39:黒き竜と小さな同居人
シルゼリウの手の中で、小さな光の球が明滅する。それは、ヴァルガスが抱きしめている邪竜の身体から抽出された、魂の欠片のようなものだった。
「連絡手段として、邪竜様の思念の一部を、ここに置いていきましょう」
シルゼリウが優雅に指を振ると、地面の土くれが生き物のように集まり、小さな蜥蜴のような形を作った。そこに光の球を入れると、土くれの蜥蜴は一瞬で黒く変色し、まるで命を得たかのようにピクリと動き出す。
「キュウ?」
愛くるしい声で鳴く、手のひらサイズの黒い蜥蜴。
つぶらな瞳で僕を見上げ、首をかしげている。
邪竜の威厳など欠片もない、マスコットのような姿だ。
「……これが、邪竜?」
僕が呆気に取られていると、シルゼリウは満足そうに頷いた。
「ええ。こやつは『アズ』と呼んでやってください。邪竜様の思念の断片に、仮の身体を与えた使い魔です」
シルゼリウは、アズをひょいと持ち上げると、僕の肩に乗せた。
アズは、僕の匂いを嗅ぐように鼻を鳴らすと、居心地良さそうに僕の肩に収まった。ひんやりとした鱗の感触が、服越しに伝わってくる。
「……これを、僕に?」
「ええ。もしかすると、王家が何らかの手段で、この地の封印を遠目から監視しているかもしれません。封印の気配が完全に消えてしまったら、騒ぎになるでしょう?」
……確かに、それはあり得る話だ。
現在の王家が、どれだけこの地を重要視しているかは分からない。封印を守るギデオンさんたちを放置していたのが、ただの怠惰であるなら、問題は起こらないだろう。だがなんらかの思惑があるのなら、封印の状態に変化が見られるのはよろしくない。
「ですから、邪竜様の魔力を帯びたこの子を、『封印の残滓』として残しておくのです。一種の身代わり、あるいは魔力的なカモフラージュのようなものですね。そのため、アズはこのエルダ村の結界内から出ることはできません。この土地の魔力とリンクさせてありますから」
なるほど。彼は、僕たちのためではなく、自分たちの痕跡を隠蔽し、王都からの干渉を遅らせるために、このアズを利用するつもりなのだ。
僕たちの理解が進んだことを確認し、シルゼリウはさらに続ける。
「このアズは、ヴァルガス様と魂で繋がっています。つまり、アズを通じて、いつでも我々とコンタクトが取れるということです。かつての『聖戦』について、あるいは魔族についての情報が欲しければ、アズに尋ねなさい。すべてとは言いませんが、彼が覚えている範囲で、教えてくれるでしょう」
情報源としての、敵とのホットライン。
それは、今の僕にとって喉から手が出るほど欲しいものだった。彼らのことを知らなければ、正しい判断など下せない。敵を知り、歴史を知るための窓口。警戒すべき存在だが、利用価値は計り知れない。
「……決断ができたら、アズを通じて連絡を。我々はいつでも歓迎いたしますよ」
シルゼリウは、そう言って微笑んだ。
その笑顔は、どこまでも胡散臭く。
しかし、不思議な魅力を秘めていた。
別れの時が近づいていた。
僕は、ひとつだけ、どうしても聞かなければならないことがある。
喉が渇き、声が震えそうになるのを必死に抑える。
「……ルナは。ルナは、どうしているんですか」
僕の問いに、シルゼリウは、少しだけ表情を曇らせたように見えた。
それは演技なのか、それとも本心なのか。
「彼女にも、協力を求めています。かつて魔族を裏切ったエルフ族の末裔としてではなく、新たな世界を創るための鍵として」
シルゼリウは、言葉を選びながら続ける。
彼の言葉を信じるならば、少なくとも命の危険はないらしい。
「魔族の中には、エルフに対して深い恨みを持つ者も少なくありません。特に、聖戦を経験した古い世代はそうです。彼女が不当な扱いを受けぬよう、現在は私の管理下で保護し、護衛もつけております。……ただ、彼女からはまだ、協力の同意を得られてはいませんがね」
保護。
聞こえはいいが、事実上の軟禁だろう。
だが、少なくとも、彼女が無事であること、そしてヴァルガスのような過激派の手から守られていることは、不幸中の幸いだった。シルゼリウの合理的思考が、ここでは良い方向に働いている。
「ご安心を。後日、彼女を一度、この村へ帰還させましょう」
「えっ?」
予想外の提案に、僕は耳を疑った。
人質を、返す?
