中
※盲という言葉は現在差別用語として認識されておりますが、物語の雰囲気と時代設定に合わせて使用しております。ご了承ください。
翌朝早くから、繁は出かけていた。
隣まちに用があったのだ。
体調の優れない利彦を置いて行くのは心残りではあるが、すぐに屋敷へ戻るつもりである。
多くの商家が立ち並ぶ通りに、一際大きな店があった。
昔から贔屓にしている呉服屋である。
暖簾をくぐって、店に入った。
「失礼仕る。主人はおらぬか」
店に入って、繁はよく通る声で声をかけた。
すると、奥の方から、奥方と思われる細身で気品のある女が現れた。
「いらっしゃい。……って、あら、シゲさんじゃないの。お久しぶりね」
「これはこれは奥方、ご無沙汰であったな。今日はちと、主人に用があるんだが」
「そうですか。お生憎様、主人は出かけておりますの。夕刻には戻ると思うのだけど、待たれます?」
繁は思案顔をして、うんんと唸った。
そして、パッと奥方を見つめる。
「いや、奥方に願いを聞いてもらおう」
「あら、私でいいんですの」
「ええ────」
重要な話だと悟った奥方は、繁を客間へ誘った。
二人は客間に入るなり、向かい合って座した。
しばらくして、話をあらかた聞いた奥方は、目を見開いて驚いた表情をした。
繁は、ただ奥方が次に放つ言葉を待つ。
「三男坊の大和を加賀美家の養子にしたいですって!?」
「是非に」
「言っておきますけど、あの子役立たずよ。元気で健康なのだけは取り柄といえば取り柄ね」
「存じておる。その元気で健康な子が欲しいのだ」
今度は奥方が思案顔をして、うんんと唸る。
そして、ゆっくり繁の方を見つめる。
「私の一存では決められないわ。まあ、正直厄介払いができるとは思いますけど」
奥方の裏の顔であろう黒い部分が表情にも見てとれた。
暗く深い瞳をしている。
「……いいでしょう。主人にも良い返事をするように言っておくわ」
「ああ、ありがたい。それでは、これは手付け金として受け取ってくれ」
繁は、持ってきた風呂敷包みを解き、奥方の前に突き出す。
中身は金貨がずらりと入っている。
加賀美家の資産ではなく、繁の今まで貯めた自分のお金であった。
外は日が照りつけ、じっとりと汗が噴き出るくらいに暑くなっていた。
鶯が桜の枝にとまって、軽快に歌を歌う。
陽光が当たって気持ちが良いのか、桜の花びらたちは優雅に風に舞う。
繁は安堵の表情で、加賀美の屋敷へと帰っていった。
彼処の三男坊は、九つになるがその存在はあまり知られていない。
盲なため、一家で監禁に近い生活を強いているのだ。
しかし、家人たちは彼──大和が聡耳だということを知らない。
四年前。繁が利彦の着物を見繕うために、この呉服屋へ来た。その時、五つになる大和がひょっこりと顔を出したのだ。
「いらっしゃい、シゲさんでしょ。ゆっくりみていってね」
大和に会うのは赤ん坊の時の一回と、今回で二回目だというのに、足音と息づかいを覚えていたのか繁に声をかけてきた。その後、主人に見つかって、部屋の方──おそらく牢屋に引き摺られていった。
繁はその出来事が忘れられなかった。
あれから何度も呉服屋へ向かったが、大和に会うことはなかった。それでも、生存だけはなんとか確認が取れた。
繁は助けられたらよかったのに、とは思うが加賀美家のことでいっぱいいっぱいだった。
だけれど、今こそ養子をとることで彼を救えるのではないかと考えた。
大和ほど聡耳なものはいない。二度しか会っていないが、彼こそが加賀美の次期当主に相応しい。そう、繁は思った。
屋敷へ着き、すぐさま利彦の部屋へ向かった。
物音一つない。まだ眠っている。
からり、と襖を開けると、
「養子でも取るつもりだろう、お前」
少し怒気を含めて利彦は言った。
息を殺して、利彦は目覚めていたのだった。
布団の上であぐらをかいたまま、繁を鋭い目つきで見る。
繁は、こんなにもひりつくような雰囲気の利彦は久しぶりに見た。
「何故、そのように思うのです」
努めて冷静に繁は聞いた。
「朝早うに厠へ行ったら、お前の部屋の襖が開いておった。暗がりに何かが光ったと思って見れば、金貨が落ちていたんだ。それにお前の姿がどこにもないではないか。何年、お前の主人をしていると思っている。気づかぬはずがない」
「…………」
二人の間に沈黙が流れる。
しばらくして、ゆっくりと繁は口を開いた。
「養子を取ってはいけませぬか」
「ならぬ」
間髪入れずに利彦はきっぱりと言った。
「……なれど、この先の加賀美の行く末を思えば必要なこととは思いませぬか」
「誰が頼んだ。必要ない」
食い下がる繁に、やはり利彦はきっぱりと言い放つ。
繁は一瞬自分の立場を忘れ、じろりと主人を睨む。
何故わからぬのか。代々続いてきた加賀美家を途絶えさせるなど、先代達に顔向ができぬ。それに、約束をした。この家を守るのだと。なのに、どうして、このお人は……。
繁は初めて利彦に憤りを覚えた。
そして、
「繁、お前泣いておるのか」
老人の乾いた頬を一筋の滴が伝った。
最後までお読みいただき、誠にありがとうございます。