鏡の中から
鏡の中から
秋の日暮れは速い。ついさきほどまで、西に見える山はだがオレンジ色に染まっていたのに、またたくうちに、山の稜線だけが黒々と残され、あたりは夕闇に包まれようとしていた。
そんな中を、中学生の元村麻実は泣きながら歩いていた。時おり、ヒックヒックとしゃくりあげながら。
今日の昼休みのことだ。麻実たち二年生の教室に、野上伊都がやってきた。ひとつ上の三年生。
今年の春に、麻実の片思いが実って、付き合い始めた彼だ。成績もスポーツも万能。スケーターの羽生選手に似てると噂されるルックスにライバルもたくさんいたようだったが、彼に選ばれたことが麻実の誇りでもあり、同じ高校目指してがんばれる、唯一のモチベーションになっていた。
「麻実、今日の放課後、体育館の裏に来て」
ここ数日間、試験のためか、全然音沙汰がなかった。
「はあい! すぐに行くね」
今日は金曜日。試験も済んだし、もしかして明日のデートの約束かも! はずんだ心で、麻実は笑顔を返した。
放課後。トイレの鏡の前で、前髪をととのえ、リップクリームをぬってから、いそいそと麻実が走っていくと、体育館の裏には、伊都ともう一人女子がいた。伊都のクラスメイトの三原あやだ。
「麻実、実はさ……」
言いかけて、伊都が口ごもる。
「どうかしたの?」
笑顔のままの麻実を見て、あやが吹き出した。
「この期に及んで何にも感じない? やっぱり伊都が言ってたとおりね。麻実ちゃんって鈍いよね」
あやは麻実の前に歩み寄った。
「あのね、悪いけど、これから私たち付き合うことにしたのよね。だからもう、伊都くんは麻実ちゃんの彼氏ではなくなったの」
自信満々な微笑みを、麻実に向ける。
「えっ……?」
麻実よりずっと背の高い伊都を見上げると、伊都は麻実と目を合わせず、うなずくばかりだ。
「そういうことなんだ。だからもう麻実とはラインもしないから」
逃げるようにその場を走り去る伊都。あわてて、あやもあとを追っていく。その間、五分もあっただろうか。
あっけない恋の幕切れ。
確かに最近会えることは少なくなっていたけれど……。
相手は受験生だから、仕方ないかと思っていた。
けれど、それは会えないんじゃなくて会わなかったということ。麻実の鈍い性格を、伊都がもてあましていたこと。伊都があやにそれを愚痴ったことが、麻実はたまらなく悲しかった。
もう自分の横に、伊都はいてくれない。
優しく数学を教えてくれたり、いっしょに手をつないで帰ってくれる伊都は、二度ともどってこない。
涙は次々にあふれ出て来る。しばらくその場にうずくまって麻実は泣きじゃくっていた。
最後のチャイムの音色が響き渡り、練習している野球部員の声もとだえたころに麻実はようやく立ち上がった。
まっすぐ家には帰りたくない。
きょうは、両親の帰りも遅い日だ。
普段の帰り道でなく、遠回りして帰ろう。
麻実はカバンを持ち、ようやくのろのろと歩き始めた。
まっすぐに帰れば、二十分そこそこで帰り着くが、旧道にまわり、昔のバスターミナル駅前通りを通って帰れば、その倍以上の時間はかかる。涙を乾かすにはいいかもしれない。幸いなのは、人通りが少ないことだ。中学生の女の子が泣きながら歩いているなんて、誰かが通報したらお巡りさんに呼び止められるかもしれない。
駅前の通りには、かれこれ十年以上前、麻実がまだ幼いころに、母と一緒に行った記憶がある。最近では、大型スーパーや、ドラッグストア、コンビニなど便利なものがどんどん家の近くにできているので、駅前通りなど行こうと思えばいつでも行ける距離なのに、用事がなければ、案外行かないものだ。
麻美が幼いころ、駅の正面には焼肉屋さんがあって、いい匂いが通りにまで漂っていた。時計店、金物店、薬局、魚屋、思い出す限りのお店をあげてもかなりあったはずだ。
旧道に通じる坂を登り、こじんまりと建て替えられたターミナル駅についたとたん。麻実は小さくあっと声をあげた。
いい匂いがしていた焼肉屋さんはなくなっていた。そして、すでにシャッターが下ろされた店、取り壊されて空き地になって、昔の面影さえない店の多いこと。
ゴーストタウン。まさにぴったりな言葉だ。
しばらく歩いていると、カーテンがひかれた化粧品店の前にやって来た。ここはまだお店を続けているようだが、時間も遅くなったから、今日は終わりなのだろう。
カーテンのすきまから、化粧品を並べたショーケースの上に、丸い大きな鏡が見えた。
「ここだ!」
