03:辺境を目指して
夜の闇に降り注いでいた雨は、夜明けと共に上がっていた。東の空が白み始め、濡れた草木が朝日を浴びてきらきらと輝いている。それは新しい一日の始まりを告げる、希望に満ちた光景のはずだった。
しかし、僕の心は、冷たい雨が降り続く真夜中に取り残されたままだった。
ダンジョンから一晩中歩き続け、僕は王都へと続く街道の脇にある森で夜を明かした。硬い木の根を背もたれにして、ほとんど眠ることもできず、ただ虚空を見つめて時間を過ごした。身体の節々が痛み、空腹で胃がキリキリと軋む。なにより、心の奥底にぽっかりと空いた穴から、冷たい風が吹き込んでくるように感じられて仕方がなかった。
(これから、どうしよう……)
手元にあるのは、アレクが投げつけた数枚の銀貨と、今着ている丈夫なだけの作業着、そして使い古した錬金術用の小さなナイフだけ。餞別と称された銀貨は、宿に数泊すれば消えてしまう程度の額だ。パーティー共有の素材ポーチを置いてきたため、僕の錬金術師としての力は著しく制限されてしまっている。
このまま王都に戻っても、僕に居場所はないだろう。勇者パーティーを追放されたという噂は、あっという間に広まるはずだ。そうなれば、僕を雇ってくれるギルドや店などあるはずもない。「役立たず」の烙印を押された錬金術師に、誰が仕事をくれるというのか。
僕は懐から、雨で少しふやけてしまった古い地図を取り出した。
『忘れられた辺境』。
院長先生がなぜこの地図を僕にくれたのか、その理由は分からない。だが、今の僕にとって、そこは唯一の目的地のように思えた。
誰も僕を知らない場所。
僕が何者でもなく、ただのアルトとしていられる場所。
そこへ行けば、このどうしようもない喪失感から逃れられるかもしれない。
僕は重い身体をゆっくりと起こすと、ふらつく足で再び歩き始めた。
目指すは東。
王都から、勇者たちの名声から、過去の自分から、できるだけ遠くへ。
街道を歩いていると、時折、王都へ向かう商人や乗り合い馬車とすれ違った。彼らは一様に、僕の泥だらけの姿を訝しげに一瞥し、足早に通り過ぎていく。誰も声をかけてはくれない。それが今の僕には、むしろありがたかった。
二日ほど歩き続けた頃。僕の体力は限界に近づいていた。銀貨を切り崩して買った黒パンも底をつき、水筒の水も残りわずか。街道沿いの木陰で休んでいると、遠くから車輪の軋む音と、何やら慌ただしい声が聞こえてきた。
「くそっ、こんな所で車軸が折れるなんて!」
「どうするんだ親方! このままじゃ、日が暮れるまでに次の街に着けねえぞ!」
声のする方へ近づいてみると、そこには荷物を満載した一台の大きな幌馬車が立ち往生していた。馬車の車輪の一つが無残にも砕け、荷台が大きく傾いている。人の良さそうな髭面の親方と、若い助手が途方に暮れた顔で車輪を眺めていた。
通り過ぎようか、一瞬迷った。今の僕に、他人を助ける余裕などない。それに、錬金術の素材もほとんど持っていない。
でも、困っている人を見て見ぬふりをするのは、どうしても性分に合わなかった。院長先生の「人には親切にしなさい」という言葉が、頭の中で蘇る。
僕は意を決して、彼らに声をかけた。
「あの……何かお困りですか?」
ふたりは突然現れた僕を見て、一瞬、警戒の色を浮かべた。でも、僕のあまりにみすぼらしい姿に、すぐにその警戒を解いたようだった。
「おお、旅の方かい。見ての通り、車軸が完全にイっちまってね。これじゃあ動くに動けんのさ」
親方は大きなため息をつきながら、砕けた車軸を指さした。
僕はしゃがみこんで、壊れた部分を注意深く観察した。木製の車軸が、経年劣化と荷物の重みで真っぷたつに折れている。これでは修理は難しいだろう。普通なら、街から職人を呼んで、新しい部品と交換するしかない。それには時間も金もかかる。
「……もしよろしければ、僕が直してみましょうか?」
「あんたが?」
親方と助手は、顔を見合わせた。その目は明らかに「こんな若造に何ができるんだ」と語っていた。無理もない。今の僕には何の信頼もないのだから。
