第一幕:冒頭
激しく金が鳴らされる。
高く鳴る剣戟。
鉄と鉄が混じりあい、弾ける。
重厚な鉄の匂い、鋼さえ蕩け出しそうなほどの熱気に噎せる。凍て付き静まるこの空間の中で、鋼が重なるたびに世界を震わせていた。
「――ッハァ」
剣士は一息つくと、また一歩踏み込む。
その速度たるや正に光の如く。その踏み込みと同時に滑るように体が動き、確実に間合いをつめる。
だが神風を伴う踏み込みは、死の凶風によって阻まれた。
「クッ!」
それは死を齎す、槍の薙ぎ払い。
豪腕と技術と、そして経験に裏打ちされたそれは、人を殺すことしかできない。
重厚な鎧ごと中身を消し飛ばす、殺戮ともいえる一撃だ。
剣士は抗うことなく、剣で槍の軌道をずらす。その開いた隙間に身を滑り込ませ、さらに一歩踏み込んだ。
下手に剣を構え、瞬間に剣を振り切れるように構える。一呼吸もおかず死の攻撃を冷静に捌く様には、隙などなかった。
軌道は首だ。下から振り切り首を切り落とす、それは剣士の膂力を持ってすれば簡単なことだ。
しかし、それは槍使いも同じだった。
槍使いは捌かれた軌道を返し、叩き下ろす様な形になる。
互いに必殺の間合いだった。殺されるか、殺すか。
だがそれは一瞬一瞬同じこと。その互いの一撃は一つ一つ、洗練され実践の中で磨かれた業。
その業は最早、神技の域だ。
剣士はその剣で神速の一閃を
槍使いはその槍で光速の一閃を
互いに放ち合う。
響かせる音色。その音は重く、まるで乱流のように辺りへ舞い上がる。
剣と槍は吸い込まれるように重なり、刃と柄は互いを弾き飛ばし、跳ねる。
火花が見えそうなほどの剣戟に、刃の擦れる振動が増す。高く鳴く疾風と低く唸る旋風は互いに食らいあい、荒れ狂う嵐となる。
その動作の一つ一つが楽器にして役者だ。人ならざる神業の演奏は、完成された演劇を披露しているようだ。
最上の戦い。
それを再現できる者はこの二人しかおらず、そして成しえる者もこの二人だけだ。
二人は弾け飛ぶ自分の武器に逆らうこともなく、互いに大きく一歩引いた。
剣士は踊るように身を翻し、槍使いは体勢を低くし距離を置く。
その時ですら油断はなく、慎重に呼吸をする。
それは、単に相手の射程を知っているからの行為だった。
剣士は槍使いの投擲の正確さを恐れ、槍使いは剣士の踏み込みの速度を恐れる。
その距離ですら、二人の必殺の一撃の間合いだった。故に呼吸すら最小限、苦しくない程度に整えるだけでそれ以上はない。
「ふん、最強が聞いて呆れる。所詮この程度とはな」
槍使いは槍を下ろし構えを取りながら、その言葉を口にした。
本来ならば言葉を口にする余裕すらないだろう。
口にする暇もなく、剣士は襲い掛かってくる。だが、剣士はその言葉を聴いていた。聴き、そして次の言葉を待つ。
鋼鉄のヘルムに覆われた面に表情はなく、晒された口元にも感情は見えない。
獲物が動くのを待つを待つように、構えから微動だにしない様は彫像。
急所のみを庇う簡素な鎧を、黒地と白地のローブの上に纏う姿は剣士としては小柄で、まるで少女だった。
黒と白の二枚のローブは風に靡き踊り、ヘルムの隙間から出る金糸は梳いたように綺麗に流れる。
柔らかな金髪の色は薄く、金糸というよりも白金糸。その姿は真に幻想的。その姿で戦う姿はドレスで踊るように優雅で、それでいて雄々しく猛々しさも孕んでいた。
美しき野獣という言葉は、その剣士そのものだ。
「実に滑稽だ。最強と呼ばれていたものが、一介の剣士にすら勝てぬとあらば……自分に呆れもする」
一方、槍使いの方は簡素だった。
レザースーツに赤い外套。その槍使いのためだけに誂え取り揃えたように、それは似合いすぎていた。
風が踊るたびに外套の裾が跳ね、槍使いの姿を隠す。
