顔立ちは綺麗に整っているし、確りと手入れなどもされているようだ。
俺はまじまじと赤宮をみた。
「えへへ〜」
これだ。
目を合わすと恥ずかしがるでもなく、赤宮はボケた口調で返してくる。
「てい」
額を指で弾く。赤宮は声を上げて身を仰け反らせる。
半歩下がって身を直すと、赤宮は抗議の眼差しを俺へと向けた。
片手で額を押さえ、不服そうにしている赤宮は、可愛いといえば可愛かった。
「何で叩くの?」
「愛情表現だ」
「え?そ、そうなの?えへへ〜」
赤宮は頬を緩ませ、なにやら嬉しそうにしている。
赤宮が俺に好意を持っているというのはそれとなく分かる。でも、俺はこいつを友達以上に見ることができなかった。
なんというのか、こいつ自身が俺に対して警戒しているというか、一線を引いているという感覚がある。
本当の自分は見せたくないくせに、相手の本当を見たがるような傲慢さ。それが、嫌いだった。
その時、正面から来る人影。移動教室ではなく、ただ職員室に用事でもあっただけなのか、一人だった。
長い黒髪は腰にかかるまで、後ろで三つ編にされている。茶色の薄い瞳は大きく、優美さとともに若さも強調する。
同い年で、この学校の有名人でもある。
容姿端麗、文武両道。何をさせても完璧な人間。
琴月奏、その人だった。
「あら、赤宮さん。それと真原さん、おはよう」
顔見知り、一応知り合いなので挨拶程度は交わす仲ではある。
このレベルの美人なら、幾ら精神集中に長けた俺でも戸惑う。
「あ、おはよ〜」
「……よう」
俺は言葉が見つからなくて、適当に返した。
だが、琴月は気にした風も無く流麗な動作で頭を下げる。その動作はお嬢様然としていて、琴月が『そういった』教育を受けた人間だということを認識させる。
「ふふ、お二人とも仲がよろしいんですね」
琴月は極上ともいえる笑みを俺たちに向け、どうでもいい言葉を言う。俺にとってはそんな言葉より、神阪の笑顔のほうが胸にきた。
美人というのは、その動作の一つ一つが男を誘惑するためのものだ。その清涼感溢れる優しい笑顔も、どこかしらに妖艶な『女』が隠れている。
これにときめかない男はいないと断言できる。いや、今俺が断言した。
色恋沙汰にそれほど興味がない俺でもこの様だ。普通の男子がどうなってしまうかなど想像に値しない。
ただでさえ、この学校では赤宮に惚れるような見る眼のない男ばかりなのだ。
それに、この学校には美人も美形も多いらしい。そういった話題の対象になる生徒は事欠かない。
だが、そういった中でも琴月は別格だ。
こいつに欠点なんてものは存在しないし、敵を作ったとしても敵に回さないほどの魅力がある。
「そうだよ〜。ラヴラヴだよ」
「誰がだ!」
赤宮は俺の腕に抱きつきながら、ぎゅっと胸を当ててきた。
むねがあたってやーらかい。
しかし琴月の手前、鼻の下を伸ばすわけにはいけない。俺は猫のように赤宮の首根っこを掴み上げ、引っ張り剥がした。
「ったく」
「ふふっ」
神阪は柔和な笑みで俺たちを眺めていた。俺はなんとなく気恥ずかしくて、赤宮から離れて目を逸らした。
俺と赤宮が恋人同士に見られているというのが不快というか、なんとなく嫌な気分だった。
それは、相手が琴月だったからかもしれない。
琴月は美人だし、気の良い性格をしているし、何をやらせても様になる。憧れるにはもってこいの人物だ。
どのように憧れるかは個人の自由だ。
自分で言っては何だが、俺には高嶺の花すぎる。見ることはできても、触れることすら適わない。
赤宮ですら、俺には勿体無いだろう。外見は。
「じゃあな」
俺は気持ちとは裏腹な言葉を吐いて、そそくさと足を早める。それに続いて、ぱたぱたと音を立てて駆け寄ってくる赤宮の足音が聞こえた。
俺は赤宮を待つこともせず、足を止めることも無い。何故だかは分からなかったが、止めることができなかった。
恐らく、照れているのだろうか。俺らしくない。らしくないが、悪くは無かった。
「待ってよ。あ、奏さんじゃあねぇ〜」
「ええ、それでは」
お嬢様然とした琴月の声を聞きながら、俺は振り返らずに進んでいく。
俺は並んできた赤宮の額を指で弾きながら、足を速めた。
―◆―
俺には授業中、教師の念仏など聞いている勤勉さなどなかった。
俺は思いついた魔法論理と魔術論理を片っ端からノートに写していく。勿論、意味不明なことを書いていると思われるのは嫌なので英語で表記する。
こうして書けば覗かれても、英語の勉強をしている風にしか見られない。この学校は馬鹿ばっかりだ、教科書に載っていない単語などイチミクロンも理解しない。まぁ、琴月あたりなら分かるかもしれないが。
きっかけは簡単だ。俺は子供の頃、とある魔術使いと出会った。その魔術使いを、俺は師匠と呼んでいる。
俺はその人から魔術を教わり、また魔法を知った。
魔術というのは、俺が師匠から教えてもらった手段。そして
魔術というのは、世界の外法である。
世界のあらゆる現象、その現象を事柄を用いずに顕わす法。端的にいえば、現象の簡略化だ。
手段の簡略や過程の排除、結果の強制など形は様々だが、概ねそれはあまり意味を成さない。
魔術では、結果が全てだ。
手段の簡略。過程の排除。結果の強制。それらは全て結果を求めるものだ。魔術使いはえてして、結果のみを求める生き物だ。過程における頑張りなど、簡略してなくしてしまう。
主な魔術の手段としては、人間ではなくなることだ。俺たち人間というのは、この体で世界に干渉する。
そこで、もし『人間としてではなく、他の何かとして世界に干渉できる』としたら、どうだろうか。
魂から肉体に繋げるのではなく、肉体にではなく他のものへ『回線』を繋げて現象を起こす。肉体と魂を繋いでいる『回線』を、別のものへ広げていくのだ
例えば、最も汎用性のある魔力へと『回線』を開く。
魔力の説明は、この際置いておく。
自分の体内にある魔力に『回線』を開くとどうなるか。答えは簡潔。それは、自身の体の代替となる。
肉体そのものではなく、魔力そのものに意識を宿しそれを体として使える。
勿論、魔力は実体がないので鉛筆を持ったり、物に触れたりなどはできない。
そのときは、元から開いている肉体へ回線を開けばいい。
魔術使いは魔術を使うのに相応しい体を持っているのだ。
俺の場合、魔術を直接操る体を持っている。この肉体とは違う体。魔術を扱うために、別の意識を持っている。
肉体というのは、本来魂をこの世に干渉させる手段に過ぎない。
魂という俺が在って、その次に肉体が存在する。そして、俺という魂はその肉体を使って世界へと干渉する。それが普通の人間としてのあり方だ。
その体をもう一つ増やす。
世界から与えられた肉体ではなく、もう一つの体を自分で作ってしまう。
それは、世界の理を捻じ曲げることに他ならない。
故に外法。
自分より『それ』に優れた肉体を持つことで、自分ではない自分に事を成させる。
ただ、それは並大抵のことではない。