麻美は思い出した。母の化粧品を買いに、何度かいっしょに来たことがある。
当時、このお店には高校生の制服を着たお姉さんがいて、麻実を抱っこして、鏡をみせてくれたことがあるのだ。
「大きくなったら、お姉さんがお化粧してあげるね」
優しそうなお姉さんだった。きっと今頃はだれか好きな人ができて、お嫁さんに行ってしまったかもな……。そう思ったとたん、またもや、涙があふれでてきた。だめだ。好きな人とかいう言葉は、当分禁句だと、麻実はあわてて手の甲で涙をぬぐった。と同時に、お店の電気がついて、カーテンがさっと開いた。
「あ、お待たせしてごめんなさいね。さあ、どうぞ。お入りください」
あの時のお姉さんなのだろうか。青いTシャツ姿で、長い髪をすっきりとまとめ、切れ長の瞳のきれいな微笑みで麻実を見つめた。
「あ、あの、ごめんなさい。むかし、来たことがあって、懐かしくて見てただけなんです」
慌てて、その場を立ち去ろうとする麻実に向かって、
「ねえ。もしよかったら、メイクしてみない?」
お姉さんが声をかけた。
「メイクって魔法なの。辛いことがあってもね、きれいになると不思議と気持ちが楽になれるのよ」
どうやら泣き顔を見抜かれたようだ。
きれいになってみたい。たとえ、伊都くんに見てもらえなくても……そう思うだけでまたもや涙がこみあげる。
「あ、もちろんお金なんてとらないからね。安心して」
お姉さんは、先に顔を洗っておいでとタオルをくれた。
涙と埃で汚れた顔をバシャバシャ洗い終えた麻実は、鏡の前の椅子に座った。お姉さんは慣れた手つきで、化粧水、乳液と重ねていく。そして丁寧に下地クリームをぬり、リキッドファンデーションのふたをあけた。何もしゃべらなかったお姉さんが、ふと口をひらいた。
「中学生のころって肌が柔らかいね。水だって、化粧水だって、どんどん素直にしみとおっていくわ。心も同じね。嬉しいことも悲しいことも、なんでも吸収してしまうから、自分の中がいっぱいになってしまうのよね」
麻実はうなずく。今、私の心は伊都くんとの失恋でいっぱい。お姉さんのひんやりとした指先が、ファンデーションを広げていくのに、麻美の瞳からは、大粒の涙が、頬を伝っては転がり落ちてくる。
「つらいのよね。つらい時は泣いていいのよ。涙が出ないような失恋なら、しない方がまし」
お姉さんの指先は、いつのまにか、私の髪を編み込み始めていた。くるんとしたアップのおだんごにまとめてくれる。
涙がとまらないから、アイメイクはやめて、リップブラシで、くちびるをつややかなサクランボ色に染めていく。眉毛を整え、頬にチーク、目元にハイライト、鼻筋にシャドウを軽くいれ、ビューラーでまつ毛をカールさせて、お姉さんは、麻実に鏡を見るよううながした。
麻実はいっしゅん目を見はった。
「これ、私?」
「そう。まだ未完成だけどね、でもきれいでしょ?」
丸い鏡に映った、麻実とお姉さんの顔。中学校のトイレの鏡の中とは、まったく別人の自分が映っている。
「将来が楽しみだなあ。いいねえ。ちょっとメイクしただけで、こんなにきれいになれるなんて」
「私、きれいですか?」
麻実は思わず問い返してしまった。伊都にもふられてしまったのに、自分はきれいなんて言えるだろうか。もし、きれいな子だったら伊都は自分から離れて行ったりしないはず。
お姉さんは、大きく大きくうなずいた。
「とってもきれいよ。女の子はね、泣いたり落ち込んだりしながら、どんどんきれいになっていくものよ。それをわからない男の子なんて相手にしなくていいから。本当に自分をわかって、好きになってくれる人が必ず現れるから」
「お姉さんにもそんな人が?」
「ええ。ちゃんといてくれたのよ。ただ……」
お姉さんの顔が、いっしゅん曇ったが、直ぐに笑顔にもどると、メイク道具を片付けはじめた。
「ごめんね。あなたがとてもつらそうにみえたから、ついひきとめちゃった」
麻実はかぶりをふった。伊都のことは、完全に忘れてしまえることではないが、自分がとうてい気づかなかった可能性をちょっとでも感じられたのは確かだ。
「こちらこそ、ありがとうございました」
「はい。今晩はこれでメイクを落としてね。またメイクしたくなったらいつでも来て」
お姉さんがくれたクレンジングのミニボトルをポケットに入れると、ていねいにおじきをして、麻実は店を出た。
お姉さんは、鏡の前で手をふりながら、笑顔で麻実を送ってくれた。
翌日は休みだった。
昨日、編み込みをしてもらったせいで、麻美の下ろした髪にはゆるいウエーブがかかっているようだ。
