参
俺は、八渦様と共に祠の屋根でそれを眺めていた。
胸の中の黒い沼に、ぼたり、ぼたりと、汚泥が滴る。沼は次第に大きくなっていった。
雨乞いの唱和が始まった。
あめつちの偉大なる使いである水の神、飛龍八渦様に身の清らかなる者を捧げる、どうか御慈悲をもって、この者の命に換え、雨を授けたまえ…と祈る文言。
八渦様を敬うこともしない従神家。簡単に子供の命を摘む村の大人たち。
こいつらを潤すために、俺は、俺たちは死ななきゃならなかったのか。
八渦様は何も言わない。
祈りの唱和が止んだ。
従神家の当主が深く一礼をし、輿の飾り紐を引く。鹿伎が乗っている座面が下に開いた。
生け贄は一瞬で、闇へ落ちていった。
儀式のあと、空は見る間に暗くなっていった。日の光が厚い雲に遮られていく。
井戸に集った人たちは、早くも雨かと笑い声すらあがっていた。
酒宴が始まった。たった今、生け贄が命を落とした井戸を囲んで。
村の皆には飲み水すらないのに、ここに集う人たちへの酒はあるのか。鹿伎を犯した男も酒を注がれて笑っている。
流れこんでくる。黒い濁流が、俺の中に。
黒い水は喉を、胸を腐らせる。
どろどろに熔けていく。焼けるほどの熱と悪臭を放ちながら。
空は暗さを増していった。禍々しい重い雲が幾重にも重なり、中天でとぐろを巻く。
もう分かっていた。この黒雲は、俺が呼んだものだと。
「好いぞ、好い姿だ。まっこと禍々しき、怨みの神の姿だ」
八渦様が子供のように喜んで俺を撫でて下さるが、体が熱くて、どこを撫でられたのか分からない。
腹の底が、魂が、燃える。これが怨みの炎獄というものか。
ふっと下を見れば、祠に人影があった。
若い男のようだった。井戸での酒宴をしばらく眺めていたが、やがて山の方へと走って行く。
その姿には見覚えがあった。俺の兄と一緒に、水源を見つけに山に入った村の若衆のひとりだ。
「ふん、今頃来おったか。だがそもそも、お前を拐っていく気はなかったと見える」
男の行動を一瞥し、八渦様は落胆するでもなく嗤う。
拐うって、何故、俺を?
八渦様は祠に来たのが自分が一番乗りと言っていた。生け贄とは別に、もうひとつの道があるとも。
男は山道を慣れた足取りで進む。ある場所を目指しているようだった。
八渦様に導かれ、男の向かう先へ風に乗って山を越える。いつの間にか鹿伎も並んで俺の横を飛んでいた。
「お前の村では聞かないかもしれんが、近隣の村では娘が神隠しにあうことがある。山の神が美しい娘を見初め、拐ってゆくのだそうだ。まったく馬鹿馬鹿しい話だ。どいつもこいつも、神がやったと言われれば疑うこともせん」
八渦様がいまいましげに、そう吐き捨てる。
立ち込める暗雲を縫っていくつかの山を過ぎると、不意にそれは目に飛び込んできた。
大きな、大きな池だ。満々と水を湛えている。
川に流れていくはずの水の出口は、大量の土木で塞がれていた。人の手によるものだと明らかだった。
どういうことだ?何故、川を塞いだままにしている?
ああ、また知りたくないものが目の前にある。頭が割れるように痛い。
池の周囲には小さな集落があった。人はいたが、誰一人、働いている者は見えない。
享楽ということばが正しかった。水を浴び酒を浴び、女を抱き男を抱き、果実も肉も存分に喰らっていた。楽園と、呼ぶ人は呼ぶだろう光景だった。
それらを見る八渦様の目は氷のように冷ややかで、しかし烈火のごとく燃えていた。
「川が塞がったのはたまたまだったのだ。それを退ければ元の流れに戻るはずであった。だが、山に入った者等に欲が出た。里の者には知らせなければよい、とな。以来ここは、近隣から娘を拐い、食い物を奪い、桃源郷などと呼んで、おのれ等だけの楽園としてきた。生け贄?神隠し?どこに神が関わっているというのか。お前の村が干上がっている、これがその正体だ」
桃源郷……神の国『常若世』にあるとされる、悪鬼を寄せ付けない郷。穢れを祓う桃の花が咲き乱れるという……
ここが桃源郷?
