壱
「枯潮さま~お話きかせて~」
桃の花びらが鏡池に小さな波紋を咲かせている。
池を囲む朱色の廻廊を、小さな鬼がふたり、俺のいる虎口楼へとぱたぱた走ってきた。
朱い柱が水面に映える池は、常若世にいながら浮世を覗ける水鏡。池に浮かぶ虎口楼の周りを、堕ちた坊主の成れの果ての堕羅漢魚が惑うように泳いでいる。
「いらっしゃい、泉痴、魅痢」
道患翁の座学が終わってまっすぐ走ってきたに違いない。いつも退屈だつまらないとごねているから。
俺は御神酒造りの手を止めて、両脚にぴたりとくっついた子鬼たちの頭を両手で撫でてやる。つぼみみたいな小さな二本のツノが愛らしいふたりは「へへぇ」と嬉しそうに笑った。
「ふたりとも、今日は居眠りはしなかったのかな?」
「あのね、前に枯潮さまが言ってた、あゆとやまめを食べる夢みたよ」
「おれも~」
「寝たんだね」
やれやれ、このあと面倒だ。自分の話を聞いてもらえないと、わざわざ俺のとこに来て嫌味三昧なんだよなぁ、道患は。
「あゆって、こーんなに大きいんだよね!山くじらくらい!」
「おいしかった~」
「え?」
あれ、大きさ言ってなかったっけ?いくら彼らが俺の膝くらいの身の丈しかなくても、さすがに鮎は山くじら…猪ほど大きくはない。
泉痴が得意げに腕を広げる。
「八渦さまが言ってたの。浮世のあゆはこーんなに大きくて、お前らなんかひと呑みだぞって」
「あの方か…」
気まぐれで悪戯好きの龍神の名前を出されては苦笑するしかない。俺もさんざん同じ目にあわされているから。
「鮎は、あれくらいだよ」と、池で泳ぐ堕羅漢魚を示すと、小さい!もっと食べたい!とがっかりされた。
「八渦様も知ってるはずなんだけどね。お前たちをから…驚かそうとしたんだろう」
「八渦さまも、あゆ食べたことあるの?」
「なんで?」
「えーと、それは……俺が浮世の人だった頃に、八渦様と会ってるからだよ」
あの頃は、日の光が恨めしかった。
粗末な壁の家の中を、土埃が舞っていた。せっかくの酒倉は、いったい何度使われたのだろう。
村々はもう幾日も雨を待っている。田も畑も乾いてひび割れていた。
炊事場に立つ。錆びた水瓶の中には、今朝、下の谷を流れる糸みたいな川から汲んできた沢水が申し訳程度にあるだけ。
(晩に粥つくるくらいならあるかな…)
川は村よりずいぶん低いところを流れて、じかに田畑に水が来ない。溜め池が枯れたら途端に干上がる土地なのだ。
干魃に苦しめられ村の我慢が限界に達すると、村の自治を任されている大老たちが誰からともなく言い出す。
「生け贄を選ばねば」と。
そこに冷酷な響きはなく、まるで行事ででもあるかのように。
土と同じほどに乾いた口で、それを選択する。
村を見下ろす小高い山に、水の神様の棲みかとされる古い井戸と祠がある。
祀られるのは『飛龍八渦』様。
その昔、百年続く干魃をもたらした魔物からこの地を救ったといわれる水神様だ。
祠の中には雨を願った、無数の白木彫りの竜が奉納されている。
今は枯れ井戸になった、地の底まで続くと言われる暗闇に生け贄が身を投げれば、八渦様が雨を授けてくれる…と信じられているのだ。
俺の家は代々、八渦様に捧げる酒を造っていた。その酒を造る水も、もうない。それでも、貴重な焼酎と山の果実でいくばくかの御神酒を造っている。
「潮」
今朝。重苦しい声で、親父が俺に頭を下げた。その隣では、おふくろがすすり泣いている。
「昨日の晩の寄り合いで、お前に決まった」
ああ、俺の番か。
薄々、そんな予感はしていた。
八渦様は女の神様だと言われている。だから生け贄は、結婚していない若い男が選ばれる。
俺が小さかった頃、仲良くしていた隣家の真魚人兄ちゃんが突然いなくなった。15歳だった。「明日から禊をするんだ」と言ったきり、戻ってこなかった。
当時の俺は、それがどんな意味なのか分からなかった。寂しかったことしか覚えてないけど、今思えばそういうことだったんだろう。
「わかった」
内心の恐怖を押し殺して、俺は静かに応えた。
「潮…」
「俺ももう16だし、村の役に立つよ。兄さんらも頑張ってるんだし」
俺の七つ上の兄は、他の若い衆と一緒に川の上流に出稼ぎに出ている。水源を探して村に水路を引くためだ。
長男は家を継ぎ、娘は婿をとれる。生け贄には次男坊以下が選ばれることも、納得していた。
誰も、おかしいじゃないかなんて言わない。
生け贄だって立派なお役目だと疑わない。
命をあきらめるのではない。皆の命を繋ぐために、俺が命をかけるんだ。
「明日、従神家からお迎えがくる。…今日はもう、あがって休みなさい」
「いいよ。飯つくるのも、今日が最後なら俺がやる。…今日まで育ててくれて、ありがとう」
おふくろが声をあげて、泣いた。
毛色の違うものも書いてみたくて書いたものです。評価や感想などいただけたら嬉しいです。