魂から別のものへ『回線』を開くのはかなりの精神修行が必要だし、そこに論理を組み合わいと魔術は成立しない。
魔術だから何でもできるというわけではなく、その現象が起こったことがあるから魔術で再現できるのだ。
魔術でも、できないことはできない。かといって人が空を飛べないわけではない。
体を浮かせるために浮力の代替となるものを用いたり、そういった手段なり何なりで体を浮かせて飛ぶことはできる。
しかし、重力に反発して体を浮かせるなど、そういった起こらないことは魔術では再現できない。
現実においていかなる手段を持ってしてもできないことは、魔術においてもできない。
現実に人間を浮かせることはできても、重力に逆らわせることはできない。
魔術は、『現実に出来ること』を手段を省いているに過ぎない。この定義の仕方は酷く曖昧だ。
だが、境界線など不必要だ。魔術使いは、他の手段を講じてまで結果を求める人種だ。
そこで使えるのは『魔法』だ。
魔法というのは、幻想をこの世に齎す手法。魔術が世界の外法ならば、魔法は世界の共有だ。
例えていうなら、世界の外にあるものをこの世界へもってくる行為。
それは世界であり世界ではない。
幻想。
人が描いた伝説や神話、自身で思い描いた空想など様々だ。それらの幻想を実在させるのが、魔法という手法だ。
しかし、それは並大抵の技術や論理では成し得ることは出来ない。魔法を使うには通常人が持たざる手段、魔術が必須だ。
魔術は先ほどいったように手段の代替や結果の強制などがあるが、直接幻想を呼び寄せる手段にはなりえない。
実際に起きないことしか出来なくても、やりようは幾らでもある。
魔法、即ち空想の具現は無色の魔力に沈んでいる。万物の起点であり終点である世界を、魔法使いは様々な名称で呼ぶ。
太源、万物、アカシックレコード。俺は『原初の世界』と呼んでいる。
その中から特定の現象を引っ張り上げ、現世へと形を現せばいい。
その過程に、魔術を組み込む。魔術とはその世界で起きないことしかできない。
この世界ではできることは限られるが、『原初の世界』ではできないことなどない。
そう、この世界ではなく原初の世界で魔術を使えばいい。
元々その世界はこの世界を下から支える、力の渦のようなもの。
それに干渉することなど実に容易い。全てはそこから生まれ、死してそこへ行き着くからだ。
つまり、原初の世界へ干渉するということは死ぬということ。魔術によって仮想的に死んで、原初の世界で魔術を使い、現世で魔法を発現させる。
段取りはややこしく難解だが、魔法というものはそれほどの価値があるものだ。
万能。この世で考えられる全て、俺たち人間が考える全ては魔法によって達成させることができる。
そこに、俺が求めたものはある。
魔法の域に達することはそう難しくない。だが、魔法を意のままに扱うのは難しいどころのレベルではない。
原初に干渉する際に、存在を飲まれてしまう。死と隣り合わせ、故に達成したものは少ないと聞いた。
俺は魔法を使えるが、思い通りに使えるほど卓越はしていない。
俺は魔法使いとしてはまだ甘いが、魔術使いとしてはなかなかのものだ。
師匠である茜さんから、魔術というものを最大限に吸収し続けている。まだ発展途上だが、魔法使いになるには最低限魔術が使えればいい。
だから、俺が魔術を学び続けていることはおかしいのだ。
俺が求めることは、魔法という手段でしか表せないことなのだ。故に、俺は魔術使いなどではない。俺は魔法使いにならなくてはならない。しかし、俺にはまだその力量は無い。
例え卓越されていなくてもいい。拙くても、醜くても、俺は俺の目的さえ完遂できればそれでいい。
俺は、人を救えるだけの、誰にも負けない最強の力があればそれでいい。
―◆―
俺は自宅に戻ってきた。
誰も居ない玄関。バッグを投げ捨て自室へと向かう。
ただいまは言わない。どうせ返ってくることなどない。そんなことは分かっている。
「……ただいま」
それでも、足を止めてちょっとだけ期待して言ってみる。暫く待ったが、返ってくることはない。
どうせ、帰ってきたときは寝てるか飯を食べているかのどちらかしかないし、起きていてもすぐ眠ってしまうだろう。
俺は姉貴の顔を思い出し、呆れながら居間を通り過ぎようとした。
居間のテーブルに、見慣れた文字で書かれた紙を見つけた。下手糞な癖字、その文字を読み取れるのは長年の付き合い故だろうか。
手にとって、紙を手に取る。折りたたまれた隙間から、紙幣の束が落ちる。
テーブルの上に落ちた金を見ながら、俺は書いてある文章に目を通す。
『家賃と生活費 大事に使え 楓』
楓というのは俺の姉貴だ。親はもう居ない、だからこれ以上兄弟が増えることはまずないだろう。
両親はずっと昔に死んだ。だから、俺の家族はもう姉貴だけだ。この狭いマンションに住んでいるのも、俺と姉貴の二人だけだ。
尤も、姉貴が帰ってくることはあまりない。
画家だかなんだか知らないが、絵を描いて売っている。そんなものが売れるのかと思ったが、姉貴には一部熱狂的なファンが居るらしい。
だから、絵を売ればこんな大金が手に入る。一センチほどある分厚い札束。数えるまでも無く、俺にとっては大金だ。
姉貴はこれを自分で使うことなく、四、五枚だけ抜いて画材と自分の食事に使うだけだ。だから、姉貴が絵を売って稼いだ金は、丸々俺の手にあるといってもいい。
金だけ渡して、姉貴はなかなか帰ってこない。近くにあるアトリエに篭りきりだ。
姉貴には感謝してるし、これ以上我侭を言うつもりはない。美術大学を諦めて就職し、働きながらも絵を描いてそして世間に認められ、画家一筋となった姉。
亡くなった両親の代わりに俺を育てるため、自分の道を諦めて就職してくれた姉に文句など言うつもりはない。
その時俺は小さかったし、姉貴が何をしているのかも分からなかった。それを、俺のためにしてくれているというのも分からなかった。
俺にとって親代わりの姉貴言うことは、俺はなるべく聞いている。だから、義務教育でもないのに、魔術に必要ない学校へ通っているのだ。
ただ、何となく寂しいだけだ。
アトリエに一人、絵に没頭する姉貴をとめることは俺にはできない。だから俺は、せめて邪魔しないようにするだけだ。
俺のせいで、姉貴は自分の道を諦めた。だから、せっかく上手くいった道までを邪魔するような、無粋な真似はしたくない。
それに、もう母親を恋しがる年でもない。俺は一人でも大丈夫だ。
姉貴が帰ってこないことを、寂しがるような年でもない。それに、一人にはもう慣れてしまった。
一人で適当に家事をこなしながら、毎日学校へ通う。それが俺の生活スタイルだった。
一人暮らしみたいな生活をしていても、料理はからっきしできなかった。試みたことは何度もあるが、その度に手に火傷と切り傷を増やすだけだった。
だから食事は大抵外食で済ます。冷蔵庫にはコンビニで買った飲み物と菓子くらいだ。
