0001 事故
終業5分前の鐘が鳴った。
「今日はもう閉めるから、続きはまた明日にしましょう」
司書の先生の言葉を合図に、本を閉じて本を荷物に入れる。急いでいた、最上階から降りるには、5分間は短いから。
図書室の扉が、静かに閉まった。
「じゃあ、気をつけて帰りなさい」
「はい。ありがとうございました」
先生の声にそれだけ返して、久遠詩乃は踵を返す。
夕方の校舎は昼間とは違い、どこか音が吸い取られたように静かだった。窓から差し込む橙色の光が、廊下の床に長い影を落としている。
本の匂いがまだ指先に残っている気がした。放課後の図書室で先週入ってきた本を読んでいただけなのに、頭の中は妙に冴えている。先生に勧められた本のタイトルを思い返しながら、階段を下りた。
昇降口で靴を履き替え、校門を抜ける。
秋の風が制服の袖を揺らし、乾いた葉が足元を転がっていった。
詩乃は、およそ普通の高校生だった。
成績は平均より少し上、本が好きで、特別目立つこともないが、皆から嫌われているわけでもない。詩乃は、普通の高校生だった。
家までは徒歩十五分。
通い慣れた道を、イヤホンも付けずに歩くのが詩乃の習慣だった。車の音や、遠くで鳴る踏切、誰かの笑い声。そうした雑音が、彼女にとっては今日一日が終わってゆくと感じさせる心地よいものだった。…そのはずだった。
交差点に差しかかり、信号が青に変わる。
横断歩道の白線に足を踏み出した、そのときだった。
視界の端で、異様な速さの影が動いた。
「…え?」
短い疑問符を残して、世界が歪んだ。
強い衝撃。体が浮く感覚。音が、急に遠のく。
次の瞬間、詩乃は地面に倒れていた。
空が見えた。夕焼けに染まる雲が、ゆっくりと流れている。誰かが叫んでいる気がしたが、言葉としては聞き取れない。
不思議と、痛みはなかった。
代わりに、身体の輪郭が曖昧になっていく。そんな感覚がする。
(……あれ)
思考が、うまく繋がらない。
学校…図書室…司書の先生…最後に借りた本の背表紙…
断片が、ばらばらと浮かんでは消えていく。自分は死ぬのだ、と直感した。
(最後まで、読みきりたかったなあ)
それが、最後に形を成した思いだった。
音が消え、光が薄れ、意識は静かに沈んでいく。
久遠詩乃の日常は、そこで途切れた。
そして、
この瞬間を境に、私の運命は、別の物語へと踏み込むことになる。




