第六十三話 「ディティス上陸」
遥か昔にあった邪龍ジア・ラフトとの戦い。
闘龍期と呼ばれるその舞台こそがディティス列島帯と言われている。
この島々を渡る中、邪龍は勇者の策略にハマった。
吹き付ける強い風で飛ぶこともままならず。
複雑な潮流で泳ぐこともままならず。
陸からの猛攻撃を浴びることになったのだ。
追い詰められた邪龍はやがてアリアー大陸へと逃げ込んだ。
そしてレッド平原にて待っていたのが大炎魔霊バーングラッド。
勇者と大魔霊の挟み撃ちにあった邪龍ジア・ラフトは三日三晩に及ぶ激しい戦いの末ついに力尽きた。
その戦いでディティス列島帯の島はひどく傷つき、生き物も人々も草木も死に瀕した。
それを救ったのが生命と知恵の神ディトーンである。
彼は島をひとつひとつ渡りあるき、傷ついたものたちをすべて癒した。
そして最後に、神としての役目を終えた彼は眠りに着いた。
その場所には大きな樹があり、今もディトーンはその樹を通して世界とつながっているのだという。
後に聖域と呼ばれるようになるその島は、今も尚彼の神の直系である獣人族が守護している。
というのがこのディティス列島帯にある邪龍伝説の大まかな流れである。
夜が明けてすぐのディティス列島帯最西端の島。
ナック島。
昇り始めたばかりの朝日に照らされた三日月型の島は真っ二つに割れている。
それは闘龍期の戦いの傷跡なのだといい、邪龍の翼による傷跡なのだとか。
今ではこの島は有数の港町。
国港ディースベルは島そのものが1つの大きな港として機能する。
湾曲した入り江でベルガー大陸からの船を迎えるという側面。
そして島の中心を船ごと通行できるその特異な地形によって修繕ドックや補給ポイントとしての側面もある。
船から見える島は火山岩が主成分で、その岩肌は白っぽく切り立っている。
こんもりと盛り上がった島の中心には森があり、そこが切り開かれて街になっている。
ゆっくりと船は減速を始めた。
もうすぐ街の魔術師たちの魔術によってこの船は一度補給用のドッグに入港する。
風が船の手を引いてあるべき場所へといざなうのだ。
船首の方では何やら水夫が輝照石を使っている。
布で隠したり出したり。
おそらくは光信号での交信だ。
現に島の方でもチカチカと光が返ってきている。
この世界では離れた場所との連絡手段が乏しい。
とうぜん無線機のような物もない。
彼等の決めた合図だけが頼りなのだ。
国港ベルディースから出航した船の甲板。
まだ覚めやらぬ瞳のまま、大きなあくびをする少年が一人。
そして、真っ青な顔をして陸地を待ちわびる少女が一人。
どうも、少年のほう。
魔道士ユリウス・エバーラウンズです。
いやぁ、ついにやってきましたねぇディティス列島帯。
俺としてはとってもとっても待ちわびていましたとも。
というのもこのディティス。
農業が盛んなのだそうじゃありませんか。
少し前には色がグロイけど美味しい玉ねぎもあったり。
まさかまさかの特濃醤油が見つかったりと。
まだまだ世に出ていない食材が溢れているそうじゃありませんか。
色々と期待してしまうというのが異世界人的発想。
出来ればお味噌とか見つかってくれると嬉しい。
……納豆もありえるな。
米もしっかりと仕入れたいところだ。
……まあそれはさておき。
スッと横を見る。
隣に立つのは少女の方。
《赤角》シエナ・ゼルジア・ドラゴンロッド嬢。
今日も今日とて絶賛船酔い中である。
「うぷ……」
はい、波が来ましたね。
そっと洗面器を差し出す。
「おえぇ……」
かなりソフトな表現でお送りしております。
実際はもっとこう、ぅおえぇぇrrrrぉあ……
みたいな感じ。
「だから昨日食べ過ぎないでって言ったじゃないですか」
「あんたにはわからないわよ。ずっとお腹の中空っぽの人間の気持ちなんて……」
そんな涙目でこっちを見ないで。
思わず抱きしめてしまいたくなる。
例えゲロにまみれても。
「回復魔法かけますから、もう少しの辛抱ですよ」
「……はやくぅおえぇぇ……」
「はいはい」
背中をさすりながら魔法を使う。