人が住んでいながら、こんなにも人間性がない家というのも珍しいと、自分で皮肉る。
親も居ないし、姉貴も出ずっぱり、あるのは金だけ。
要するに俺はまだガキで、寂しいだけなのだろう。両親や姉貴に、甘えたいだけだ。悔しいけど、強がりたいけど、真実そうなのだろう。
まだずっと子供の頃、死んだ両親。もう姿もおぼろげで、ちょっとした仕草や言葉ぐらいしか思い出せない。
泣くこともなくなった。
今でもなお、あの時助けられなかった後悔が、胸に犇めくだけだ。
―◆―
夜の終わり。
冷めた空気は地上に沈殿し、流動一つしない様は正に凍ったように静か。
その中で、俺は唯一動くものだった。
ここは無人寺。夜ともなれば来るものはいないし、日中だっていない。辺りは大木に囲まれ、すぐ後ろは山になっている。
町からもだいぶ離れていて、俺も自転車で三十分かけてここへと来た。そのため体は温まり、冷めて作業が出来なくなるということもなかった。
それにこの寺の敷地は広く、手入れもされていない台地が見渡す限りに広がっている。
俺は設計図を書いたノート片手に、白い蛍光スプレーを用いて魔術式を描く。広い敷地の一部を借りて、十メートルほどのそれを地面に映していく。
できるだけはっきり描ければ、魔術式を脳内で思い描くのも容易い。それだけ、魔術式に魔力を流しやすくできる。
魔術式というのは、簡単に言えばプログラミングだ。肉体とは別に開いた『回線』で、特定の行動をとらせるために必要な行動式だ。
例えて言うならレールを敷く行為に等しい。繋げた『回線』のために、予めどうしたらいいのか道を作っておく。
魔術式というのは、その道そのものだ。
魔法を扱う際には、魔術式は必須だ。
魔術で肉体を破棄し、原初世界に干渉する際に自我を保っていられるとは限らない。魔術式とは、魔術を行う際に自身の行動を予め決めておくのに必要なものだ。必ずしも必須というわけではないが、より安全に魔法を行うには必要だ。
これを応用して、魔術式で簡単な魔術を即座に行えるようにしたりできる。魔法用の魔術式は難しいが、魔術にしか使わない魔術式は簡単だ。
そういったものは肉体との同時行動が行える。
自分は肉体を操りながらも、魔術式を使うことで魔術を使うことができる。
魔術式は、一つの魂につき一つの『回線』という枠を取り払うためのものだ。
魂の意識を肉体に持ってきているうちは、別の肉体を使うことはできない。しかし、魔術式という仮初の意識を用いることでそれが可能となる。
高名な大魔術師や賢者になれば意思分割で同時にいくつもの『回線』を駆使するというが、俺にはできて二つまでだ。
円を重ね、いくつもの言葉を書き連ねて魔術式を作っていく。手を止めて、それを見渡す。魔術式は完成し、夜でもはっきりと見える。
後で消すのは億劫だが、それも仕方がない。
今宵、俺は幻想を従える。
俺が魔術、魔法を従えるのには訳がある。魔術使い、魔法使いとは是即ち探求者。
求めるために、外法を用いる。そして俺が求めたのは何のことはない、力だ。
俺は力を求めるために魔法を求めた。俺が求めたのは幻想。最強という名の幻想だ。なぜ幻想なのか。
理由は簡単、この単一の世界の中で、最強というのは存在しないからだ。
最強とは並ぶものが存在しないこと。常に変動し変わり行く世の中では意味がない。
最強は、次なる最強に淘汰される。ならば、幻想の中で最強と呼ばれるものを呼び起こせばいい。
幻想とは思想の積み重ね。原初から生まれ、原初へ還った人間の意識の塊。
人間というのは、思う生き物だ。その『思うということにも力を使っている』のだ。
極僅かでも、そういった思想に意識を割いている。その思想に力を使っているという状態だ。
そして魂が原初へと戻るとき、魂は無とはならず思想をもって原初へと還る。普通の現実、例えば火が熱いとか刃物は切れるとか、そういった認識を伴う思想は問題ない。
原初から魂に戻るとき、火は熱い、刃物は切れるなどの認識をもってこの世に生まれても、それは真実なのだから問題ない。そうやって力は循環し、認識は変化して輪廻する。
だが、魔法で空を飛べるという思想があったらどうなるか。それは、この世にはもってこれないのだ。
現実にないのだから、それは現実にもってこれない。そういった思想が現実に持ってこれないとどうなるのか。
幻想は、原初の世界に溜まりゆく。
原初の世界に溜まった幻想は、力を貯めて形を持つ。
その内にそれは、原初の世界に『魔法で空を飛べる』という形を持ってしまう。
魔法とは、原初の世界を通じそういった形を持った幻想を現世へ持ってくる方法だ。
現象をこの世に顕現する場合は魔法。人物や怪物を顕現する場合は召喚と区別される。
しかし、ある魔術師は考えた。
元から積み重なっているものを使うより、自分で根源たる原初の力を使えないかと。そうしてどうなったか、言うまでもない。
『原初の世界』から流れてきた力は奔流し、辺りを食い荒らして『原初の世界』へと還っていった。
つまりは力の暴走。
世界の力というのは人間の想像の及ぶものではない。この地球の全てをあわせても、原初の世界の一分にも満たない。
その内人間が占めている割合など毛にも満たない。そんな力を直接操ることなどできない。
だから、俺たちはその中の一部、幻想という部分を選りすぐってもってくるのだ。
積み重なった幻想というのは、この世界ではとても強力なものに変わっている場合が多い。
怪物、化け物、鬼、精霊。幻想でしか存在しないそれは、既に人など超えている。
何故ならば、そういった幻想は『魔法で空を飛べる』などの、本来存在しないはずの認識もつれて顕現するからだ。
炎を操る悪魔は実際に炎を操ることができ、何でも切れる剣は文字通りなんでも切れる。
そして俺は今日、『永遠にして最強』を求める。
魔法というのは、何を召喚するという明確な意思を持たずとも良い。原初の中から、それに最も適したものを呼び寄せることができる。
魔法というのは十分に不可能の域に存在するが、それでも求める価値のあるものだ。
俺はこれまで三回失敗してきたが、今日こそは成功させるつもりだ。
今日呼び出すのは『永遠にして最強』。
『永遠にして最強』はたまた出るのはジークフリードか。俺にはまだわからない。
だが、俺はそれが最強であればなんでもいい。それでは『最強』で魔法を行使すればいいが、それでは駄目だ。
俺は、選りすぐりの『最強』を求めている。最強の中の最強、最強を相手にしてなお最強、つまりはそれだ。
「うし、大丈夫か」
俺はスプレーを止め、魔術式が完成したことを確認する。
蛍光なので暗くてもはっきりと書かれているものが読み取れる。流石は蛍光だ。消すのは大変だろうが、後始末まで考えは及ばない。
設計図を確認して、俺は再度確認する。
それに綻びがあってはいけない。もしかしたらその綻びが、俺の命を絶つものかもしれない。
慎重にもなる。
