その五 作戦会議
「三色カビの灰色チーズ」を手に入れるのは、造作もないことだった。
我が家の巨大な食料貯蔵庫には、ありとあらゆる食材が揃っているから――。
昨日の夕方のこと――。
わたしは、チェルシーに頼んで、厨房から「三色カビの灰色チーズ」を手に入れてきてもらった。
「おじょうさばあ、こんだくさいぼのを、どうなさどぅおつぼりですが?」
<訳・お嬢様、こんな臭い物を、どうなさるおつもりですか?>
チェルシーは、左手に持った手巾で鼻と口を覆い、右手にチーズをほんの一かけらだけ入れた小瓶を持って、わたしの居間へ戻ってきた。
口だけで息をしようとしているせいか、言葉がおかしくなっている。
わたしは、あらかじめ考えておいた理由をチェルシーに話した。
「やしぎもりどことりのすでぃ、ひだがうまれだどよ」
<訳・屋敷森の小鳥の巣に、雛がうまれたのよ>
「ばあ! そでわ、かわいいでしょうで」
<訳・まあ! それは、かわいいでしょうね>
「へびよけでぃ、くさいぼのをおいただどうかとおぼって――」
<訳・蛇よけに、臭い物を置いたらどうかと思って――>
「ああ、そでで、こどくさいちいずを?」
<訳・ああ、それで、この臭いチーズを?>
わたしもチェルシーと同じように、鼻を摘まんで話していたのだけど、だんだん面倒くさくなってきた。
そっと、鼻から手を外し、臭いを確認してみる。
あら? それほどでもないようね……。
「チェルシー、その瓶はしっかり蓋が閉まっているから、普通に息をしても大丈夫みたいよ!」
「ふぁああっ……、ほ、本当ですね! 貯蔵庫で切り分けてもらうときに、あまりにも強烈な臭いがしましたので、気をつけていたのですけど――」
かすかに臭っているが、鼻を摘まむほどではない。
わたしは、チェルシーに礼を言い、使用人用の食堂で、お茶でも飲んでくるように言って送り出した。
さあ、いよいよ作戦会議の始まりよ!
「ライナルト様、『三色カビの灰色チーズ』の準備ができました!」
「おう! ああ、なんと懐かしい香り……。そのチーズは、わたしの大好物なのだ!」
わたしのドレスのポケットから這い出したライナルト王子は、テーブルの上に置いた小瓶に近づくと、嬉しそうに抱きついた。
味はどうか知らないけど、臭いが相当きついのは確かだわ。
「おいしい」は「くさい」に勝るってこと? 大人の「おいしい」は、わたしには、まだよくわからない……。
「ジェルヴェーズ、わたしは、国にいたときには、たびたびこのチーズを食していた。だから、これの味が好きだし、臭いにも耐性がある。しかし、無防備にこのチーズの臭いを嗅いでしまった者は、普通は咳き込んで、そのあと気を失ってしまう。
明日は、わたしと一緒にそなたのポケットに、このチーズを一かけ入れていってくれ。わたしは、これを口に含み、ここぞというときに、この臭いを含んだ小さなつむじ風を起こそう。そして、それをウォルト王子の鼻の穴に送り届けてやろう! それぐらいなら、今のわたしの魔力でもできる!」
「ライナルト様……」
そう、わたしは、ついライナルト王子に打ち明けてしまったのだ……。
ウォルト様に、無理矢理、婚約を押しつけられそうになって困っていることを――。
そりゃあ、いくらちんまりした島国の王族とはいえ、魔法で十二分の一の大きさにされているとはいえ、外国の要人に、王家の結婚問題を話すべきではないと思う。
でも、とにかく、わたしは困っているのだ。
妖精さんでも、悪魔でも、神様でも、残念な魔法しか使えない小っちゃな王子様でも、誰でもいいから、婚約阻止に力を貸して欲しかった。
「わたしは、ウォルト王子の名前ぐらいしか知らないが、そなたの言うとおりだとすれば、そのように横暴で私欲にまみれた行いを許してはならないと思う。ジェルヴェーズ、そなたとウォルト王子の婚約阻止に力を貸そう!」
「ありがとうございます、ライナルト様!」
わたしは、ライナルト王子の申し出をありがたく受け入れた。
そして、今日、油紙できっちり包んだ小さなチーズのかけらを懐に収めたライナルト王子を、ドレスのポケットに忍ばせ、臭いを誤魔化すためにたっぷり香水を振りかけて、わたしは王宮へ乗り込んでいったのだった。
* * *
「ジェルヴェーズ、ウォルト王子なのだが――、本当にそなたが言うように、そなたや公爵家の没落を企んでいるのだろうか?」
「えっ? どういうことですか?」
チェルシーに、居間へ運んでもらった夕食を食べながら、ライナルト王子とわたしは、今日のできごとを振り返っていた。
わたしは、居間に置いてある小さなドールハウスから食器類を取り出して、ライナルト王子に使ってもらうことにした。
このドールハウスは、とても精巧に作られていて、食器や調理道具などは、本物と同じように使うことができる。
わたしの皿から、ちょっぴり取り分けたウサギ肉の煮込みを、美味しそうに飲み込むとライナルト王子が言った。
「ウォルト王子がそなたを見る目は、なかなかに情熱的であった。変な野心などはなく、ただ、そなたのことが好きで、婚約したいと思っているだけなのではないだろうか?」
「まさか! ライナルト様は、ウォルト様のことをよくご存じではないから、そんなふうに見えたのですわ。ウォルト様の目は、何とかして年下の小生意気な公爵令嬢を黙らせてやろうという、暗い情念でぎらぎらと光っていました!」
だいたい、いまだにわたしの名前をまともに言えない人が、わたしのことを好きだなんてありえないと思う。
幼い頃、ウォルト様には、親しくしている同い年や一つ違いの令嬢が何人かいた。
わたしは、てっきり、彼女たちの中から、王太子妃が選ばれるものと思っていた。
ところが、あの日、あのできごとのあと、ウォルト様は悔しそうに言ったのだ。
「ジェルヴェーナ! いつかおまえと結婚して、おまえの身分も財産も何もかも奪い取って、ダンドロ公爵家を没落させ、その自信満々な鼻っぱしらをへし折ってやるからな! 覚えていろ!」
こっちだって、忘れるもんですか!
ジェルヴェーナじゃなくて、ジェルヴェーズですけどね!
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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