端正な顔立ち、どちらかといえば剛というより華、華奢な顔立ちだ。けれども雄々しさは持ち合わせており、宛らに王子とでもいうような威厳もあった。
その御姿こそ、英雄のそれだ。
威風堂々と、槍を携えた戦の英雄だ。
黒金の神器。神の所業により形を持った、槍の模した奇跡を携えている。長さは二メートルほどだろうか、槍使いの長身を考えればもっと長いようにも感じる。
名は無い。その槍は無銘にしてどのような名槍も及ばぬ業物だ。全身を黒に彩られ、刃さえ光ることはなく黒く光を吸い込む。穂先は長く、両刃の剣を思い起こさせるほど凶悪な品物だった。
槍使いは構え直す最中すら隙を見せず、その雄姿を見せる。
槍を突きのために構え直し、正面から剣士に向かう。
「……ぁあ、う。ぐぅ」
剣士は、言葉を喋らなかった。言葉すら剣士は知らなかった。
故に、それに出来ることは剣を携え目の前に居るものを倒すこと。いうならばそれは剣士などではなく、剣を扱うただの野獣。
両の手に握る剣は名剣ではない。先ほどの剣戟により刃は捲れささくれ立ち、最早切ることすらできないような代物だった。
それでも、剣士は剣を握る。
まるで、それが剣士に与えられた唯一のもののように。
喋れない剣士ががよほど意外だったのか、槍使いは目を丸くする。それを終えると楽しげに唇を緩ませ、目つきを鋭くする。
己が得物で語るが早いと、自らの手にある槍を握りなおす。
「ァアアッ!」
「オレの言葉が分からぬか、童が!」
言葉にならぬ野獣の咆哮に、槍使いは楽しそうに唇を歪め、跳ね飛んでくる剣士を見極める。
飛んでくる矢を見極め突き落とすような、そんな精密な作業。
それが矢であったならば、光速であろうが神速であろうが叩き落せたであろう。
しかし、光速で疾走るのは白金と黒を纏った剣士。
それがどのような呪いをかけられた矢よりも制しがたいものだと、槍使いは理解していた。
理解することなら誰でもできた。ただ、次の瞬間には殺されているだけなのだから。
地面を這うよう。宛らに影が迫りくる様に速く、跡を残す間すら与えない。剣士は白に光る髪をはためかせながら駆けていく。
「この時が、互いに最後の在り処だ!」
槍使いに肉薄した剣士に、槍使いの迎撃が奔る。
槍という長柄を利用した『突き』だ。
風すら巻き込み真空を駆け抜け、肉を貫き骨を割る神速の突き。剣士にとって、それは如何なるものよりも速いものだった。
自身の最速の踏み込みと、敵の最速の槍を合わせたそれは人の知らぬ速度だ。
見えはしていた。しかしそれをかわす術など皆無、当たらぬことは存在し得ない。
その突き、当たれば即死になろう。
運良くかすったとしても、槍使いは怯んだ隙を狙い剣士を攻める。
戦闘で傷を負うということは、戦力を失うこと。同等だった剣士と槍使いに、圧倒的なまでの落差が生じる。
それはつまり、敗北するということ。その突きが剣士に当たった瞬間、どのようなことになっても剣士の負けということだ。
逃れようのない、煌く様な穿孔が駆ける。
そこで、剣士はさらに踏み込んだ。死を厭わず、恐れず、捻じ伏せて進む。
神速の突きに負けぬほどの速さ、地面が割れるほど強くを蹴り上げ、剣士はその僅かな距離を加速する。
肉と、鋼が削れる音。
死の穿孔は、剣士の右目を刳り貫いていく。鉄のヘルムを切り裂き、肉を朱に染め中へと進んでいく。
剣士は首を回し、奥に達する前に槍を受け流した。
「――ッ!」
朱を帯びた黒槍は止まらず、脱げたヘルムを追い討ちするようを切り裂く。
血を噴出しながら、剣士は更に踏み込む。
槍使いは咄嗟に、身を反転させながら後退し、突き出した以上の速度で槍を戻す。焦りによる焦燥と、動揺による強迫観念故の行動だった。
