プロローグ ── 西暦244年 五月
こちらの小説はピッコマにて2026年5月27日から始まる少年漫画『アマテラス戦記』の原作小説です。分かりやすく作った漫画版と違い、この小説版は作者が調べに調べた歴史的知識をこれでもかと詰め込んだ作品となっております。
朝霧が、薄く山肌を撫でていた。
宮崎の山中、シダの葉の陰で、ユキヒコは息を殺して獲物を見つめていた。
纏っているのは、獣の毛皮をなめした衣。手には、ずっしりと重い、黒曜石の鏃を括りつけた自作の弓。
【黒曜石──火山性のガラス質鉱物。九州圏では、佐賀県伊万里の腰岳、大分県の姫島、熊本県の阿蘇、そして隠岐諸島が四大産地として知られる。鋭利な刃を容易に剥離できるため、縄文時代より数千年にわたり、日本列島最上級の「兵器素材」として広域流通していた。北海道の白滝産黒曜石は九州まで、九州産の腰岳黒曜石は朝鮮半島南部まで運ばれていたことが考古学的に確認されている】
──まだ十歳の、痩せた少年の腕である。それなのに、その眼差しだけは、明らかに獣を屠る者のそれだった。
バサッ。
薮から、兎が飛び出した。
放つ。
ドスッ、と鈍い音を立てて、兎は地に倒れる。
ユキヒコは、乾いた吐息を吐き出した。駆け寄って、温かい獲物を拾い上げる。うなじの毛が、まだ柔らかく指先に触れた。
視界の先には、広大な宮崎平野が、朝霧の向こうに霞んで広がっている。
──ただし、現代の宮崎平野ではない。
田畑など、ただの一枚も拓かれていない。代わりに、視界いっぱいの葦の海が、風にそよぎ、どこまでも続いている。
【『葦原中国』──『古事記』『日本書紀』の国生み神話において、高天原の神々が地上世界を指して呼んだ名称。単なる詩的表現ではない。弥生中期以前の日本列島は、低地部の大半が未排水の湿地と葦原で占められており、この"葦の海"の呼称はむしろ、当時の実景そのものの投影と考えられている。縄文海進ののち、関東では利根川下流域が『香取の海』と呼ばれる広大な内海を成していた時代と、ちょうど符合する】
──お父さん。
ユキヒコは、胸元を探って、ぼろぼろになった一台のスマートフォンを取り出した。
画面の隅で、電池マークが淡く光っている。いくつもの奇跡を経てなお、消えないあのマーク──∞(無限大)。
──覚えていますか。
──あの日、見たこの高千穂峡の青い空を。
画面の中では、三人の家族が、少し前の五月の光の中で笑っていた。自分。父。そして、もう二度と会うことのできない母。
──それは青く、とても、とても、青くて。
──間違いなくあの世界は、今僕たちがいるこの世界と、地続きに繋がっていると、僕は確信できるのです。
*
「ユキヒコ、兎が獲れたのか」
低い、よく通る声が、背中にかかった。
ユキヒコは、反射的にスマホを胸元に押し込んで隠した。
振り返ると、大きな牡鹿を肩に担いだ青年が、朝霧の向こうに立っている。
友のアシカビだ。
「──うん」ユキヒコは、笑って兎を掲げた。「一緒に食べようよ」
「おうよ。ドグリもイノシシ獲ったち言うちょった。今夜はご馳走やっちゃ」
河原で獲物を解体し、洞窟の前で焼いて、三人で笑って食べる。すっかり、この暮らしにも慣れた。
──けれど、眠る直前、ユキヒコはいつも同じことを願ってしまう。
──あの日以来、僕たちの身に起きたことが、目が覚めたら忘れてしまう夢であったなら、と。
だけど、それは夢ではない。
夢で、あるはずがなかった。
*
その夜半、ユキヒコは闇の中で目を覚ました。
洞窟の入口に、槍を構えたアシカビが立っている。
ユキヒコは頷いた。傍らの弓を、静かに引き寄せる。
ザッ、ザッ、ザッ──。
崖下を、幾つもの足音が通り過ぎていく。松明の炎がちらつき、岩肌に揺れる影を描いた。
仮面の兵士たちだった。顔を埴輪のように無機質になぞった、奇怪な造形の面をつけた一団。
【埴輪──本来は古墳時代(三世紀後半以降)に造営された墳墓の副葬品としての土製造形物を指す。しかし、その造形の祖形は、すでに弥生時代末期──すなわち邪馬台国の時代に、祭祀用具として成立していた可能性が、寺沢薫ら纏向遺跡発掘関係の考古学者により指摘されている。仮面型の祭祀具は、シャーマン階層が『祭政一致』の体制下で神事に用いた呪具であったと推定される】
その服の胸元には、奇妙な幾何学の紋章が縫い付けられていた。
──耶馬台国の、兵である。
弓に矢を番える、ユキヒコの指先。
背後で、アシカビが槍を大きく振りかぶった。
──なぜなら。
──これから僕たちは、邪馬台国と、戦を始めるのだから。
「うおおおおおおおお──!」
アシカビの雄叫びが、夜気を裂いた。
ユキヒコは、迷いなく矢を放った。
──物語はここから、遡る。