「僕は、錬金術師の端くれなんです。完璧にとはいかないかもしれませんが、応急処置くらいなら……」
「錬金術師だと!?」
親方の目が、カッと見開かれた。
と、思うや否や。親方と言われた人が僕の肩を掴んで顔を寄せてくる。
「そりゃ本当かい!? 助かる! ぜひお願いするぜ! 報酬は弾むからよ!」
その食いつきように、僕は少し面食らった。よほど困っていたのだろう。
僕は頷くと、作業に取り掛かった。
とはいっても、素材がない。
だが、幸いなことに、ここは森の中だ。
僕は周囲を見回し、手頃な太さの樫の木を見つけると、ナイフでその枝を切り落とした。そして、折れた車軸の破片を拾い集め、その構造を頭の中に叩き込む。
スキル【アイテム・クリエーション】を発動。
自分の魔力を、切り出した樫の枝に注ぎ込む。
僕の脳裏に浮かんだ設計図通りに、木の繊維が軋みながら形を変えていく。
繊維と繊維の結びつきを強化し、密度を高める。
さらに、木の内部に微量の鉄分を浸透させて強度を上げる。
これは、僕が勇者パーティーにいた頃、ダインの大剣を応急修理する際に編み出した技術の応用だった。
「おお……! おい、見ろよ! 木が勝手に……!」
「すげえ……これが錬金術か……!」
親方と助手が、驚嘆の声を上げる。
しばらくして。僕の手の中には、元の車軸と寸分違わぬ形の、しかし遥かに頑丈な樫の車軸が出来上がっていた。表面は滑らかに磨き上げられ、まるで熟練の職人が何日もかけて作ったかのような仕上がりだ。
うん。いい出来なんじゃないかな、と思う。
僕は出来上がった車軸を親方に手渡した。
「これで、しばらくはもつはずです。でも、あくまで応急処置なので、次の街でちゃんとしたものに交換してくださいね」
「応急処置だぁ? 馬鹿言え! こいつは元のやつよりずっと頑丈じゃねえか!」
親方は目を丸くして、新しい車軸を何度も撫で回した。
彼らはすぐに車輪の取り付け作業を始め、あっという間に馬車は元の姿を取り戻した。
ひと作業終えた親方は、僕の肩を力強く叩くと、満面の笑みを浮かべた。
「いやあ、助かった! 恩に着るぜ、若いの! 名前は何て言うんだい?」
「アルト、です」
「アルトか、いい名前だ! 俺はマルコ。行商人さ。こいつは助手のトムだ」
マルコと名乗った親方は、革袋から銀貨を数枚取り出すと、僕の手に無理やり握らせた。僕が最初に持っていた餞別よりも、ずっと多い額だった。
「報酬だ、受け取ってくれ! これでも安いくらいだ!」
「こ、こんなにいただけません! 僕が好きでやったことですから……」
「いいからいいから! 困ってる時に助けてもらったんだ、当然の礼さ。それよりアルト、お前さん、これからどこへ行くんだい?」
僕は、東の辺境を目指していることを伝える。
するとマルコさんは、少し驚いたような顔をした。
「辺境? あんな何もない所に、一体何の用だ?」
「……少し、事情がありまして」
僕が言葉を濁すと、マルコさんはそれ以上深くは聞いてこなかった。彼は顎の髭を撫でながら、何かを考える素振りを見せる。
「そうかい。まあ、人には色々あるわな。……よし、決めた! アルト、俺たちの馬車に乗ってかねえか? どうせ俺たちも東の街まで商品を届けに行くところだ。ひとり旅よりゃ、安全だろう」
マルコさんの申し出は、今の僕にとって渡りに船だった。
正直、徒歩での旅はもう限界だった。いつ倒れるか、自分でも不安になっていた。
「……いいんですか?」
「おうよ! 命の恩人だからな! さあ、乗った乗った!」
僕は、マルコさんたちの親切に甘えさせてもらうことにした。
久しぶりに乗る馬車の荷台は、ガタガタと揺れたが、不思議と心地よかった。トムさんが分けてくれた干し肉を齧り、水筒に水を補充してもらう。人の温かさに触れたのは、本当に久しぶりだった。
馬車に揺られながら、マルコさんは色々な話をしてくれた。
最近の王都の景気の話。
流行りの商品の話。
そして、勇者パーティーの噂話も。
「なんでも、ミノタウロス・ロードを討伐したらしいぜ。さすがは勇者様だよな。これでダンジョンの深層攻略も一気に進むだろうって、ギルドじゃもっぱらの噂さ」