昨晩は俺が料理を振舞った。
さすがに船の中だけあって厨房はこじんまりとしていたが、それでも本格的。
そして作ったのは日本食。
肉じゃがである。
これがまた受けが良いこと良いこと。
まぁ、こっちの人たちからみたらポトフみたいなものか。
エルディンもご満悦であったが、さらに気に入っていたのがいまここでゲーゲー吐いている彼女である。
機会があったら和食フルコースを振舞って見てもいいかもしれない。
もちろん陸地で。
「うぅ……」
「はい、せーの」
「「おえええええ」」
今日も平和である。
そろそろ彼女のローブも洗濯だ。
---
日が昇るころに船は島へと入港を開始した。
波止場では魔術師たちが杖を振り魔術を使っている。
まるで飛行機を先導するときの誘導灯のようだ。
シエナにもぜひ見て欲しかったところだが、島に近づくにつれて強くなった船の揺れに完全にダウンしてしまった。
今も俺の膝の上に頭を乗せて苦しそうに呻いている。
切り立った崖に両側を囲まれた大きな入り江へと船が進んでいく。
崖の上部には木々が見えるが、それよりも目を引くのは渡された太い足場やロープだ。
何本も木材を斜めにかけて補強したそれには大きな滑車が釣り下がっている。
あれで荷物を吊るしたりするのだろう。
「ん~!良く寝た!思ったより快適だったね」
「おはよ。今日はエルディーヌか」
「まぁね~」
背伸びしながらエルディーヌが甲板に上がってきた。
彼……じゃなかった。
彼女は時々ああやって自身の形を思い出すためにエルディーヌになる。
本人曰く、せっかくだから美少女で居たいらしい。
荷物が嵩張るからしないが下着までこだわりたいというのが本音だそうだ。
もしかしてコスプレイヤー的発想だろうか。
ちょっと俺には縁遠い世界だ。
それはそれで気になる。
「おー。やっぱりナック島のドッグは立派だねぇ」
「ここにも来た事あるのか」
「前に何度かね」
「お前、何歳から旅してるんだよ……」
「んふふ。秘密ー」
背伸びした腕のまま頭の後ろで手を組んだ彼は体を左右に捻る。
グギグギと背骨を鳴らしたのちに船首の方に居るザルバの方へと歩いて行った。
エルディーヌには結構秘密が多い。
まぁ神様から業務委託された勇者なのだ。
守秘義務もあるのだろう。
「ユーリ!シエナ!おはよ!」
「おはよ、イーレ」
「……おはよ」
「シエナ今日も具合悪い。修行足りない?」
「何ですって……」
グッと力を込めて彼女は体を起こす。
真っ青な顔のままイーレを睨むが、ぐんと揺れたおりにそのまま崩れ落ちた。
思わず抱き止める。
「無理しちゃだめですって。イーレもそういう意地悪言わない!」
「シエナばっかりずるい!」
「おい、イーレ」
何やらご機嫌斜めなイーレを嗜めたのはロレスだった。
文字通り猫をつまみ上げるようにして片手でイーレを持ち上げる。
「あまりユリウスを困らせてやるな。未熟者の世話で手一杯だ」
「……あんたまで私を──むぐ」
「はーい、良い子良い子。おとなしくしててね」
ここで喧嘩されるのは良くない。
ひとまずシエナの顔を俺の胸に押し当てた。
こういう時俺も女の子に変身できれば良いなと思う。
おっぱい大盛りで窒息攻撃とか、してみたい受けてみたい。
「ずるい!イーレも良い子良い子が良い!!」
「お前はこっちだ」
「嫌ー!ロレスのバカ!イジワル!ぶきっちょ!」
「海に落とすか」
「それは無しで。イーレ、今度プリン作ってあげるから今日は我慢してね」
「うううう……」
口をへの字に、耳をヘタンと垂らしながら彼女は押し黙った。
プリンの誘惑に負けたのか。
それともお菓子で釣られたのが悔しかったのか。
まぁ、半々だろう。
「……わかった。イーレ大人だから我慢する」
「ありがとうね。こんどちゃんと埋め合わせするから」
「ところでユリウス」
「はい?」
「そろそろ離してやれ。死ぬぞ」
「……あ」
胸の中でシエナが窒息しかけていた。
自由の利かない体のまま、彼女は無抵抗に顔を胸に埋めたままだった。
バッと体を離せば、顔を真っ赤にし眼が虚空を見つめている。
「大丈夫ですかシエナ!?」
