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「歴史オタクのおっさん、西暦240年に飛ぶ」

 邪馬台国が好きだ。


 どのくらい好きかというと…


関連書籍だけで本棚が二本埋まっていて、高校時代に書いた自由研究のテーマが「魏志倭人伝における方角の誤差について」で、結婚式のスピーチで『卑弥呼は鬼道を事とし能く衆を惑わす——アカリ、君はまさに僕を惑わした』と言って式場が静まり返ったくらい好きだ。


 そんな私が今、息子を後部座席に乗せて宮崎の山道を走っている。


「まず、畿内説。これが今、一番メジャーな説だと思っていい」


 ハンドルを握りながら喋っている。止められない。


 邪馬台国の話になると止められないのが、山田タカシ三十六歳の最大の欠点だ。


「実際に纏向遺跡が見つかったのが大きい。あれで畿内派が一気に主流になった。ただな、俺はどうしても納得できないんだよ」


 前を向いたまま続ける。


「魏志倭人伝の記述をそのまま読むと、どう考えても九州なんだ。方角、距離、気候の描写——全部が九州を指している。畿内説は記述の方角が間違っていると仮定して成立させているわけで、それって最初から結論ありきじゃないか?」


 バックミラーを見た。


 後部座席の息子が、スマートフォンをいじっている。


「……って、そんな話つまんないよな」


「ごめん。ちょっと難しいかも」


 山田ユキヒコ、十歳。今年の春から小学五年生になった私の息子だ。


 そうだよな、と思った。


 邪馬台国論争は大人でも難解だ。十歳の子供に伝えられるほど、私は話が上手くない。


 妻のアカリは上手かった。どんな難しい話も、子供にわかる言葉に変換できた。私にはその才能がない。


 今年、アカリが死んだ。


 三十六歳。子宮頸がんだった。


―――――――――――――――――――


「さあ、ついたぞ」


 高千穂峡の駐車場に車を入れた瞬間、私の心拍数が上がった。


 歴史オタクの血が騒ぐ、という感覚が体の底からせり上がってくる。


 ここは高千穂だ。


 日本書紀に記された神話の舞台。天孫降臨の地。ニニギノミコトが天から降り立った、神々のふるさと。そして私が邪馬台国九州説を支持する最大の根拠の一つでもある。


 この地に漂う空気の古さを、観光客の大半は感じない。


 だが私には感じられる。地層のように積み重なった時間の重さが、足の裏から伝わってくる気がする。


 アカリとここに来た時も、同じことを思った。


「こ、ここがお父さんが一番好きな場所なんだ」


 息子はスマホを見ながら歩いている。


「ちなみに九州説の中では比較的マイナーだけど、宮崎説ってのもあって——!」


 ユキヒコの足が止まった。


 スマホから目を離して、高千穂の景色を見ている。


 切り立った柱状節理の崖。深く落ち込んだ谷。エメラルドグリーンの川。


(あれ、もしかして興味持ってる?)


「ボート乗るか?」


「うん!」


―――――――――――――――――――


 ボートに乗ると、ユキヒコはすぐに身を乗り出して川面を覗き込んだ。


「すっごい綺麗な水だねお父さん!」


「ああ、そうだな。泳ぎたくなるよな」


「僕、泳げないよ」


「そ、そうなのか。今度お父さんが教えてあげるよ」


「本当!?」


 笑顔だった。


 久しぶりに見た、ユキヒコの笑顔だった。


 アカリが死んでから、私はユキヒコを宮崎の義両親に預けて、東京と宮崎を往復する生活を続けていた。妻と二人で立ち上げた会社を守ることに必死で、息子と向き合う時間を作れなかった。


 父親失格だ、とわかっている。


 わかっていても、体は一つしかない。


 義父に背中を押されてこの旅に来た。


「男同士、旅をして腹を割って話せばわかりあうこともあるっちゃないかね」


 普段は静かに野球を見ているだけの人が、珍しく言った言葉だった。


「ユキヒコ、歴史は好きか?」


「結構好きだよ。学校で習いたてだし」


「おお!」


 思わず身を乗り出して、ボートが揺れた。


「実はな、お父さんが一番好きな時代が、まさにこの高千穂が舞台なんだ。それに邪馬台国。中国の歴史書『魏志倭人伝』にのみ記録された、幻の国だ。卑弥呼って知ってるか?」