なんて愚かで恥知らずな。人の犠牲の上に成り立ってるだけじゃないか。人里から遠いのをいいことに、自分たちだけで水の恩恵を独占して。畏れ多くも桃源郷という名まで模して。
ああ、俺の中の『潮』が燃え尽きる。
人のかたちが焼け落ちる。怒りと悔しさと哀しさで。
もういい、もう見たくない。
けれど消えゆく『潮』の目は、その享楽の中に……兄の姿をとらえてしまった。
信じたかった。歳が離れてるからか、あまり遊んでくれた思い出はないけれど。親父にもおふくろからも頼られる存在である兄は、真魚人兄ちゃんと同じ存在だと。村のために命をかけているのだと。
信じていたかった。
けれど、持って山に入ったはずの手斧はそばにない。酒の袋と女を両手に抱えて、自堕落の極みのような赤ら顔だった。
俺の耳に、まるでその場に降りたかのように、酒に焼けた声が聴こえてきた。
「こたびの生け贄は、お前の弟だというが、本当に助けなくてよかったのか?」
「生け贄、けっこうなことだ。餓鬼の頃から何度、山に棄ててきたと思う?そのたびに隣の家の奴が探して連れ戻すんだ。気味が悪いほど、絶対に見つけてきやがる。とんだ迷惑だった。俺の食いぶちが減るじゃねえか」
「俺も似たようなもんだ。まあ、ひもじかったおかげで山に入って、ここを見つけたんだから、弟に感謝しないとな」
「あいつも今頃、井戸の底で、大好きな真魚人と睦みあってるだろうぜ」
下卑た笑い声を、甲高い雷鳴がかき消した。
黒雲を引き裂き、稲妻が槍のように地へ突き立てられた。
兄がいた場所は焼け焦げて大穴が空いた。あたりは突然の落雷に悲鳴をあげ泣き叫び、慌てふためいている。
誰かが空を見て叫んだ。
「ま、魔物だ…!雷蛟だ!」
波立つ水面に映る俺の体は、黒く長大な蛇の姿。
百年の干魃をもたらした魔物の名前。今の俺の姿だ。
吐く息は炎となり、吠える声は雷となり、空を割って地に降り注ぐ。池は煮え湯に変わり、大量の白い雲になってすべて消えた。
ぐるりと首を巡らせれば、生け贄の井戸の酒宴の輪が、散り散りに逃げるのが遠くに見えた。
年寄りを突き飛ばし、供物も酒も装束の冠も放り出して、誰もが我先にと逃げている。
『潮を 泣かせる奴は 赦さない』
俺の背から、もうひとつ声がした。
みしり、みしりと音をたてて体が裂ける。怒りの咆哮を上げ、雷蛟にふたつめの首が現れた。
そうだ、この体にはもうひとり宿っているのだ。
真魚人兄ちゃんの魂が。
「八渦、さま、八渦様!どうかご加護を…!」
ひきつった声で神頼みするのは、俺を生け贄に選んだ村の大大老。別れた首が吐いた炎塊で、一瞬で消し炭になった。
咆哮はなおも収まらず、従神家の装束の者は残らず雷に打たれた。百の稲妻が大地を揺るがし、祠のあった山は火の山と化した。
(兄を、人を、殺してしまった……)
雷蛟の奥に、わずかな残り火となっていた『潮』が、その光景に脅えている。
激情に任せて、非道なことをしてしまった。
なんておこがましい。まるで天罰みたいに…天に座する者みたいに……
「好いぞ、焼き滅ぼせ。存分に怨みを晴らせ」
頭の上で、俺を『天』に歓迎する声がする。真っ白な仙鹿に乗った八渦様が、手を打って子供のように笑っていた。
