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ーーこんなとこで、どうしたお前?父ちゃんか兄ちゃんは?


ーーそっか、兄ちゃんとはぐれちゃった、のか…。山は獣もいるんだから、危ないぞ。


ーー俺は隣の家の真魚人だよ。俺と一緒に帰ろう。ほら泣いてないで、潮。




真魚人兄ちゃんの優しい声が、きこえる。

大好きだった兄ちゃんとの思い出が『潮』の輪郭を取り戻させる。

俺は、兄ちゃんのおかげで、人の心を持ち続けられる。

ずっとそばにいてくれて、ありがとう、兄ちゃん。



ーー俺が、潮を守るからね。




「お前も桃源郷に連れて行きたかった」


八渦様の剣は、真魚人兄ちゃんの首を斬り落とした。

俺の痛みはなかった。血飛沫すら上がらず、雷蛟の首は燃える山に落ちていった。

半身を失って、胸に空白はできたけれど、八渦様を責める気持ちは湧かなかった。

真魚人兄ちゃんが、怨みや憎しみを抱えたまま逝ったのではないとわかっていたから。

真魚人兄ちゃんは、自ら望んで斬られた。


『潮を 桃源郷へ連れて行け』


それが俺に聞こえた、最期の言葉だったから。

自分が一緒では、俺が桃源郷に行けないと……自分だけを厄災の神として、八渦様に仇なす者として討ってくれと、真魚人兄ちゃんは望んで牙をむいた。八渦様はそれに応えて下さったのだ。

雷蛟が呼んだ黒雲が去り、灰色の雲からさあっと雨が流れてきた。冷たく弱い。涙雨というのだろう。

八渦様は背を向けたまま、首の落ちた場所を見つめていた。手には剣を握ったまま。

俺たちの行いにお怒りだろうか、それとも失望しておられるのだろうか……


「悔やんでおいでなんだと思いますよ」


ふわりと、俺の横に白い仙鹿が並んだ。あ、この声は、鹿伎だったのか。

俺に化けたときと同じ軽快な声だけど、あるじに聞こえないようにだろうか、『潮』への内緒話の声で語りかけてくれた。


「八渦様はこの度、貴方と真魚人様のふたりを祟り神になさろうとされました。真魚人様の貴方への大きな心残りを不憫に思われたのです。でも、あまりに真魚人様の怨念が強すぎたのです。貴方おひとりだけでしたら……。おそらく、そのことを」


ふたり分の願いを叶えてくださるおつもりだった…?

手に余る物になるかもしれなかったのに、それでもふたりが救われる道を選んで下さったのか。

その手の剣を、今どのようなお気持ちで握っているのだろう。雷蛟を斬った、その剣を……


「は、八渦様!」


立ち尽くすその背に。

霧雨に似た儚い灰銀色の背に、お礼が言いたかった。

貴方の手は救いでした。俺は、俺たちは間違いなく救われたのです。貴方様に確かに、手を引いていただいたのです……


「おっと、その姿じゃ八渦様つぶれちゃいますよ」


仙鹿が自身の背の白毛を咥え、ふっと宙に放つ。その加護が俺を覆った。雷蛟の牙も、蛇の躰も消え去り、『潮』のからだに戻ってゆく。

ただし、埃だらけの服は八渦様のものとよく似た振袖の布に。髪の色もまるで、流れる水のような……

けれど、やりたいことは決まっている。

あのお背中へ、あのお背中へ……。


「八渦様っ!」

「!?」


腕を思い切り広げて、飛びついた。不敬と思われても構わない、俺と、真魚人兄ちゃんの気持ちを伝えたかった。

びくりとして振り返った八渦様は、驚きこそすれ、怒ってはいらっしゃらない様子だった。


「あ、あの、ご期待に添えず、申し訳ございません。でも俺たちは充分に八渦様に救って頂きました。真魚人兄ちゃんにも、お別れが言えました。ですからどうか、その剣を振るったことをお嘆きにならないでくださいませ」


