その四 布鞄の奥に
「ヴェンデル、ハーマン先生はどこにいる?」
「ハーマン先生でございますか? 離宮内のどこかにおいでになるはずですが? 外へお出かけになった様子はありませんので――」
離宮に来てから、四年の月日が流れていた――。
わたしは、九歳になっていた。
小さな島国であるエーベル王国の地理は、だいたい頭に入っていた。
地図を見て、おおきな町や山、川の名前は、ほぼ間違えずに言うことができた。
馬にもなんとか一人で乗れるようになったし、相手の足を踏まずにダンスも踊れるようになった。泳ぎや木登りで競争すれば、ヴェンデルに勝つこともあった。
もちろん、文字の読み書きもできるようになり、毎日日記をつけたり、父上に離宮での暮らしぶりを伝える手紙を書いたりしていた。
「そうか……、では、ご自分のお部屋に籠もっていらっしゃるのかな?」
「そうですね。朝食後は、わたしもお姿を拝見していません。また、お部屋でお昼寝でもなさっているのではないですか? 昨晩も遅かったようですから」
ヴェンデルは、わたしを廊下に残して、洗濯物を洗濯場へ届けに行ってしまった。
ひどく忙しそうだが、なんのことはない。
洗濯場で、メイドのベルタとのんびりおしゃべりがしたいだけだ。
わたしは、ちょうど自分自身を浄化する魔法を学んでいた。
これは、自分自身を変身させる魔法の一種だ。
この魔法が遣えると、旅に出たときなどとても便利なのだそうだ。
これを覚えたら、身につけた物の洗濯も必要なくなるかもしれない。
ヴェンデルが、ベルタの所を訪ねる機会も減ることになる。
まあ、ヴェンデルことだから、そうなれば別の理由を見つけて、ベルタの所へ行くだろう。
わたしが、心配することではなかった。
わたしは、魔法の効果について詳しく聞きたくて、ハーマン先生を探していた。
廊下をうろうろしていると、足元から「ミャーン」と言う声が聞こえてきた。
いつの間に現われたのか、クリスタがわたしの靴にすり寄っていた。
クリスタは、わたしと目が合うと、わたしから離れて廊下を歩き出した。
途中で一度振り返り、わたしを招くように「ミャーオ」と鳴いた。
わたしは、クリスタのあとをついて行くことにした。
クリスタは、階段の前を通り過ぎ、先生方の居室が並ぶ区画へと進んでいった。
もともと、今日は自学の日ということになっていて、先生たちの講義の予定は入っていなかった。
ボーリンガー先生もハールトーク先生も、それぞれ書庫や自室などで、好きなことをして過ごしているはずだ。
わたしは、自室で休んでいる先生方の邪魔をしないように、足音を忍ばせ廊下を歩いて行った。
ハーマン先生の部屋の扉が、ほんの少しだけ開いていた。
先を行くクリスタは、僅かな隙間から、滑るように部屋の中へ入ってしまった。
何の反応もないところを見ると、先生は部屋にはいないようだ。
わたしは、そっと扉に近づき、先生の部屋の中を覗いた。
先生は、いなかった――。
部屋の中には備え付けの家具類以外、先生の私物のような物はほとんど見当たらなかった。殺風景ながらんとした部屋だった。
とても、何年も人が暮らしている部屋とは思えなかった。
テーブルの上には、ここへ来るときに先生が持ってきた布鞄だけが載っていた。
布鞄の口は大きく開いていて――、その中から、何か音がしていた。
わたしは、意を決して部屋の中へ入ると、テーブルのそばへ行ってみた。
「先生、そろそろお戻りになった方がいいのではないですか?」
「そうだな。思ったよりも長居をしてしまった」
「夜までに用意をしておいて欲しい物がありましたら、そこの紙に書いておいてください」
「ありがとう、ヨッヘム」
先生の声だ! 誰かと話している! 布鞄の中で?!
わたしは、もっとよく聞こうとして、布鞄の口へ顔を近づけた。
中には何も入っていなかったが、きらきら光る明るい靄のような固まりが見えた。
不思議な声は、その靄を通して聞こえてきた。
「ライナルト様の魔法の学習は、順調に進んでいるようですね?」
「ああ、素直で向上心のある良い生徒だよ。遣い手として着実に成長している」
「わたしもまた、お目にかかれるでしょうか?」
「そうだね。あの方は、いつか必ず王になるだろう。灰色の魔法を遣う王だよ。きっとこの国を、楽しくて笑いに溢れた国にしてくれことだろうね。戴冠式には、必ず二人で行こう!」
わたしが必ず王になる? こんな辺境の離宮に、すでに四年も押し込められているわたしが?
いったい先生は、そんな夢のような話を、誰としているのだろう。
わたしは、布鞄の口へさらに顔を近づけた。
そして、ついうっかり、光る靄を吸い込んでしまった。
「うわあああぁぁぁーっ!」
わたしは、得体が知れない大きな力によって、布鞄の中へ引きずり込まれた。
そして、不思議な色合いの洞穴のような場所を通り抜け、どこかの部屋の床の上に、激しく腰を打ち付けながら落下した。
―― ドッタン!
「い、痛っ!」
「や、や、や、やっ!」
「こ、これは?!」
腰をさすりながらおずおずと目を開けると、目の前に、心配そうにわたしの顔をのぞき込むハーマン先生が立っていた。
そして、先生の後ろから、黒い髪の若者が、金色の瞳を輝かせながら、興味津々という顔でわたしの方を見ていた。
「先生! お部屋の扉を閉め忘れていたのではないですか?」
若者が笑いを含んだ声で言うと、先生は頭を掻きながら、恥ずかしそうに答えた。
「たぶんな――。ちょっと急いでいたもので、きちんと確かめなかったよ」
「また、誰か迷い込んできたらどうするのですか?」
「いや、もう大丈夫だろう。クリスタ様が、わたしの扉の前に寝そべってくださっている。あの様子なら、もう誰も部屋に入って来ることはできないさ」
先生は、テーブルの上に置かれた茶色い壺の中を覗き込んで言った。
えっ? あの壺を覗くと、離宮の部屋の様子がわかるのか?
いったい、何が起こったのだろう?
離宮の部屋とは打って変わって、いちおう整頓されてはいるが、様々な品物でいっぱいのこの部屋は、どこなのだろうか?
天井の梁からは、不思議な香りがする草や木の枝が吊され、はしごが掛けられた高い棚には、いろいろな大きさの瓶や箱が所狭しと並べられていた。
「ライナルト王子、ようこそ、お越しくださいました! ここは、灰色の魔法の遣い手、ルトガー・ハーマン先生の隠れ家でございます!」
黒い髪の若者が、丁寧にお辞儀をしながらわたしに言った。
彼の腰からは、先だけが白い、ふさふさとした黒い尾が生えていた――。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
休日だったので、この時刻の投稿になりました。
水曜日は、朝の投稿を予定しています。よろしくお願いいたします。