力を求めるには、それなりの労力が必要だ。俺は鍛錬という過程を排除し、直接力を得ようというのだから。
過程を排除した分、そのツケはきっちり俺に回ってくる。
だから――
「始めるか」
失敗なんて、しない。
俺はその魔術式をもう一度見渡し、肩の力を抜く。
「解脱」
魔術式を眼前に見下ろし、仁王に立って体を楽にする。座禅などの形をとることもあるが、今回は魔術式をより正確に把握するために立っていた。
そのまま俺は魔術式に魔力を流し込む。蛍光で記したため、その形ははっきりと写る。形通りに魔力を象り、魔術式を完成させる。
これで、開いた『回線』から魔術式へアクセスすることで魔術式が始動し、魔法を起こす。
「起動式、始動」
俺は一字一句をはっきりと発音する。本来なら魔術式があれば詠唱など必要ない。
しかし、魔術とは己が内から己が外に干渉する法。この詠唱というのは魔術式の補佐という意味のほかに、自らが魔術を使うという意識を高めることだ。
魔術式を始めるための起動式が回り、魔術式へと繋がる。魔術式に魔力を染み渡らせる。
イメージとしては真っ暗。延々と闇の平面が続いている。
そこに、赤い色のインクが流れていく。赤いインクはまるで溝を走るように伝い、俺が描いたのと同じ魔術式を描ききる。
魔力に満たされた魔術式は光り出し、ゆっくりと輪転する。無論、地面に書いた魔術式が回りだすことはない。
俺が自分の中で描いた。魔力で描いた魔術式がだ。
それを、魂に焼き付ける。
「複製」
肉体で描いた魔術式を、肉体ではなく魂の領域まで引っ張る。それを俺は焼き付けると表現する。魂に刻み、魔術式を忘れることなくさせる。
首筋から脳にかけての痛み。膨大な魔術式のため、神経が何本か破損したかもしれない。
神経が詰まった骨を、焼いたスプーンでガリガリと削られるような感覚。そのような激痛に悲鳴を上げることすら、眉を顰めることすら許されない。
許容量過多だ。俺という肉体と、俺という魂を繋ぐための『回線』が狭すぎて、肉体に多大な負担をかけているのだ。
それでも、無理矢理に魔術式を通す。『回線』を広げるたびに、神経が焼ききれていくような激痛。
体の隙間に汗が流れていく。服と肌の間が生温く淀み、不快だった。だが、神経が削れる痛みに比べればましだ。
魔術式が通るごとに、意識が殺がれていく。
しかし魔術式が『回線』の向こうへいけば、例えこの体が気絶し意識をなくしたとしても関係ない。
後は、魂の俺と魔術式が何とかしてくれる。
足の指から足の甲。足の甲から踝。踝から脛。脛から膝。膝から腿。腿から股間。股間から腰。腰から腹。ブレーカーが落ちるように一斉に感覚が殺されていく。
いや、この俺という魂と俺という体の神経が乖離していくのだ。体は二面、魂と肉体、しかし肉体は不要、故に隔離。
体の感覚はとおに果てた。もとよりこの体は一個の『回線』でしかない。なすべきことは一つ。障害などは淘汰しろ。痛みなどは知って忘れろ、苦しみなどは感じて失え。そこに得るものなどない。故に手は止めるな。忘我しろ。魔術式を通す為の機械と成り下がれ。理解は求めぬ。作業に没頭しろ。己が内より外へと求めよ。成し終え成し遂げろ。
「――ッ――」
思考が段々と失われていく。当然、この体は魔術式の一片。
今そこには、魔術式を促すための回路しか残されていない。
失われる自意識の中で、俺は呟く。魔術式を発動させる、代替言語。
「顕現、幻想」
そして、魔術式は回りだした。
―◆―
肌に熱を感じた。
魂の過剰酷使のせいだろうか、頭が虚ろだった。何をしていたのか忘れてしまった。
熱した油が血管の中に流れていくように熱い。血管という血管は焼き尽くされ、指は焦げたように硬い。
魔法の後はいつもこうだ。体が火照るというのか、フルマラソンをプロ選手と一緒に走らされているような無茶な過剰酷使。
エンジンが焼きついてしまっているのだ。体は疼き、痛みとも痺れともいえない何かが全身を駆け巡っている。
そんな魔法の余韻に尻餅をついていた時、それが顔面に突き出された。
鼻先が触れるほど近くにある、太い縄。光を反射する艶やかな鱗。うじゅるうじゅると音を立てて、それは絡み合う。
絡み合った縄はそれぞれ蠢き、鎌首を擡げ始める。上を見上げると、それは空を覆う大樹のごとく俺を覆っていた。
九頭の大蛇。九本の蛇が根元で繋がりあい、九つの頭を持つ大蛇へと成り果てている。
それは知っている。沼地の水蛇。九頭の毒蛇。ヘラクレス十二の功業の一つ。
ヒュドラ。
間違いない。ヘラクレス十二の功業で語り継がれる、ケルベルスと並んで知名度の高い化け物だ。
俺が呼んだのは、間違いなくこの化け物だ。
確かに、俺は『永遠にして最強』を求めた。そしてこれはその理に適っている。
蛇は輪廻、無限、『永遠』の象徴として人々の意識に根付いている。世界を飲み込むといわれる大蛇、ミドガルドオズムが水蛇で最強だろう。そうだとしたら、ヒュドラは最強の『毒蛇』だ。
だが、違う。この化け物では、人を助けることはできない。こいつは毒蛇だ。息をするだけで毒を撒き散らし、人を死に至らしめる。
人殺しの理念を植え付けられてしまった幻想には、人を助けることは難しい。むしろ、こいつは積極的に人を取って食らうだろう。
そんなものは、俺が望んだものではない。
「幻想、回線……」
俺は諦めて、幻想送りを開始する。
この世に出てきた幻想は、依り代を必要とする。幻想という存在の認識を肯定する人、つまりこっちの世界で力を与え続ける存在が無ければならない。
例えこの世に幻想が生まれ出たとしても、こちらでその幻想が認められ、魔力を得なくては存在するには至らない。
魔法で呼び出した幻想を認めて魔力を与える。それを『契約』という。要は、呼び出した幻想と『回線』を繋ぐのだ。
『契約』までされなかったら、幻想は一瞬しか存在できず終わってしまう。しかし、俺が組んだ魔術式は原初の世界への接続、召喚対象の確定、召喚、契約の全てを自動的に終わらせる類のものだった。
魔力の分け与え、認識の確定は『回線』を繋いで行う。そうすれば俺という魂から魔力が直接供給されるし、俺はそれを体の一部として認めていることになる。
つまり、ヒュドラは俺という魂から『回線』を繋ぎ、魔力を得て認識を与える。
魔力を供給されず認識も与えない方法は、『契約』を破棄する、それはヒュドラに繋いでいる『回線』を遮断すればいい。
俺とヒュドラを繋いでいる『回線』を破棄、遮断してしまえば簡単だ。
俺達魔術使いは『回線』を開いて事を成すもの、たまに違う魔術使いもいるが概ねそれだ。『回線』を開いたり閉じたり、繋げたり切ったりするのは本業だ。
それは造作も無いことだ。魔法は魔術使いの領分ではないが、『契約』という魔術の応用物は魔術使いの領分だ。
目を閉じて意識を集中する。集中するのは魂にまで意識をわけるため。
魂に意識が宿ると、自発的一つの『回線』を切り落とす。掛け声とともに、一つの体が失われていく。
「遮断」