俺がまわした腕を振り払うこともなく、静かに佇んでおられる八渦様。やがてそっと剣を仕舞うと、俺の手にご自分の手を添えられた。

体温はない。けれど、八渦様の今のお気持ちが掌から流れこんでくるようだった。


「俺を恨むか」

「いいえ、決して」

「お前と真魚人の魂を玩んだのだぞ」

「いいえ、それは八渦様の優しさです」

「優しい神などおらん。浮世のいざこざに手心を加えて暇潰ししているだけだ」

「八渦様は、俺たちのために…生け贄になった人たちのために怒って下さいました。えーと…、すっきり、しました」


雷蛟になったことがすっきりなのかは、よく分からないけど、俺の今の気持ちを伝えると、ふふ、と小さな笑い声とともに背中が揺れた。


「あーあ。思い通りにはゆかぬものだなあ」





神様って、超然としていて、人々を見下したり蔑んだりしてるのだと思ってた。

でも、人の命を軽んずる人間もいれば、命を重んじる神様もいる。

俺が抱きつくことを許してくれている神様は、人のために怒り、人のために泣いてくれている神様だ。





「枯潮殿、よろしいですかな」


ほら出た、道患翁。紫色の顔中に皺を百ぐらい刻んで、たっぷりと言いたいことがある様子だ。

いつものように、子鬼ふたりの学ぶ姿勢の悪さを俺に愚痴りにきたに違いない。逃げ足の早い泉痴と魅痢はとっくに不穏を察知して逃げてるけど。


「ご機嫌よう、道患殿」

「それがしの機嫌はすこぶる悪うございます。お察し頂きたく思います」

「あのふたりですね。まあ…まだ小さいですし」

「背丈の話はしておりませぬ。貴方様の躾の見解を訊きに参ったのです。どういった教育をなされば、あのような奔放に育つのやら」


それは親に似たんですよ、とは言いたいけど言えない。

泉痴と魅痢は……俺と八渦様の、子供だ。


桃源郷に連れてこられた当初。

真魚人兄ちゃんを救えなかった八渦様が、ふさぎ込んでしばらく離宮に引きこもられたので、俺が他の神様たちとの橋渡しをしなければならなかった。

祟り神は、神仙の序列の中では最も低い位であるらしい。欲も怨みも全て浄化させて成った神仙に比べて、人の欲と穢れを吸って生まれた祟り神は、忌避すべき存在なのだ。

友好的な神様もいたけど、離宮に通う俺に厳しい言葉を浴びせるかたも多かった。

八渦様は、それでも通い続ける俺を、優しく抱きしめてくれた。頬を、撫でてくれた。

手のひらから伝わる八渦様のお気持ちがくすぐったくて、ふふ、と笑う。

八渦様も、すまなそうに笑っている。


「……馬鹿正直な奴だな。いちいち用件を取り次がんでもよいのに」

「だって、八渦様しか頼れるかたが、お話相手がいないんです。……寂しいです」


その夜、離宮の桃の木が一斉に芳香を放ち、双子の子鬼の実をつけた。




「こら。偏屈じじいが俺の嫁に説教か?」

「うわっ」


いつの間に背後にいたのか、八渦様は嫌味の毒気から庇うように俺を抱きすくめた。俺より頭ひとつ大きな八渦様の胸に、小柄な俺はすっぽりと収まってしまう。…他人にいちゃいちゃを見せつけてるようで、恥ずかしいやら、いたたまれないやら。

道患は顔色ひとつ変えない。皺は何本か増えた気がする。


「説教とは心外ですな。それがしはただ、子鬼らの教育方針をお尋ねしているだけにございますが」

「よく学び、よく遊べ、だ。遊ぶときは思いっきり遊べ、だ」

「よく遊べが九割九分を占めておりますが、それは方針通りということでよろしいですかな」

「それくらいの方が将来大物になるぞ」

「はあ」


分かりやすく呆れたため息をついた道患は、未だに八渦様にくるまれたままの俺に、頑張って作ったであろう満面の笑みを向けた。山にいるでっかい蛙に似てる。


「それがしも、貴方様のような方が母であったなら、かように愛らしく育ったでありましょうなあ」

「………」


返す言葉に困る毒を吐いて一礼し、慇懃な教育係は楼を辞した。

俺をくるんでいた八渦様は、耳元に軽く唇を落として俺を茹であげると、わざと色艶を含んだ声で「ちび共は?」と訊いてきた。

俺がそういった行為にあまりに不慣れなので、面白いらしいのだ。そしてお望み通り、どぎまぎしてしまっている。


「え、えっと、浮世の魚をもっと見たいと言ってたので、雄崇(ゆうそう)様のところだと思います…」

「まずいな。連れ戻すぞ」

「え、駄目でしたか?」

「あの髭親父、美女に目がないからな。ちび共の可愛いさなら、拐って行きかねん。俺も拐われた」

「は?」

「美女より美女に化けてやったらまんまと引っ掛かった。それで生まれたのが道患だ」

「は?」

「怒った雄崇に呪われて、しばらく俺は女神だったのだ。いやあ黒歴史、黒歴史」

「泉痴、魅痢ーっ!そのおじさん駄目ーっ!!」



神様たちも結構、自分のまいた種に振り回されてるらしい。悪戯がすぎる子供みたいだ。

とりあえず俺は、八渦様のご子息を面倒臭いと思ってたことは黙っておくことにした。

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