言われたとおりにお化粧は落として寝たけれど、女の人は毎日メイクをすることで、自分に気合を入れるのかもしれない。私も早くメイクができるようになればいいのにと麻美は思う。
試験あけのせっかくの休みなのに、もう伊都と会うことはないし、ラインも来ない。家にいてもそのことばかり考えそうだった。
「そうだ!」
麻美はお小遣いの入った貯金箱をあけてみた。二千円くらいはある。これでお花を買って、昨日のお店にお礼を言いに行こう。そして帰り道に図書館に寄ろう。善は急げだ。
ウエーブの残った髪には、パフスリーブの木綿のワンピースが良く似合う。あのお姉さんならきっと褒めてくれそうだ。
お姉さんには、昨日お世話になったお礼に、青いリンドウの花を買った。お店に飾ってくれたらいいな。はやる気持ちを押さえつつ麻実はお店へと向かった。
お店は、カーテンが開いて、昨日のお姉さんが、床にモップをかけていた。
「おはようございます!」
麻実の声に振り返ったお姉さんは、目元の感じや唇の形はよく似ていたが、昨日のお姉さんではなかった。
「いらっしゃい……といいたいけど、もう、ここしばらく、お店休んでるのよ」
そこで麻実は、お店の感じが昨夜とは変わっているのに気がついた。ショーケースの中はほぼ空っぽで、全体的にがらんとしている。
「あの……私、昨日の夜、ここでメイクをしてもらったんですけど」
「え? だってだれもいなかったでしょう?」
「いえ。電気がついて、お姉さんが出てこられました」
「私じゃないよね?」
「よく似ているけどちがいます。私、昨日とてもつらいことがあって、泣いて帰っていたら、そのお姉さんが、メイクしてあげるよって誘ってくれて……」
「……で、この鏡の前で?」
麻実はこっくりとうなずいた。
そのお姉さんは、しばらく茫然としていたが、ハッとしたように、スマホの中から一枚の写真を見せてくれた。
「もしかして、メイクしたのは、この子かな?」
昨夜と同じ、青いTシャツ姿のお姉さんが、お店の鏡の前で微笑んでいる姿が映っている。
「そうです。間違いありません。いろいろ励ましてもらいました」
スマホをしまってもなお、そのお姉さんは茫然としていた。
「私、このお姉さんにお礼を言いたくて……」
麻美のことばをさえぎるように、お姉さんは話し始めた。
「私は由梨、その子は私の一つ下の、ひとりきりの妹でアオイというの。アオイは昨年の秋に亡くなってね。もうすぐ一年たつわ」
「亡くなられたって……そんな……」
麻実は後の言葉が続かない。実際、麻実はここで、アオイさんと話し、髪も編んでもらい、メイクをしてもらったのだ
から。
「アオイは高校出たあと、美容専門学校で学んで、私と二人でここを継いでいくつもりだったの。もちろん化粧品も扱うけれど、エステやメイクをするのはアオイ。着付けや髪のアレンジをするのは私と役割りを決めててね。だけどアオイが癌をわずらってしまって、思うように働けなくなってしまったの」
由梨は、麻実に鏡の前の椅子に座るよううながした。
「自分がもう長くは生きられないことも、アオイは知っていたのかもしれない。けど、メイクを欠かすことはなかったわ。
元気のない人にもできるだけメイクをしてあげたいとずっと言ってたのよ。
意識がなくなる前だったかな。私を呼んで、こんなふうに頼まれたの。私はこの鏡の中にずっといて、一緒にお店を守るから、お姉ちゃん、ちゃんとお店を続けてねって」
だけど……と、由梨さんの声がふるえた。
「たったひとりきりでお店を守っていくなんて、私にはできないと思ったの。アオイがいてくれなきゃだめだって。でも、ちゃんとアオイは、鏡の中にいて、約束を守ってくれてたんだ」
何度も何度も由梨さんはハンカチで目頭をおさえた。
「これ、アオイさんに差し上げたくて」
麻実の持ってきたリンドウの花を、鏡の前に飾りながら由梨さんは微笑んだ。
「今度来てくれた時には、お店は開いてるからね」
「メイクしたくなったら、由梨さんにお願いしてもいいですか?」
「もちろんよ。アオイより上手にできるかどうか自信ないけど」
「お願いします」
そして、麻美は、鏡に向かって、そっと手を合わせた。
「ありがとう。アオイさんのおかげです」
お店の入り口から、由梨さんは麻実に何度も手をふり、麻実も手をふりかえした。
そんな二人に見えなかったもの。
お店の鏡の中には、リンドウの花ごしに、白い片手が左右に揺れながら映っていた。