ヒュドラに繋がっている『回線』を切り落とす。これだけであっけなく終わってしまう。
魔力も得られず、認識もされない幻想は一瞬で消え去ってしまう。元々存在しないものなのだから、存在できる理由が無ければ幻想は存在できない。
幻想は、灰となって帰っていった。
俺は失敗にため息をつきながら、目を開ける。そこは何も変わらない、在らざるべき者がなくなっただけの世界。
大気は凍り付いて、肺は冷たさに軋んでいる。痛いくらいに寒い空気が、肌を針のように突き刺している。
そんなふうに、いつもと変わらず寒い夜空の下があった。だが、でも、しかし、何故か、
ヒュドラは未だ、そこで絡み合い繋がり合い、十八個の眼で俺を見据えていた。
「遮断!」
俺は間髪入れず、もう一度『回線』を遮断する。だが、切れてしまった『回線』を切ることはできない。
『回線』は、確かに切れていた。
「遮断、遮断遮断! 遮断しろ!」
切れていた。俺とヒュドラを繋ぐものは何も無く、つないでいたはずの『契約』はもうない。
おかしかった。笑い狂いそうになるくらい不可解だった。
今までは別のものを召喚してきても、こういう遮断を行うことで幻想を原初の世界へと還すことが出来た。『原初の世界』へ帰った幻想が、こちらへ残ることなどありえない。
ありえては、ならない。
「遮断されてる? じゃあ、なんで、こいつは」
俺はもうこいつと『契約』を交わした身ではない。もう魔力も認識も与えていない俺に、このヒュドラが利用価値など見出せるわけがない。
俺はこいつの主ではなく、ただの生き物。
そいつの腹を満たしたりするためだけの、肉の塊。
その目は俺を見る。
獲物を見つめる、飢えた瞳で。
俺は、脳髄を氷の槍で串刺しにされるような、そんな怖気を覚えた。
逃げるには遅いと分かっていた。だが、俺の足は勝手に駆け出していた。手で体を支え無理矢理に体を起こし、足をトップギアから回す。
逃げることだけを考えた。
こいつを倒すとか、そういう思考は持ってはいけない。倒そうと振り返った瞬間、首から上がなくなってしまいそうな気がした。
「ッはぁ!」
爪の間に土を溜めながら駆けずり回る。足が思ったように動かないせいか、前のめりになり四つんばいのような形になってしまう。
早く逃げなければ、確実に殺される。そう感じながら、必死に逃げる。
ずるり、と、体に何かが駆け巡る。
「ガッ!?」
でかい万力で、胴体を締め付けられるような感覚。逃れようと地面を引っかいても、その地面は遠のくだけでぜんぜん痛みは離れない。
ヒュドラに締め上げられながら、俺の体は持ち上げられた。何十にも巻きついて、鼻先を俺に向けるヒュドラがそこにいた。
びっしりと生えた鱗は固く、鎖で締め上げられているように感じる。
一段強く、体が締め上げられる。声を上げようにも、圧迫されて肺にはもう空気が残っていなかった。
苦し紛れに拳を叩きつけるが、それは自分を傷つける自傷行為に他ならない。固い鱗は、まるで鋼鉄を連ねたようだ。
前を見るが、目の前にあるのは巨大な蛇。その頭は俺の頭を軽々と飲み込めるほどあり、肉の隙間から生えた牙はナイフのようだった。
唸り声は、すぐ近くで聞こえた。当然、目の前にその蛇は居るのだから。
目の前のヒュドラが、ぱっくりと口を開く。毒を伴う吐息が、俺に振りかけられた。俺はその中、苦し紛れに蛇の目を親指で突き刺した。
鱗が生えていないそこに、勢いをつけて親指が突き立つ。ぬめりとした感触が指を伝う。
蛇は痛みのためか、体を大きく振り回す。蛇の締め付けが緩まり、俺の体は大きく投げ出された。
浮遊感などなく、そこに在るのは落ちるような感覚だけ。
脳天に突き抜ける濁音を響かせながら、俺の体は固い気の幹に叩きつけられていた。
ビルから落ちたように、その衝撃が全身を貫く。幹に寄りかかるように、静かに体が下に落ちていく。
受身をとることも叶わず、俺は無様に地面に転がる。
痛みは無かった。ただ焼けているような熱と、痺れがそこにあるだけだった。
左のわき腹が、内側から破裂したように血に濡れていた。手で掬って確かめてみると、そこには何か固いものが突き出していた。
大木に叩きつけられた衝撃か、骨が折れたのだろう。
何処の骨かなんて分からない。ただ、内側にあった骨が、俺と外側へと突き出している。
内臓も傷つけて、どんどん俺の血が流れ出ていく。
生命が流れ出ていく。
止血しなければ。そうだ、ヒュドラを何とかしないと。やらなければいけないことが頭の中を駆け巡る。
けれど、体はピクリとも動いてくれなかった。指を動かすことでさえ大儀、息をするのも苦行のような気がする。
立ち上がろう。まだ、俺は死ぬわけにはいけない。未練。いや、俺を突き動かすのは後悔だ。この俺は後悔という切望で成り立っている。
ここでまた、俺は後悔することになる。もうこれ以上の後悔など、これ以上の罰など受けたくない。
死ぬのには、まだ早い。
だけど、ヒュドラが唸る声が、やけに、遠くに聞こえた。
―◆―
白い。
白という無色に広がる世界。
何もかもが白く、何もかもが色を持たない。
不思議と意識はあった。俺が死んでしまったという認識もあった。自分で召喚したヒュドラに殺された、間抜けな魔術使い。そんな嫌な認識が、脳味噌の後ろに張り付いていた。
前を見る。何もない。
体は水に浮かんでいるように軽くて、捉えどころがない。こんな状態では、いつ体と意識が離れていってしまうか知れたものではない。
ここがそういう世界なのだと分かっている。
分かっていながら、俺は霞む目で前を見つめる。
ここは、『原初の世界』と『現実』の交差点。
幻と夢の狭間。幻という『原初の世界』と、夢を見る『現実』が交わるための道。魔法はこの道を通って『原初の世界』へと赴き、『現実』へと幻想を連れて帰ることだ。
『原点』から万物へとなる道、『万物』から原点へと還る道。ここには、ただ力と生き物の力の欠片が行き来するだけだ。
俺が今こうして自我を保っているのも不思議だった。恐らく、魂が肉体の『回線』を引きずっているのだろう。だから、こんな場所でも魂ではなく肉体の姿で在ることができる。
まだ俺の肉体は微かに生きているだろう。肉体の『回線』を引きずっていることは、つまりそういうことなのだろう。
だが、今の俺が『回線』を手繰り寄せて帰ったとしても、どうにもならない。
力が無いからだ。俺には力が無い。自分も守る力が無い。他人を守る力が無い。あのヒュドラを倒す力が無い。あのヒュドラを制する力が無い。
生きる力すら、失ってしまったというのに。
こんな俺に何ができる。力が全てなんてことは言わない。だけどどうだ、力が無ければこの有様だ。力を求めればこの有様だ。
始めから力など求めてはいけなかったのかもしれない。魔術など知らなければ良かったのかもしれない。魔法など望まなければ良かったのかもしれない。
俺は、ただ失う悲しみに対して涙を流しているだけで良かったのかもしれない。