「……平気よ」
浅く荒い息をする彼女。
そして小さな声で
「……悪くない」
とぼそりというのであった。
……これは本格的にだめかもしれない。
と、そんな時に船にガツンと小さめの衝撃が走った。
水夫たちが大声でやり取りをし、船に木製の足場がかけられる。
待ちに待った陸地に到着したのだ。
「イーレが一番!」
「転ぶなよ」
そんなやり取りの2人に続いて俺とシエナが下船する。
思いのほか彼女の足取りはしっかりとしていた。
もしかして、さっきのハグが効いたのだろうか。
「しばらく船はいいわ」
「補給を済ませたらすぐ出発ですよ?」
「……」
引き続き彼女の背に手を添えながら回復魔法をかける。
手こそ繋いだりはしていないが、ちょっとエスコートしている気分だ。
これが旅客機だったら様になったかもしれない。
陸地と言っても土魔法で崖から伸ばされた足場だ。
厳密には地面では無い。
だが、数日の船旅で揺れる船内になれた体には懐かしさを感じさせた。
「おおお。揺れてる揺れてる」
波の動きになれた体だ。
不思議としっかりと踏みしめられる地面の上では逆にふらついた。
先を行くイーレも同じようにふらつき、それをロレスが支えている。
そう言えば、長い船旅をする水夫たちは陸地でまっすぐ歩けないのだったか?
スパロー船長もそんな歩き方をしていた気がする。
視界の先はとても興味深い光景が広がっていた。
崖のいたるところが繰りぬかれて、通路になっていたり階段になっていたり。
そこをいろんな人が行き来している。
船大工のような集団に冒険者。
商人連中は馬車の入れない通路を大荷物抱えて通っている。
上を見上げればわずかに崖がせり出ており、船に半分ほどかかっている。
滑車やロープが何本も渡され、今も荷物の積み込みが始まった様子だった。
「……すごいわね」
「ですねー」
2人してそれらを見上げた。
「岩窟族の掘ったドッグだ。彼らにかかればこんな建造物も砂場遊び感覚でできてしまうんだから驚きだよねぇ」
「流石エル。博識だな」
「経験値の差かなぁ」
船から降りてきたエルディーヌが補足をしてくれる。
「ユリウス・エバーラウンズ!」
そこにご年配の女性の声が響いた。
装飾の美しい護身用の軽鎧を纏った白髪の女性が小走りで駆け寄ってくる。
その他護衛を大勢連れて。
「皇帝陛下!」
ザビー皇国現皇帝、スヴェトラバ・ザビー陛下だった。
彼女は安堵の表情を浮かべ、俺のすぐ前まで来てそのまま俺の両手に手を伸ばした。
「あぁ、ユリウス。よくぞ国を守ってくれました!怪我などありませんか?」
「大丈夫ですよ陛下。陛下もご健勝でなによりです」
「ヒューイから報告は受けています。流石はあの人の孫だわ!あなたの銅像も建てなくちゃね」
「そ、それは結構です……」
孫との再会を喜ぶように俺の手を取る陛下。
陛下もそれなりに心労が祟っているようで、少し顔色が悪かった。
手を取られているついでにこっそりと回復魔法をかけておく。
「《赤角》のシエナ。そして《銀の勇者》エルディン。あなた方もよく……あら?」
「あ!?えっと!エルディンの妹のエルディーヌです!兄が陛下のお役に立てて光栄だと言ってました!」
しどろもどろに言い訳するエルディーヌ。
シエナはひとまず背筋を伸ばしていた。
流石は貴族令嬢。
こんな時でもシャンとしている。
……わずかに頭が揺れているが。
「そう。お兄様に伝えてね。あなた方の英雄的働きによって多くの人命が救われました。救国の英雄に国民全員を代表してお礼申し上げます。ありがとう」
皇帝陛下はそう言って深々と頭を下げた。
後ろの護衛達がざわついている。
照れ臭く頬をかきながら仲間を見渡す。
エルディーヌはどうか顔を上げてくださいとあたふたしている。
シエナはまんざらでもない表情で腕を組み、フンと鼻を鳴らした。
「陛下」
後ろから野太い声がした。
ザルバがのっしのっしとこちらに歩いて来る。
肩には簀巻きにされたアルフリードを担いでいた。
頭にタンコブがあって、白目をむいているから暴れないように先に手を打たれた様子だ。