「知ってる! 女王でしょ」


「そう! その卑弥呼が治めていた国が邪馬台国で、その場所が今も謎のままなんだよ。畿内説と九州説があって——」


「お父さんは九州説なんでしょ。さっき言ってた」


 ちゃんと聞いていた。


「そうだ。そしてな、九州説の中でも、お父さんはこの宮崎こそが邪馬台国の舞台だったんじゃないかと思ってる。ここ高千穂は、日本神話の天孫降臨の地でもある。神話と歴史が重なる場所なんだ」


「じゃあさ」とユキヒコが言った。「邪馬台国の時代に行けるなら、行ってみたい?」


「行きたいに決まってる。歴史オタクとして、これ以上の夢はない」


「僕も」とユキヒコが笑った。「お父さんと一緒なら行ってみたいな」


―――――――――――――――――――


「ユキヒコ……寂しい思いをさせてごめんな」


 しばらく漕いだ後、私は言った。


「もう少しで会社が軌道に乗る。そうすれば一緒に東京で暮らせる」


 ユキヒコは真顔で聞いていた。


 それから笑った。


「大丈夫だよ、お父さん。僕、寂しくないよ。お祖父ちゃんもお婆ちゃんもいるし——ほら、写真だって見れるから」


 スマートフォンを差し出してきた。


 ロック画面に三人が写っていた。


 アカリ。


 何も言えなかった。


 気づいたらユキヒコを抱き寄せていた。


「ちょっ、危ないよお父さん!」


 ボートが大きく揺れた。


 わかっている。それでも離せなかった。


 アカリ。俺たちの子は、立派に育ってるぞ。


―――――――――――――――――――


 崖の上に、鹿がいた。


 一頭ではなかった。


 十頭、二十頭——崖の縁に並んで、こちらを見下ろしている。数が多すぎる。不自然だった。


 そして、全ての目が光を帯びていた。


 私の頭に、一つの知識が浮かんだ。


 日本書紀。神話において鹿は神の使いとして描かれる。特に高千穂においては——


「お父さん」とユキヒコがつぶやいた。「なんか、変だね」


「ああ」と私は言った。「変だ」


 その夜、雨の山道で、それは起きた。


―――――――――――――――――――


 ライトの先に、鹿が一頭立っていた。


 ブレーキを踏んだ。


 間に合わない、と思った瞬間——鹿の全身が白く発光した。


「しまった!」


 眩しい。何もかもが白い。


 その光の中で、声が響いた。


 ユキヒコにだけ、聞こえた。


「我が依代よ。そなたの願い、ここに叶えた」


「願い……?」


「そうだ。時の扉を開き、そなたを冒険へと誘おう」


「そしてその地で——そなたは王を目指すのだ」


 私には何も聞こえなかった。


 白い光が、すべてを飲み込んだ。


―――――――――――――――――――


 目が覚めた時、道路がなかった。


 フロントガラスの向こうは、草原だった。


「ユキヒコ、大丈夫か」


「う……うん」


 車を降りた。


 足の裏に土が触れた。夜気の匂いが、現代とは違った。濃い。湿っている。火の匂いがする。遠くで何かが燃えているのか、地平線の彼方がうっすらと赤い。


 スマートフォンが震えた。


 カレンダーアプリが開いていた。


 240年 5月。


「……何だこの表示」


 思わず声が出た。


 バグだ。スマホがバグを起こしている。そうに決まっている。


「お父さん」とユキヒコが言った。「ここ、いつの時代?」


「わからん」と私は答えた。「とにかく暗い。明るくなるまで車の中で待つんだ」


 ユキヒコが何か言いかけた。


 だが私は先に車のドアを開けた。


 頭の中が、うまく整理できなかった。


 道路がない。カレンダーが240年を示している。あの光る鹿。白い光。


 全部、説明がつかない。


 説明がつかないことを、私は得意としていない。


 夜の草原に、風が吹いた。


 火の粉が、遠くからゆっくりと流れてきた。


―――――――――――――――――――


第一話 了


邪馬台国漫画です。自分の中での邪馬台国〇〇説は決めてあります。よろしくお願いします。

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