だけど、俺は求めた。
力を求めた。魔術を知った。魔法を探求した。俺は俺が在りたい様に、俺は俺が望むものになりたかった。
下らない玩具を翳すヒーローでも良い。敵から逃亡する情けない正義の味方でも良い。格好悪くても良い。不細工でも良い。
ただそれに、守れる力があれば良い。
守るための、『最強の力』があれば良い。
俺は生きて、愛した人を守ってやりたい。守れなかったから、今度こそは守ってやりたい。
自分を守って、そして……愛しい人を守る。
友達や誰やら、自分の知っている人全てを守ることはできないだろう。だからせめて、俺は自分の愛しい人を守りたい。
子供っぽいくせに、どこか擦れた考え方。矛盾しているって分かっているくせに、自分を曲げない。
全くの馬鹿。
だが、それが俺だった。馬鹿だと理解しても、譲れないものぐらいある。
諦めるには早すぎた。俺は魔術使いだ。過去を用いて現在を探求し理解し淘汰する。
手段が無い限り、道は途絶えない。千の道を以ってしても、一という答えへ辿り着かせるのが魔術使いだ
力を手に入れる方法がるのなら、生き返ってまた力を求める方法があるのなら、俺はその道を行こう。
諦めるという言葉は、所詮、泣き言だ。魔術使いはできないことを諦めはしない。魔術使いは出来ないことを出来ないと理解し、それをできるように魔術を使うのだ。
だから、俺は進む。
ぼやけた体を起こす。足はまだある。だからなのか、大地に立っているような感触があった。
辺りを見回す。白い道が広がる中、ぼんやりした視界の中で風景が変わっていた。
右の果ては白い風が渦巻く世界。左の果ては黒い空が続く世界。先程まで見えていなかったのは、俺が見ようとしていなかったからだ。今なら、薄ぼんやりとこの世界が見渡せる。
俺は迷うことなく、黒き空に背を向けた。
俺が向かうのは黒い空が広がる『現実』ではなく、白い風が渦巻く『原初の世界』。
その道を今踏み出した。
踏み出して、一気に駆け抜ける。この世界には酸素なんていうものは無い。肉体が疲れることもない。
だから一秒でも早くと、全力で走っていく。
障害は何も無い。必要なのは意志と精神力だけ。
力を求めるために。先程は魔術式に任せて、召喚対象の選定に失敗した。
今度は、魔術式が代替していた作業を全て自分で行う。自分の意識で『原初の世界』へ干渉し、自分で召喚する対象を見つけ、自分で幻想を現実へ連れてきて、自分で『契約』を達成する。
それには急がなくてはならない。タイムリミットは、この体が消えるまでだ。
この体の形を持っているということは、肉体との『回線』がまだ生きている証。
子の仮初の肉体を失ってしまった時こそ、俺は本当に死んだということなのだ。そうなってしまったら、幾ら力を手に入れても無駄だ。
魔術使いは一度死んだ『回線』へは、干渉することはできない。『回線』は死んでしまうと、ただのつながりに過ぎない。繋がっているだけで、互いに干渉することはできない。
『回線』を一度切って、力を手に入れたら繋げるということは出来る。だが、『回線』を切ってしまうと、再度どこへつなげていのか分からなくなってしまう。
『回線』は命綱でもある。いくら迷っても、いざとなったら『回線』を開いて肉体へ帰ってしまえば良い。
だから、力を手に入れてから『回線』を開いて、魂を一気に肉体のある場所まで戻せば良い。
急いだ。足が千切れそうな感覚を引きずって、腕がもげそうになる感覚を伴って、一点に前だけで見据える。
早く、速くと、ただ気持ちだけが急いていた。
走ることしか頭に無かった。
こんなに本気になったのは、あの時以来かもしれない。父さんと、母さんを助けようとした時だ。
そして俺は、あの時みたいに失敗するわけにはいかなかった。せめて、自分の不始末ぐらい、自分で肩を付ける。
走った。
走って、いつの間にかそれは目の前にあった。
巨大な風の奔流。白い風が、目の前を流れていく。
上を見渡しても、右も左も、白い風が途切れることはなかった。
これが『原初の世界』。絶対的な質量と、超広大なエーテル群。それがただ流れ、溢れ出しているのがこの『原初の世界』だ。
白い形をもつエーテル、それはこの世全ての源力。全ての力、指向性のない力の塊がエーテルだ。
無色の力こそ、どんな色にも染まりどんな力にもなれる。だが、今の魔法使いには、このエーテルを扱う術が無い。
一万年前の人類が銃の使い方を知らないように、俺達はまだエーテルを扱うという領域には達していない。
だから、俺達はこの中に眠っている幻想、現実では存在できない色に染まった強大な力を求めている。
白い風の中、時たま姿を見せる極彩色。
それが、恐らく『原初の世界』に溜まった人間の思想、幻想だ。
今は最強でなくても良い、今は力を持って帰ってヒュドラを倒すことが先決だ。生きてさえいれば、力を手に入れるチャンスは幾らでも手に入れられる。
今はどんなちっぽけな力でも良い。俺はそれを使って未来を掴み、『最強』を手に入れる。
今は、ヒュドラを倒せる力が欲しい。あいつを倒さなければ、周囲の人にまで迷惑が掛かる。
俺は、勢いをつけてその世界へと踏み込んだ。
その境界を越えると、まるで鑢で削られているように体が消えていく。台風の中に単身置いていかれた感覚、腕で顔を庇いながら足を踏み入れる。
地面にしっかり立っていないと、吹き飛ばされてしまうような気もするし、上から叩きつけられて潰れてしまうような気もする。
息をする必要はないのに、したいと思っても息ができない。目の前に酸素はあるのに、強風で吸う前に流されてしまっているようなもどかしさ。無理矢理吸い込むと、エーテルが体の中に入って暴れまわる。全身が隈なく圧迫されているようで、エーテルの詰まった肺を吐き出してしまいそうだ。
体の表面を激流が通り過ぎていくよう。体の線はだんだんと消えていき、皮の下の筋肉や骨が露出し始めている。擬似的な肉体なので痛みは無かったが、それが逆に恐ろしかった。
視覚を失っていく中で、時折見せる虹色。それは手を伸ばしても、指の間をすり抜けていってしまう。
伸ばした指先から、段々と体が剥げていく。爪が剥がれ飛び、皮膚は引き裂かれ、筋肉が解け、骨が灰になっていく。既に、指は第二関節まで骨がむき出しだった。
それでも、俺は足を前に進める。
壊れていく。体も、魂も全てが『原初』へと還ろうとしている。しかし、失うばかりで何も手に入れてはいない。
諦めるわけにはいかない。何せ、まだ結果は出ていない。まだ、俺の体は、俺の魂魄は此処に存在する。
足を止めるのは、体が無くなってしまった時だ。
俺は歩く、砂漠の嵐を進んでいるように、その道は険しい。歩きにくいと思ったら、足が歪な形に削れていた。視界が悪いと思ったら、左目は既に刈り取られた後だった。
右手を何度も伸ばし、美しい色彩を掴もうとする。しかし、色は魅せるばかりで、ちっとも俺の手の中には納まらなかった。