不憫な奴……。
「ザルバ、エバーラウンズ卿の護衛の任見事でした」
「ありがたきお言葉。このザルバ。《剣将》の名に恥じぬ働きをしましょう」
「引き続き頼みます。ユリウス。細やかですが宿を用意しておきました。船の補給と点検は明日のお昼には終わると聞いています。それまでゆるりとすごしなさい」
「感謝いたします。皇帝陛下」
「ことが落ち着いたら式典を開きます。またザビー皇国にいらしてくださいね」
「い、行けたら行きます……」
---
崖に張り巡らされた薄暗い通路を抜けていく。
岩窟族。ドワーフたちによって作られたというこの通路は今も拡充している最中なのだとか。
ドッグへの移動から、街中の近道までありとあらゆるところにつながっている。
輝照石で明るく照らされたトンネルは複雑に枝分かれし、上下にも階段でつながっている。
はしごを使って垂直に上り下りするところもあるくらいだ。
迷ったら出られないかもしれない。
そんなトンネルをザルバは迷わずに進んだ。
彼にとってはこの難解な通路も庭のような物のようである。
彼の背中を追いながら進んだ先は緑と青の世界だった。
強い日差しがさす自然豊かな山の斜面に出た。
ちゃんと通路として整備された山道は青々と茂った樹々に覆われている。
その隙間から見下ろすのは青い空と海が交わる水平線。
船が何隻も行き来する海から視線を降ろしていくと街がある。
波止場を中心に広がった街、国港ディースベル。
船大工と貿易で栄えている街だ。
釘なんかの鉄製品が大量に必要なこの街には鍛冶屋が多い。
街のあちこちに煙突があり白い煙がもうもうと立ち込めている。
鍛冶師の大概が岩窟族で、このディティスという国を支える2大産業の片棒を担っているのだとか。
そしてザルバに案内されたのがこちらのお宿。
街へと続く坂道の途中。
ドッグにも街にも行ける便利の良い立地にある建物だ。
宿と言うには少々大きく、屋敷というには少々小さい。
古びた黄色の屋根からタープを垂らした外観でバーも兼ねているのだとか。
屋根に飾られた風見鶏がクルクルと回るその宿の名前は"黄色の夏風亭"
多数の冒険者たちが出入りする人気店だそうだ。
「こちらのお部屋をお使いください」
他の冒険者と何人かすれ違いながら宿の通路を進んだ。
案内してくれたのは獣人族の給仕だった。
どこの国でも宿の給仕と言うのはディアンドル風の給仕服を着ている。
この世界のスタンダードなのだろう。
何となく猫耳メイド的な見た目に目を奪われつつ、その部屋に入る。
……うん。
普通。
木の床に石灰を塗り固めた白っぽい壁。
部屋は広いが、ベットが6つ。
所謂大部屋だ。
「すまぬ。この時期ゆえ宿の確保もままならず一部屋しかとれなんだ」
「いえいえ。ただの旅人の身です。このくらいが身の丈に合ってて良いです」
「ふむ。そう言ってもらえるならありがたい。救国の英雄には少々手狭だが、一晩のみだ。準備ができ次第また迎えに来る。それまではしっかり休んでくれ」
ザルバが窮屈そうに身を屈めながら部屋を出ていく。
彼は大男だ。
人とすれ違うたびに「おおすまぬ。おおすまぬ」と声をかけていた。
バタンと扉が閉まる。
各々に荷物を壁にかけたりベットに投げながらまずは一息をついた。
「……救国の英雄ですって!」
辛抱堪らずに口を開いたのはシエナだった。
目を輝かせ嬉しそうに枕に抱き着いている。
船酔いのぐったりした彼女はどこへ行ったやら。
「イーレ聞いた?救国の英雄よ!アレク様と同じ!私たちの伝記とか出るかもしれないわね!」
「シエナ英雄!みんな英雄だからイーレも英雄?」
「当然よ!」
「まぁ、みんなで頑張ったからねぇ」
ベットに足を投げ出しながらエルディーヌが彼女らに同意する。
ロレスはと言うと窓から街を眺めていた。
二階のこの部屋からは窓から港を眺めることが出来る。
多分一番窓際のベットは彼女が取るだろう。
「ユリウスは嬉しくないわけ?」
シエナの声。
スッと皆の視線が俺に向けられた。
「嬉しい。と思います。ただ実感がわかないだけで」