「祟り神として、そうだな、『枯潮』の名を与えよう。思い上がった馬鹿共に裁きを与え、生け贄たちを貶めた者等に復讐も成った。成就も成就、満願成就だ。喜べ」
『でも、俺は、人を裁けるほどの大きな存在ではありません』
「大きな存在になったのだ。すっきりしたであろう?」
落雷は未だ止まず、もうひとつの首…真魚人兄ちゃんの怒りの魂は村にまで及ぼうとしていた。皆、絶望の顔で空を見上げている。逃げ惑う家族、年寄り、小さい子供。
俺の、父と母も……
こんなのは、違う。
俺は、苦しんでる人を苦しめたくて祟り神になったんじゃない。
もうやめよう、兄ちゃん。
俺が辛かったのは、誰も生け贄の人たちの死を悼んでくれなかったから。
兄ちゃんの存在が世界からなかったことにされたようで哀しかったから。
でも、ずっと俺は兄ちゃんに護られてきたんだと知ったから。
ずっと側にいてくれたんだと知れたから。
村まで滅ぼすことはないんだ。もう怨みのままに人を殺さなくていいんだよ、兄ちゃん。
落雷が岩を崩し山の形を変える。祠も焼け、井戸は岩に潰された。山の火が村にも飛び火し、何件もの家が失われていた。炎がうねり竜巻となって八渦様の着物を掠めた。
俺たちの暴挙を愉快そうに眺めていた八渦様だったが、火が拡がるにつれ、その機嫌はどんどん下っていった。眉が曇ってゆき、やがて険しいお顔で、仙鹿からするりと降り立つ。
「真魚人の方、やりすぎだ。もうその辺でやめておけ。怨みも過ぎれば、祟り神から厄災の神に堕ちるぞ」
常若世は、三つの区分がされているという。
多様な神仙の住む桃源郷。
多くの英雄や賢人が住む流転三十三門。
そして厄災神、罪神などの邪神悪鬼が住む無明獄。
八渦様の手には、袖口から現れた細身の剣が握られていた。ばさり、空を切るように袖を翻すと、剣は雲を割り、その三つの神界への扉が開かれた。
桃源郷の荘厳な楼閣は鳳凰のように羽を広げ、無明獄の業火はちらちらと雲を赤く照らしている。
八渦様は仙鹿を逃がし、雲を渡って俺たちの前に進んでいらした。
「聞こえんのか?鎮まれ、真魚人。自らの力に呑まれるな。お前の大切な者を害する輩はもう滅んだ。お前が滅ぼしたではないか。今ならまだ、桃源郷に送ってやれる。だが、これ以上の蹂躙は、厄災の神として無明獄に送ることになる。…お前たちふたり共だ」
すらりと切っ先が俺たちに向けられる。飄々としていたお顔とは違う、厳しい目をした八渦様の纏う闘気は、凛々しくも恐ろしかった。
まるで昔話の、雷蛟を退治されたときのような……
ああ、そうかもしれない。
八渦様なりの、これは救いなのだ。
きっと八渦様はその昔も、こうして生け贄を救っていたのだ。祟り神にすることで神としての命を与え、桃源郷へ導いていたんだ……
けれどその言葉は、真魚人兄ちゃんの逆鱗に触れた。狂ったように天に吠え、八渦様に向かって炎を吐いた。
『お前も 潮を 苦しめるのか』
炎の中心が、そう叫んでいた。
細身の剣は雷蛟の炎を難なく切り裂く。熱と風の中、そのどちらでもないものに、八渦様はお顔を歪めた。
「俺が、お前たちを苦しめたいか、だと……?」
低く呟き、なおも食い殺そうと襲いかかる牙を八渦様は片手で制し……