そうしているうちに、右手の指は全て無くなってしまっていた。
まだ、俺は進む。もう何分経ったか分からない。そもそも、ここは過去、現在、未来が混在する四次元。時間という概念は存在しなかった。
もう五分くらいだろうか。または一日、もしくは一年経ったかもしれない。それほど、ここは時間というものを感じさせてくれない。
言い知れない不安がそこにあったとしても、今の俺は足を前に突き出すしかない。
そして、俺はそこへ踏み入れた。
途端、嵐が止んだ。無音にして無風、全てが凛と落ち着いた世界。
静かの空に固められ、見果てぬほど大地が広がる。それは、青でできた大地。青く染め上げられ、下まで突き抜けるような、無限の世界を創りだす。
空は白く、光を弾き返すほど磨き上げられている。その世界では、俺の体を奪う風は吹いていなかった。
在り得ない。俺は、驚嘆する以外に無かった。
だってそうだ。普通は考えない。全ての力が流動する『原初の世界』の中で、小さな世界を創るほど安定し、力を持つ幻想など存在し得ない。
普通の幻想は、先程見ていた極彩色のように、力の中を流されるだけの小さな認識だ。力により大小はあるが、あのように『原初の世界』を彷徨っている。
だがこの世界はどうだ。荒れ狂う『原初の世界』の中で、確りとした存在と認識と力をもっている。だからこの強大な幻想は、『原初の世界』の中でも流されないほどの力を得ている。
その世界に、俺は一人立っていた。
「嘘だろ……こんなレベルの力、存在しているなんて」
独り言を言う程度には力が残っていたのか、俺は目を点にさせながら世界を見渡す。
呆けている場合ではないのだ。俺は幻想を連れて帰るべく、この幻想の象徴を探した。されど、目の前に広がるのは無限の青と白。
そこには、白い空と青い大地以外何も無い。
いつの間にか、透明な青の上に人が立っていた。
黒い衣装はドレスのようだったが、なんという服なのかが分からなかった。赤と金で綺麗に彩られた黒い衣装は、その人に似合っていた。
その幻想は、人の姿をしていた。
その姿を理解することはできない。俺とは存在が違う高次元存在、人の姿をしているように理解できても、真実全く違うものなのかもしれない。
考える暇は無かった。恐らくアレがこの世界の象徴だ。
体が崩れる前に、契約しなければ。
『 』
声が聞こえた。言葉は理解した。
だけど、その印象を頭の中に止めておくことができなかった。声が聞こえたと理解し、言葉の意味を理解しても、声を理解することはできなかった。
問われたのなら、答えるまでだ。
俺はそれに答えた。なんて答えたのか、俺自体が理解できなかった。でもそれはとても簡単な問いで、俺はただ頷いただけのような気がした。
そんなことを考えているうちに、その人は俺の横に寄り添っていた。
その手に持っているのは、つるぎ。
どんなつるぎなのかは分からない。だけど、そのつるぎは俺に答えてくれるのだと、いつの間にか理解していた。
その人は、俺の左手にそのつるぎを握らせた。右手にはもう指が無かったから、握ることができない。
その剣を、目の前に翳す。
その瞬間、剣の姿を見ることなく、俺の意識は引き戻された。その中で、俺の左手は確りと剣を握り締めていた。
―◆―
俺は目を開けて、それを見上げた。
見上げて、月がでているのを今始めて知った。
倒れた顔を上げてそれを見る。
黒い外套。風に踊り跳ね、時折その人の姿を隠す。小柄なその人は、大きな外套に簡単に隠れてしまう。闇を被ったような黒色のコートは、いってしまえば似合わなかった。
赤い瞳。奥深く、その部分だけルビーをあしらった絵画のように爛々と煌く双眸。瞳に感情はなく、訴える何かもない。そこにあるのはどのような宝石ですら己が輝きを恥じるほどの光。炎にも似て輝く瞳に、俺は魅了されていた。
容姿はまだ幼く、成熟していないが故の美がそこにあった。
俺にはそれを表現することはできない。それはこの世に存在しない幻想なのだから、
俺ごときがそれを理解するなど、おこがましいにもほどがある。
それはこの世で最高の美術品。一般人にはその本質や、どういう技法を持って生まれたのかは分からない。だが、不思議とその美術品に引き込まれてしまう。
誰もを魅了するだけの力を、その人は持っていた。
「……」
唇は横一文字に閉ざされ、その表情は何も語らない。彫像のようなそれは、じっとそこに立っていた。
目の前に居るヒュドラを恐れるでもなく、俺に興味を向けるでもなく、悠然とそこに佇んでいる。
赤い瞳が、天を射抜いた。
「……あ」
流動しない大気の中で、その人だけがただ生きていた。
存在するだけで他を圧倒し、居るだけでその力を証明する。
その力に中てられたのか、九頭のヒュドラが一斉に唸り立てる。
それが敵だと察知したのか、全身の鱗を蠕動させ威嚇するように喉を鳴らしていた。
ヒュドラは威嚇しながらも、決して近づこうとはしない。
それ近づいたら殺されてしまうのを理解しているように。
ヒュドラはその九つの頭を使って威嚇を続けていた。その様はまるでヒュドラが追い詰められているように見えて仕方がない。
たった一人の、まだ幼い少女に対して怯えているようでとても滑稽だった。
天を見ていた赤い瞳が、地上に引き戻された。二つの紅玉が、俺を見下ろした。感情は無く冷たい瞳、でもそこには恐れるようなものは無く、どこか優しげだった。
「……敵は、倒す」
それは、俺に向けられたものだとすぐ分かった。それは、その言葉は俺に向けられた報告だ。
恐らくあのヒュドラを倒すと、少女は言っている。何か少し考えたような少女は、髪を躍らせながら踵を返す。
俺は止めようとした。あんな小さな女の子が、九つも頭を持つ怪物に勝てるわけがない。縋るように見上げながら、俺はそれを見た。
大きい。綺麗とはあまりにも言い難い。ただ、鉄板に刃をつけるように鋳造しただけのもの。とんでもなく大きな両手持ち用の剣。
それを、少女はいつの間にか手に持っていた。瞬きした僅かな間に。
どこから取ってきたのか。どこに置いてあったのか。どこに隠してあったのか。幾ら考えてもわかるはずない。
結果としていうのなら、少女は最初から剣を持っていたのかもしれない。
右手に軽々と携えたそれは片手で持てるものではない。俺でも両手で持つことすらできないくらいに重厚で重たそうだ。
あれはもう剣なんかではなく。斬るという行為を忘れた、剣の形の鋼鉄だ。
剣ではなく、最早鈍器だ。
「ハァッ――!」
ヒュドラが高く声を上げると同時に少女は駆け出した。
その速度は人間のものではなく、ヒュドラが鳴き終える間には肉薄し終えていた。
そこで少女は剣を両手に持ち変える。
少女の射程は、ヒュドラの射程。剣を盾にする間も無く、九つの蛇頭が迫る。九つの蛇は前後左右上、完全に少女を包囲していた。全身に食らいつき、少女の体を引き裂くなど容易いだろう。
その光景に目を閉じようとして、俺の目は閉じなかった。