ベットに腰かけた俺は苦笑しながらそう答えた。
英雄になるというのは冒険者の憧れだ。
俺が英雄です!と自称したところでなれるものではない。
実績と名声が伴い、はじめてそう賞賛されるものだ。
そういう点では俺は英雄らしくない。
俺はしがない魔道士だ。
二つ名があるわけでもなく、アレキサンドルスのように強いわけでもない。
しかも結果的に街が守れたから良かっただけで仲間たちを危険に晒すような賭けに出た。
俺はテオドールへの嫌がらせをしただけに過ぎない。
「実感が欲しいなら街へ出向くがいい」
そう口にしたのはロレスだ。
「帽子とローブと杖を持って街を歩くだけでいい」
「歩くだけ、ですか?」
「あぁ」
「まぁ街には薬を買いに行くつもりですが……」
「なら誰か連れていけ。1人で行くと面倒だ」
壁に背中を預けて、いつもの体勢で彼女は言う。
「ボクは露天商を回ってみるからパス。イーレ様、手伝ってくれます?」
「う……イーレ、ユーリと一緒が良かった……」
「そう言わずにさ。ね?」
ね?と彼女は俺に目配せする。
バチコーンとウィンクするその視線は俺に何かを訴えかけている。
「私は休む。勝手に行ってこい」
ロレスはそうヒラヒラと手を振る。
……ということは。
チラとシエナを見る。
彼女も俺を見ていた。
「「……」」
互いに数秒の無言。
交差する視線。
「……私!?」
「頼んでも良いですか?」
「え、えぇぇ……」
途端にシエナはバババっと自分の身だしなみを気にし始めた。
髪を手櫛で解いたり、服を引っ張ってみたり。
「……い、嫌よ!!」
嫌よ!嫌よ!嫌よ!嫌よ!……
不思議とエコーがかかって聞こえた。
ついでに雷が落ちるような音も聞こえた気がする。
嫌。
嫌と来たか。
そうか、嫌か。
ちょっとショックだ。
いや、かなりショックだ。
悟った顔で小さく笑みを浮かべているつもりだが。
心情としては胸に『嫌』と書かれた炎の槍がぶっ刺さって口の端から血を垂らしている。
走馬灯のように首都ロッズで彼女と歩いた日々が思い浮かぶ。
ユリウス!ユリウス!と呼んでくれた幼いシエナ。
そうだね、歳を重ねればそういう事もあるよね。
いつかパパ臭いとか。
パパの下着と一緒に私の下着洗わないで。
とかってなるよね。
パパは君の成長を嬉しく思うよ。
『あなたとすごしーたひーびが……』
「ユリウス。ユリウス戻ってきてよ」
揺さぶられながらもありもしない彼女との思い出アルバムが脳内で展開されていく。
意識の外ではエルディーヌが目の前で手を振っている。
申し訳ないがちょっと反応できない。
そうか、俺とお出かけ、嫌かぁ……。
「あぁ、駄目だ。とりあえず外で待っとくよう伝えておくから」
「わ、わかったわ」
ほいとエルディーヌに担がれて部屋の外に連れていかれる。
「あと、もうちょっと言い回しを気にした方が良いよ?シエナは結構キツめだからユリウスみたいな子には変に刺さるんだ。同じ女子としての忠告ね?」
「エルディンは男じゃない」
「今は女の子ですー」
「なによそれ……」
バタムと扉が閉じられ、ひとまず俺とエルディンとイーレの3人が宿の外へと向かった。
---
《シエナ視点》
「……」
「ど、どうしよう……。どうしよう!どうしよう!?」
2人だけ残された部屋で私は狼狽えた。
無言で睨んでくるロレスに気を配ることすらできない。
セドリックと斬り合った時よりも私は動揺していた。
ユリウスとお出かけ。
ユリウスとお出かけ!
首都ロッズ以来の事だ。
何もしなくても頬がふやけて胸が躍る。
「どうするも無いだろう。嫌なら断ればいい」
「この格好で行くのが嫌って言ったの!!」
「言ってないぞ。お前」
言ってなかったかしら。
まぁ良い。
今となっては過ぎたことだ。
とにかく恰好を何とかしないといけない。
船酔いで吐いた物が散って臭いがするし。
海風で髪が痛んでバサバサだし。
ローブはしばらく洗ってないからドロドロだし。
ついでに着替えも無い。
当然今から洗う時間も無い。
あぁもう。
ザビー皇国で風邪なんか引かなければ全部まとめて洗っておいたのに!
