その三 ハーマン師
グレーニング湖畔の離宮での暮らしは、思っていたよりも快適なものだった。
わたしの世話係として、ヴェンデルがそのままついてきていたし、離宮の管理を任されている、専任の侍従や侍女たちも感じの良い者ばかりだったからだ。
そして、いつの間にか荷馬車に紛れ込んでいたクリスタも、わたしと一緒に離宮の新しい住人となった。
離宮から少し離れた場所には、そこそこに開けた村があって、必要な物資などはそこから手に入れることができた。
王都からは遠い土地だったが、生活に不便さを感じることはなかった。
離宮に来て十日が過ぎ、そこでの暮らしにも慣れた頃、あの人は突然やってきた。
丁寧に刈り込まれた芝草の上で、クリスタを撫でながら、ぼんやりと空を見上げていたとき、離宮を囲む森の上空に小さな黒い点が現われた。
黒い点は見る間に大きくなり、それが巨大な黒い鳥であるとわかったときには、鳥は芝草の端に着地していた。
わたしは、クリスタを抱くと、慌てて立ち上がった。
鳥の首にしがみつくようにして、その背中に乗っていた人物は、少し危なっかしい足取りで芝草の上に降り立つと、鳥の頭をポンポンと二回叩いて何か呟いた。
鳥はたちまち、人の肩に乗るほどの大きさになり空へと飛び立っていった。
鳥から降りた人物は、小柄な男だった。年齢はよくわからなかった。
草花の綿毛のようにほわほわとした灰色の髪に、丸い瓶底のような眼鏡を載せ、にこにこしながらわたしを見下ろしていた。
「ライナルト様でございますな? 遅くなって申し訳ございません。陛下より、あなた様に魔法を教えるよう命じられました、ルトガー・ハーマンでございます」
彼は、わたしの前にひざまずくと、笑顔のまま頭を下げながら言った。
生成りのシャツに、吊り紐がついた細かい格子柄のパンツ――、魔法省のもったいぶった遣い手たちとは全く違う、村人と見間違うような格好をしていた。
「ええっと……、よ、よろしくお願いいたします。ハ、ハーマン先生……」
「ミャーオ!」
嬉しそうに一声鳴くと、クリスタはわたしの腕から飛び降りて、ハーマン先生の足元にすり寄った。
そして、ハーマン先生を見上げ、もう一度「ミャーオ!」と鳴いた。
ハーマン先生は、驚いた顔でクリスタを見ていたが、「おおっ!」と小さく叫ぶとクリスタの前で平伏した。 クリスタは満足そうに、芝草の縁の植え込みに潜り込んだ。
わたしは、先生を玄関ホールに案内し、執事のオイゲンを呼んで紹介した。
先生の荷物は、肩からかけた古い小さな布鞄一つだけだった。
その日の晩餐は、ハーマン先生の歓迎会となった。
魔法以外の学問を見てくださる、元王立学校の教師であるボーリンガー先生、ダンスやマナーなど、王族として身につけておくべき技能や振る舞いを教えてくださる、元侍従のハールトーク先生が同席した。
ハーマン先生は、昼間とは全く違う、きちんとした服装で晩餐に現われた。
あの小さな布鞄に、どうやってこんな服を入れてきたのだろう?
オイゲンまでもが、しきりに首を傾げているところを見ると、こちらが用意したものではないらしい。だとしたら、何らかの魔法を使ったのだろうか?
わたしは、早く先生の指導を受けてみたいと思うようになっていた。
* * *
「ライナルト様。まずは、あなたの魔力を見せていただきましょうか。この部屋は、あなたが魔法を学ぶための部屋ですから、魔力を発動したからといって、魔法省が騒ぎたてることはありません。よっぽどおかしなことをしでかさない限り、無視してくれます。安心して、魔力を行使してください」
ハーマン先生の講義は、到着した翌日から始まった。
離宮の中にある、石壁をむき出しにした簡素な部屋が、魔法を学ぶ場所だった。
調度品も小さなテーブル以外は、すべて片付けられていた。
急に魔力を見せろと言われて、わたしは困ってしまった。
この前は、魔法を見たことがないらしいヴェンデルを、驚かせ楽しませたいと思って、思いつくままにリンゴを変身させた。
ハーマン先生は、何を見たいのだろう? 何を見せたら喜ぶだろうか?
わたしは、ポケットから屋敷森で拾った木の実を一つ取り出した。
両手で木の実を包み、念を込めて息を吹きかけた。
木の実は、わたしの手からテーブルの上に転がりおり、くるくる回ったり、ぴょんぴょん跳びはねたりし、まるで中に何か生き物がいるかのように激しく動き回った。
ハーマン先生は、面白そうに眺めていたが、やがて、ポンポンと二回手を叩いた。
木の実は、ぴたりと動きを止め、コロンとテーブルの上に転がった。
「なかなか可愛らしい魔法でした。十分に、わたしを楽しませてくれましたよ。では、この木の実を、ドラゴンに変身させることはできますか?」
ドラゴンか――。わたしは、ドラゴンを思い浮かべようとしたが、パッとその姿を想像することができなかった。
うまく想像することができないと、木の実に魔力を伝えることも難しかった。
この前は、リンゴをたやすくヒキガエルや青い鳥に変えることができたのに――。
「先生、できません……」
テーブルの上の木の実を見つめたまま、わたしは、あきらめてそう言った。
すると、ハーマン先生が、再びポンと手を叩いた。
木の実は、淡い霧に包まれたかと思うと、小さなドラゴンに変身していた。
ドラゴンは、ときどき炎を吐きながら、からかうようにわたしの周りを飛び回った。
やがて、ゆっくりテーブルの上に降りたが、先生が手を叩くとともに、もとの木の実に戻った。
「魔法を上手く使うためには、この世界のことをよく知らねばなりません。実際に見たり聞いたり味わったりできないことは、本をお読みなさい。詳しく知る人から話を聞いてもいい。そうやって、あなたの中にこの世界を取り込んでいくのです。あなたの中にあるこの世界が、豊かで大きなものなれば、あなたの魔法も豊かで大きなものになるはずです」
「……」
五歳だったわたしには、ハーマン先生の言葉はよく理解できなかった。
でも、いろいろなことを知ることが、大切なのだということはわかった。
わたしにとっての「世界」は、まだとても狭いものだったし、知らないことだらけだった。
本を読み、人と話すためには、文字や言葉を学ばなくてはならない。
どこかへ出かけるためには、丈夫な体が必要だし、馬に乗れた方が便利だ。
この世界をよく知るために、わたしが学ばなければならないことはたくさんあった。
わたしは、懸命に学び、貪欲に知識や技能を身につけた。
そして、いつしか、王宮へ戻ることや王になることよりも、世界を知り、魔法の遣い手として一人前になることを夢見るようになっていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
今夜、働く異世界令嬢の短編をひとつ投稿する予定です。
そちらも覗いていただけると嬉しいです。