圧倒的な光景から、目が離せなかった。
一太刀、加速する剣が振るわれる。少女は、体当たりのように踏み込みその剣を袈裟に下ろした。
それは鱗を叩き割り、骨を粉砕する鉄槌。
剣は蛇の首を圧し折っていく。剣を振り切ったときには、既に五本の首が手折られた茎のように地に付していた。
少女は踵を返し、一回転する。
大剣に振り回しながら、少女はその小さな身を返す。
少女のほうが振り回されるように見えて滑稽だったが、その動作を笑うことなどできな
かった。
回転により加速した剣は、暴風雨のように打ち据える。
さながらに巨木を薙ぎ倒す嵐。血が乱気流のように舞い上がり、辺りを濡らす。
九本もあったその巨木は、少女の体に触れることなく終わった。
九本の頭が少女の体に触れる僅かな間に二撃。それも、一太刀で何本もの首を圧し折った。
巨剣を軽々と操るその様は少女などではなく、剣士だった。
「シャッ――!」
殺し損ねたのか、一本だけヒュドラの首は残っていた。高らかに声を上げると同時に、少女へと襲い掛かる。
今度こそ間に合わなかった。剣を下ろしていた少女には、先ほどのように先制することはできない。
少女も間に合わないと諦めたのか、両手に持っていた巨剣を手放した。ドスンと、剣が大地に転がる。
剣を手放し、また剣による一閃。
何故だろうか、少女の手には既に別の剣が握られていた。長く、先程の剣より細い長剣。
軽いため巨剣よりは威力が無いが、速度なら格段に上昇する。
少女はその剣で、ヒュドラに向かって最上段から切り伏せる。
鋼の剣で鋼を打ち鳴らすような軽い音。少女の長剣は弾かれた代わりに、ヒュドラの頭を大地に叩きつけていた。
先程の巨剣はその重さで首を圧し折っていたが、長剣では少女の膂力を以ってしてもヒュドラの鱗を切り裂くことはできなかった。
チャンスだった。地に伏せた蛇を叩き切るなど、少女の膂力なら容易いだろう。
この毒蛇に止めを刺す絶好の機会を、少女が逃すようには思えなかった。
少女は剣を逆手に持ち替え、勢いをつけてヒュドラを刺し貫く。
いや、それは刺し貫くというように綺麗なものではなかった。無理矢理に剣を押し付け、鱗と鱗の間に刃を捻じ込む。
途中で剣が折れても更に押して深く貫く。折れた刃はヒュドラの体内で暴れ、絶命させんと肉を切り裂く。
甲高い悲鳴が上がる。ヒュドラの声だとは思えないほど掠れ、泣き叫ぶような金切り声。それは苦しさを体現しているように、助けを請うているように聞こえた。
それでも少女は剣を止めない。
脳天から顎までを貫いた剣は、中ほどまできて止まった。その前には、既にヒュドラは動くのを止めていた。
少女は剣を手放す。
剣は蛇に突き立ち、その様は墓標そのものだ。
少女はヒュドラから踵を返し、俺へと向いた。
月明かりに踊る少女の髪は、月みたいに綺麗な色を保っていた。美しいなとか、俺は場違いなことを考えていた。
だって本当にそう思った。だから仕方が無い。
後ろでは、耽溺するように静まった無数のヒュドラ。その数は九つ以外ありえないだろう。
少女は、その力を以ってヒュドラを殺した。
酷薄なまでに冷たく磨き上げられ、残酷なまでに美しく力強い。その姿は少女などというものは相応しくなく、やはり剣士という言葉が綺麗にはまった。
改めてその姿を見る。紅色の瞳は深く赤く、長めの金髪は月の光に梳かれて靡く、白い肌に返り血など無く、黒い外套は返り血を隠し、無手の両手は未だ剣を握っているように硬く閉じられ、
その様は、誰にも負けない剣を持っていたフレイを髣髴とさせる。
剣を振るうためにいる存在、故にそれは勝利しか許さない。
剣闘の神。
それは『最強の剣の幻想』だ。
「君は……」
やっぱり少女は、あの世界で見たあの人なのだろう。
だから、こんなにも強い。
「最強か?」
少女は、いや剣士は既に俺の目の前に居た。
歩いてきていたのすら分からない。剣士の顔も、既に霞んできている。
全身から命が流れ出ていき、まるで俺の体は萎んだ風船のように締りが無い。動かそうとしても、口以外は動きそうに無かった。指すら、俺の言うことをきこうとしないのだから。
流麗に唇が動いていく、その動作すら美しい。
「貴方が望むのなら、私は最強になる。私は最強の剣、担い手が最強を目指すというなら、私は最強。誰にも、負けない」
力強い言葉。俺は、その言葉にただ安堵するだけだった。
「そうか、よかった」
呟いて目を閉じる。
体が相当に壊れてきて、言うことをきかなくなってきた。
いや、ボロボロなのは体のほうではなくて『回線』と魂だ。『回線』で無理矢理力を現実に持ってきたし、『原初の世界』に入り込んだお陰で魂は磨耗している。
正直、もう眠りたい。体の手当ては、その後だ。
「少し、眠る」
体の力を抜いて、楽にする。緊張が解けていたせいか、瞼を閉じていても重く感じる。
やはり疲れているのだろう。眠るのは簡単そうだ。
早く体の手当てをしなければいけないし、剣士と契約しなければいけない。今逃してしまったら、せっかく手に入れた力を無くしてしまうことになる。
でも、この体は動いてくれなかった。まるで意識を残して眠ってしまったように、俺の意志では動かなくなっていた。
壊れてしまったから、直るまで休ませてくれ。俺は剣士を知った。だから、次の魔法召喚では剣士を呼ぶようにすれば、また剣士に会える。
その時に契約して、お礼を言おう。
今は、残念だけど眠らざるを得なかった。きっと、目を開けたら剣士は消えている。
魔力も感じられず、認識してくれる存在も居ないこの世界では、剣士は長くない。
これで、さようならだ。
そう思って目を閉じていると、優しく柔らかな手が、俺の肩に触れていた。
―◆―
硬い革底が、地面を蹴る音。
ゆったりとしたテンポ、一定の間隔をおきながら体に、耳に響いてくる。
意識は朦朧としていた。俺は考えるということを放棄して、ただ瞼を閉じて眠るようにしていた。
気絶していたのか、薄っすらと目を開けると見知らぬ風景だった。見たことあるようなないような、ぼんやりした曖昧な町並み。
影が伸びたような町並み。その中で月明かりだけがなぜか輝いて見えた。
血を吸い取られるよな、焼けついて苦しかった感覚はもうない。
麻痺してしまったのだろうか。それは危険な状態だ。早く、手当てをしないと。
まどろみの中で沈んでいるときではない。早く起きなければ。
腕は動かない。瞼を持ち上げているのも億劫だった。
それに、何故かとても温かかった。
優しくて、温かくて、とても居心地が良かった。
おぶられているような感覚はおぼろげで、体の輪郭すらはっきりしなかった。
ただ大丈夫だよ、と、その背中が囁いているようで。
只管に優しかった。
その背中に身を委ね、俺は眠る。夢を見ていた。
自分の左手に眠る、つるぎを振るう夢を。
《顕現する幻想》。
その最強の幻想を、この手の中に手に入れた。
そんな夢だった。
この辺りは説明的で盛り上がらないんですよね。