「ロレス!服を貸して!あと下着も!」
「生憎と同じ形のしかない。それに大きさも合わんだろう」
「今の恰好よりはマシよ!」
服を脱ぎ捨てながらロレスのカバンを勝手に漁る。
せっかくユリウスと街へ出るのだ。
恰好くらいは気を使いたい。
ただでさえ英雄となった彼の隣を歩くのだ。
それにふさわしい剣士としての装いをしたい。
騎士のようにとは言わない。せめて小奇麗に。
「……」
「だから言った」
確かにロレスの言う通り、どれも大きい。
シャツは私の腕が出ないしズボンは足が出ない。
下着は下は着れなくもないが上は無理だ。スカスカになってしまう。
女としての格の違いを見せつけられたように思えて悔しい。
「お前のカバンにとっておきがあるだろう」
「あ、あれはもっと特別な時のために」
「今がそうじゃないのか?」
そう言われてたじろいだ。
確かにソーディアの街で滞在中に届いたお母様の贈り物がある。
今まで一度も袖を通していないし、ロレス以外存在すら知らない。
私のカバンの底で眠っている一張羅。
でもあれは、本当の本当に特別な時に身に着けたいと思っている。
なにせ下着もセットなのだから。
「まぁ、ユリウスならどんな服でも文句を言わないだろうな」
「それじゃ私が気に入らないわ!これは私の問題なのよ!」
そう。
私の問題。
今や英雄となったユリウスの隣を歩くのは、最強の剣士《赤角》でありたい。
凛々しく、格好よく。誰よりも鮮烈で美しい。
そんな師匠のような剣士でありたいと願うことの何が悪いだろう。
それがかなわずとも、せめてゲロ臭い女は嫌だった。
「ううう……」
考えながら親指の爪を噛んだ。
いっそ着てしまおうか。
でも、変じゃないだろうか。
あの服はちょっと少女趣味すぎる。
私がまだ屋敷に居たころに着ていたようなフリフリの服だ。
多少はマシといえど、今となっては私の趣味じゃない。
「……面倒な奴だ」
ロレスが大きくため息を吐いた。
「小奇麗であれば良いのか」
「……そうね。最低限そうしたいわ」
「じゃあ言うことを聞け」
バサリと宿泊用のガウンを投げられた。
「この宿には風呂があっただろう。まずはその臭い身体を何とかしろ」
「く、臭くなんか!」
スンスンと確認する。
……確かに臭い。
酸っぱい匂いがする。
あと生臭い。磯臭い。
「……なんとかするわ」
「手間のかかる弟子だ」
そう言って彼女はゴソゴソとカバンから小さなポーチを取り出した。
あんなもの持っていただろうか。
「何よそれ」
「香油、香水。あとはちょっとした化粧道具」
「あんたそんなもの持ってたわけ!?」
「淑女の嗜みだ。それくらいの用意はある」
意外だった。
雨に濡れても服が渇くまで着たままだったことが何度もあるロレスだ。
時々獣臭ささえ放っていた彼女からは到底思い至らないような小道具が出てきた。
てっきり師匠は根っこまで戦士だと思っていた。
「服も化粧も私が手伝ってやる。手早く風呂に入って帰ってこい」
「……でも……」
「ユリウスに良い恰好をしたいのだろ?私も女だ。覚えが無いわけではない」
そういう彼女の顔はいつになく穏やかだ。
嬉しそう、と言っても良いかもしれない。
「急げよ。遅れればエルディーヌと連れ立って街へ出るかもしれんぞ」
「それだけは絶対嫌!行ってくる!」
後ろで「まったく……」と毒吐く師匠の声を聴きながらバンとドアを蹴破って風呂へ走る。
あぁ、悔しい。
剣の腕も、女としての格もロレスにはまだまだ及ばない。
それでも越えたいと思えるような師匠を持てて私は幸せだと思う。
いつかはロレスに正面から勝ってみせる。
その第一歩だと自分に言い聞かせながら、念入りに。
それはもう念入りに体を洗った。