「彼女もまた、迷っています。エルフとしての誇りと、あなたへの想いの間で。あなたと共に悩み、共に決断するといい。我々は、無理強いは好みませんので」
これは、罠か?
それとも、彼なりの余裕の表れなのか。
「それに彼女と、私がお守りをしているひとり……セラフィナとの相性が、どうも良すぎるようでしてね。少々、私の屋敷が賑やかすぎて困っているのです」
シルゼリウは苦笑した。
あの聖女セラフィナと、ルナが?
まったく想像がつかない。
だが、ルナに会える。その希望だけで十分過ぎる。
僕の心が、一気に軽くなるのを感じた。
「……信じます。その言葉」
僕が言うと、シルゼリウは満足そうに頷いた。
「それでは、またお会いしましょう。錬金術師アルト」
シルゼリウは優雅に一礼し、空へと舞い上がった。
邪竜の本体を抱えたヴァルガスもそれに追随するように浮かび上がる。
ヴァルガスは、去り際に一度だけ僕を振り返った。その瞳には、以前のような侮蔑の色はなく、どこか戦士としての敵意のようなものが宿っていた。
「……せいぜい足掻くがいい。次にまみえる時が、貴様の最期にならぬようにな」
「ああ。次会う時は、負けない」
僕が言い返すと、ヴァルガスは鼻を鳴らし、巨大な漆黒の翼を羽ばたかせた。
二人の魔族の姿が、雲の彼方へと消えていく。その圧倒的な気配が遠ざかると同時に、張り詰めていた空気が緩み、森にいつもの風が戻ってきた。
後に残されたのは、封印が解かれた祭壇と、呆然と立ち尽くす僕たち。
そして、僕の肩に乗った小さな黒い蜥蜴、アズだけだった。
「キュッ!」
アズが、僕の耳元で元気よく鳴いた。
僕は、肩のアズを指で撫でた。ひんやりとした鱗の感触。
これが、邪竜の思念。数百年前の記憶を持つ存在。
僕たちは、彼らとの繋がりを持ってしまった。
もう、後戻りはできない。
「……行ってしまったな」
ゼノンさんが、大きく息を吐き出した。汗が滲んでいるのだろう、その手をしきりに拭っている。
「三十五年の任務が……こんな形であっけなく終わるとは」
ギデオン村長が、祭壇に歩み寄る。
魔法陣の消えた石板を撫でながら、彼は複雑な表情を浮かべていた。
「……村長、ゼノンさん。村へ戻りましょう」
僕は、祭壇に背を向けた。
視線は、村の方角へ。
そして、その先にある未来を臨む。
「これから、忙しくなりますよ。ルナが帰ってくるまでに、村をもっと強くしなきゃいけない。そして……僕たちが進むべき道を、見つけ出さなきゃいけない」
経緯はどうあれ、僕たちは敵とみなしていた魔族と接触した。
見方によっては、今の状況ですでに恭順したと取られても不思議ではない。
僕の言葉に、ギデオン村長も、ゼノンさんも、力強く頷いた。
魔族の言い分。
人間族の歴史。
どちらが正しいのか、今の僕にはまだわからない。
でも、考える時間は与えられた。
情報源もある。
そして何より、僕には仲間がいる。
空は、青く、清く、澄み渡っていた。
だが、その青さの向こうには、僕たちの知らない世界の真実と、避けては通れない過酷な運命が、待ち受けている。そんな気がした。
僕の、そしてエルダ村の、本当の戦いはここから始まるのだ。
肩の上で、アズが再び「キュウ」と鳴いた。
それは、まるで新しい物語の始まりを告げる、小さな鐘の音のように聞こえた。
僕は、小さな同居人の重みを感じながら、村への道を歩き出した。
-つづく-
次回、第40話。「帰還、そして招かれざる客」。
大切な人が無事に戻ってきた。それはいいが、なぜお前がここに?
◇ ◇ ◇
次回更新は来週、2月14日になります。
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