その言葉を聞いた時、僕の胸がチクリと痛んだ。
僕がいた場所。僕が貢献したはずの戦い。しかし、そこに僕の名前はない。誰も、役立たずの錬金術師のことなど覚えてはいないのだ。
僕の表情が曇ったのに気づいたのか、マルコさんは慌てて話題を変えた。
「ま、まあ、俺たち商人には関係ねえ話か! それよりアルト、お前さんの錬金術は大したもんだな! 王都の一流どころにも引けを取らねえぜ。なんでまた、あんな所でひとり旅なんてしてたんだ?」
僕は正直に話すべきか迷った。
けれど、彼らの人の良さに、少しだけ心を開きたくなった。
「……パーティーを、追い出されたんです」
「なに?」
「僕のスキルは、もう限界だと。足手まといだから、出ていけって」
ぽつりぽつりと語る僕の話を、マルコさんとトムさんは黙って聞いてくれた。
彼らは僕を馬鹿にしたり、憐れんだりすることはなかった。
ただ、静かに頷きながら、僕の言葉に耳を傾けてくれた。
すべてを話し終えると、マルコさんは大きなため息をついた。
「……そうかい。そりゃあ、辛かったろうな」
彼はそれ以上何も言わなかったが、その一言だけで、僕の心は少しだけ軽くなったような気がした。誰かに話を聞いてもらい、気持ちを理解してもらえた。ただそれだけのことが、凍りついていた僕の心を、ほんの少しだけ溶かしてくれた。
それからの旅は、穏やかなものだった。
道中、僕はマルコさんたちの手伝いをした。荷崩れを防ぐために荷縄を強化したり、トムさんが傷を負った際には即席の傷薬を作ったりした。その度に、マルコさんたちは「すごいな!」「助かるよ!」と手放しで喜んでくれた。
『ありがとう』
その言葉を聞くたびに、僕の胸の奥がじんわりと温かくなった。
誰かの役に立つこと。
誰かに感謝されること。
僕が錬金術師として、一番大切にしていたもの。
失ってしまったと思っていたその喜びを、僕は少しずつ取り戻していた。
数日後、僕たちは東の最後の宿場町に到着した。ここから先は、もう整備された街道はない。ただ、獣道と荒野が広がるばかりだ。
馬車を降りると、マルコさんは食料の入った袋と、新しい水筒を手渡してくれた。
「ここから先は、俺たちも行けねえ。気をつけてな、アルト」
「マルコさん、トムさん。本当にありがとうございました。このご恩は忘れません」
僕が深々と頭を下げると、マルコさんは豪快に笑った。
「おう! 恩なんて思う必要はねえさ! 俺たちが助けられたんだからな。……なあ、アルト。ひとつだけ言わせてくれ」
マルコさんは真剣な顔で、僕の肩を掴んだ。
「お前さんを追い出したパーティーのことは知らねえ。だがな、お前の力は本物だ。俺が保証する。その力は、いつか必ず、誰かをとんでもなく幸せにする力だ。だから、自分を役立たずだなんて思うんじゃねえぞ。胸を張れ」
その言葉は、どんな高価なポーションよりも、僕の心を癒してくれた。
再び溢れそうになる涙を、僕はぐっと堪えた。
「……はい!」
「よし! それじゃあな。またどこかで会おうぜ!」
力強く頷く僕を見て、マルコさんは満足そうに笑った。
手を振るふたりに見送られ、僕はひとり、辺境へと続く荒野に足を踏み出す。
勇者たちに追放された時の絶望は、まだ完全には消えていない。けれど、今の僕の心には、マルコさんたちが灯してくれた、小さな温かい光が宿っていた。
失った自信を、ほんの少しだけ取り戻す。
(僕は、役立たずなんかじゃない)
僕のスキルを本当に必要としてくれる場所が、世界のどこかにあるかもしれない。
忘れられた辺境。
そこがどんな場所かはわからない。
でも、そこできっと、僕はもう一度やり直せる。
朝日が、僕の進む道を明るく照らし出していた。それは、絶望の夜の終わりと、新しい人生の始まりを告げる光のように、僕には思えた。
-つづく-
次回、第4話。「忘れられた村の人々」。
誰も近づかない、東の辺境。其処で知る、僕の新たな世界。
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