ただ、槍の内側に居る剣士がそれを許すはずなどない。
槍使いは、槍を払うか槍を捨てるべきだった。いや、仮にそうしていたとしても全て無駄だったろう。
跳ね上がる剣は自らの刃を散らしながら、黒き槍を叩き折らんと打ち付け、甲高い嬌声を上げながら槍は空へと踊った。
「……ァアッ!」
一瞬すら遅いと感じる時間の中で、剣士は跳ね上げた剣を振り下ろす。
全身の体重を乗せ、踏み込み加速した速度を併せ持つ様は神速などとうに超えている。
即死などというのは侮辱だ。それは死を称えるための、全力を以ってなされる一撃。ゆっくり流れる光ですら、その疾風を映すことはできない。
疾風というのすら生温い、それは打ち据える鉄の暴風。荒れ狂う風の中で銀閃が一線、赤を描く。
旋風に舞う赤い血が、剣士の髪をぬらした。
無音。只管に音はなく、暴風の余韻が辺りを支配する。揺らめき胎動する風の中で、何か倒れる。
その上に、赤い雨が落ちる。
右目を潰され、そこから血の涙を流す剣士。その容姿はあまりに幼く、少女という言葉を使っても良いほどだった。
見下ろす瞳は血の色に赤く、まるで右目から流れ出る血さながらだ。
何も喋らず、少女は倒れた槍使いを見下ろす。
肩から脇腹までを一線、外套ごと切断された槍使いの姿がそこに在った。
うつ伏せに倒れ、その死に顔を見ることはかなわない。
ただ、槍使いは少しも動かない。当然、その体は既に死したものなのだから。
見下ろす少女も動かず、それが動き出し槍を構えるのを待っている様子だった。
それは叶わない。
槍使いは絶命した。その事実を確認する気もないのか、それが動かないと分かると少女は踵を返す。
朱に濡れた白金の髪を揺らし、背を向ける。その小さな背中は何も語ろうとはしない。
少女は語らない。
言葉を持たず、意思を持たず。
ボロボロの剣だけを携えて、少女は歩く。一歩、一歩と、どこへいくのか一歩ごとに迷いながら。
宛てはなく、たどり着く先もない。
少女は剣そのもの。
帰る先の鞘を無くし、ボロボロになって錆びていくだけ。最強を倒し、最強となった少女は、泣いているようにも見えた。
白い陶磁器のような肌に流れる、赤い命。
痛みはないのか、その表情は何も読み取らせてはくれない。
少女は再度、剣を持ち直す。
顔を上げると、木々の隙間から朝日が見えていた。回る曙光に身を晒しながら、少女は一歩ずつ歩く。
歩いていくうちに、足元は砂金に包まれていた。
足元から少女の形は崩れていき、ブーツも鎧も形を崩し金色の砂となる。砂金は辺りを風に乗り舞踏し、空中で朝日を乱反射させていた。
紅玉の瞳も、白金の髪も、服も鎧も、その姿全てが夢へと帰っていく。
砂金へと還り、その形を失っていく。
全ては幻想。
少女は手を伸ばす。そこには何もなく、消えゆく少女の手が在るだけだった。
何かを求めるかのように、高く高く左手を伸ばす。朝日を掴むように、ゆっくりと何かを握り締めながら。
初めて見た太陽というものをゆっくりと味わうように、少女の歩みは止まっていた。もう、少女には歩くための足がなかった。
確りと握っていたはずの剣を落とし、少女は空にそれを求めた。それは幻想でしかない。
その少女も、少女が持つ剣も、全ては幻。
幻想、故に最強である少女。
幻想であるが故に、現実では達成できない最強という地位を確立した存在。
しかし少女は、地位でも力でも栄光でも権力でも富でもなく、ただ、別のものを求めた。
それすら、幻想に過ぎないというのに。
最強になった少女の姿はもう無い。後に残ったのは空に舞う光。差し込む光の中で小さな粒子は踊り、消えていく。
そして、墓標のように突き刺さった剣が、少女の存在を知らせていた。
高く咆哮を撃つ狼の声が、影を残していた。