第二十話 「我儘に」
《シエナ視点》
深い深い眠りの中で、夢を見た。
いつかの夢。
昔の夢。
兄上たちの夢。
私は兄上たちの事が好きだった。
尊敬もしていたし、あこがれていた。
礼節も算数もできる兄上は従者たちからも好かれていた。
2人は自慢の兄だった。
私が5歳になったくらいだったと思う。
兄上たちは剣術を習いはじめた。
兄上も私も魔術の才能がなかったから、必死で取り組んでいた。
「魔術が駄目ならせめて剣術を。」
父上は口癖のように言った。
しかし、血がにじむような鍛錬をしても兄上たちは上達しなかった。
そして徐々に、兄上たちは狂っていった。
木剣で従者を殴り、大声を出すようになった。
私はその姿が恐ろしかった。
でも、嫌いになることはできなかった。
そして思いついた。
そうだ、一緒に剣術を習えば昔の兄上たちに戻ってくれるかもしれない。
それが兄上たちをさらに追い詰めることになった。
初めて木剣を握った日、私は兄上に勝ってしまった。
木剣を打ち合わせただけで、兄上の木剣が粉々になってしまった。
「シエナ様は天才だ!すぐに王宮剣士の稽古を受けさせるべきです!」
指南役の衛兵が嬉しそうに父上に報告する場面をよく覚えている。
衛兵の声とは逆に、忌々しいと私を睨む兄上たちと自分の子供を見下す父上の顔をだ。
その日から兄上たちは私を嫌いになった。
憂さ晴らしのような手合わせに何度も何度も付き合った。
私が勝てば「兄を立てることすらできない無能な妹だ」と言われた。
私が負ければ「手を抜いて戦うような無礼な妹だ」と言われた。
ある日、私は気づいた。
兄上と同じになればいい。
兄上と同じならばこれ以上嫌われることはない。
だって、兄上と同じなのだから。
自分で自分を嫌うことはできない。
そう思った。
だから私は兄上の真似をした。
従者を木剣でなぐり、大声を上げた。
私におびえる従者の顔を見ると、少しだけ胸がスッとした。
次第に誰も私に近づかなくなった。
それから2人の兄は本家に引き取られた。
特に別れなど告げられず消えるように家から去った。
兄上と同じ私だけが家に残った。
従者を殴り、大声を上げる私だけがこの家の子供となった。
そんな私に父上は様々なものをくれた。
殴っていい執事を。怒鳴りつけていいメイドを。
それらと一緒に私自身を閉じ込めておける部屋を。
ゼルジア家を継ぐことのできない私を遠ざけるために。
もう誰にも嫌われたくない。
だから誰にも好かれないでいることにした。
殴っても怒鳴っても、最初から好きでないなら嫌いも何もない。
私も彼らを好かないようにした。
でも部屋には私が変わらずに好きなものもあった。
母上が夢枕で聞かせてくれた大好きなお話。
アレキサンドルス・エバーラウンズの冒険譚。
彼は私の憧れだった。
幾多の冒険でも自らの信じた正義を貫き悪と戦う英雄。
万人から愛される最強の剣士。《剣豪》アレキサンドルス。
その強さと正しさが私の支えだった。
そうありたいと、そうあれればいいと思う理想の姿だった。
私には無理だと諦めた形だった。
それなのにあいつは、ユリウスはひどく矮小な姿だった。
絵画でみたアレク様と同じ髪と同じ目の色をしただけの男の子。
なのに彼はエバーラウンズ家と名乗った。
ずるい。
そう思った。
アレク様と似ても似つかない小さな体で英雄の血を引いている彼がうらやましかった。
堂々と自分の家名を名乗れる彼が憎かった。
だから殴った。
だから怒鳴った。
私の前から消えてくれれば、この胸のかきむしりたくなるような感情も消えてくれる。
誰からも期待されない自分を見ないでいられる。
楽になれる。そう思った。
なのに彼は決していなくならなかった。
殴っても蹴っても怒鳴っても追いかけても殺そうとしても。
彼は私の前に立ちはだかり続けた。
兄上を負かせた一撃を何度も何度もたたき込んだのに。
あいつの剣は折れず、あいつは私と向き合っていた。
悔しいのに、憎いのに、妬ましいのに。
…どうして私はこんなにホッとしているんだろう…
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《ユリウス視点》
「相変わらずアレクは破天荒がすぎるな…。」
英雄アレキサンドルスの冒険を読みながら思わず口から洩れる。
今読んでいる部分は彼の王宮騎士時代の逸話だ。
アリアーの国王からザビー皇国への出兵を命じられた彼はベルガー大陸を部下たちと共に横断。
その途中の三国紛争地帯と呼ばれる三つ巴の戦場を突っ切ったのだとか。
3国分の兵力はアリアー国出兵隊に向かって一斉に襲い掛かった。
しかし、アレクは王国に伝わる大楯を手にそれらすべてを薙ぎ倒したのだ。
以降、その紛争地帯は現在に至るまでのアレクを恐れて40年間も冷戦状態を維持し続けているのだという。
(小さいとはいえ国三つ分の兵士を1人で倒すなよな…。)
いったんページを閉じて背伸びをする。
今日の朝からここで本を読んでいるが、意外と時間の進みが遅い。
というか、こんな部屋では時間間隔など無くなってしまう。
時計などないのだから、せめて窓くらいは欲しい。
今いるのはシエナの部屋だ。
彼女の生活に密着取材をするため、朝からこの部屋で本を読んでいる。
すでにベンジャミンに頼んで外から施錠してもらって密着二十四時の準備は万全だ。
改めてこの部屋を見ればドミトルの過保護さというか、不器用さがよくわかる。
生活感があるのはベットばかりで、ほかの場所はきれいに掃除されているものの使用した形跡が薄い。
よく読んでいる本だけが表紙がよれていたりするくらいで、勉学や教養の本は新品同然だ。
娘に買い与えている。これが愛だ。と豪語したわりには彼女の趣味嗜好への理解が薄い。
彼女が好きなのは冒険譚などのおとぎ話が書かれた本だ。
ベットの枕元にある数冊もそういう手合いの物であった。
青空を模した天井と壁をぐるっと見渡してから、ベットで寝息を立てる部屋の主に目をやる。
色白の不健康そうな肌と、灼熱の炎のような赤い髪。
先日決闘したお嬢様。シエナである。
柔らかそうなピンク色のパジャマを着た彼女は一向に起きる気配が無い。
時々小さくうなされる様な声が聞こえることもあったが、まるで泥のように眠っている。
「可愛いんだけどなぁ…。」
ベットの前で膝立ちで座り、彼女の顔を覗き込む。
スッと通った眼鼻に、長いまつげ。
ドミトルの要素は目の色ぐらいなのできっと外観は母親似だ。
俺がもしこんな娘を持つ父親ならそれはもう盛大に甘やかしていただろう。
なに!?服が欲しい!?買ってやろう買ってやろう!!店ごとお買い上げだ!
犬が飼いたいだって!?ベンジャミン!手ごろな屋敷と犬を101匹用意せよ!
好きな人が出来ただと!!??戦争だ!!!娘を欲しくば俺を倒してからに言え!
…うん、それぐらいしそう。できなくても口にしそう。
父親の立場でドミトルの考え方は共感できなくても理解できるかと思ったが、俺には無理だ。
しかし、貴族としての立場ならば。彼の意図はなんとなく理解できる。
…当然、人道であるとは言いにくいが。
もし、本当に一族の安寧だけを目指すものであるなら俺も同じことをする。
長所の無い息子二人を親戚の家に迎えさせ、ドラゴンロッドの血筋を存続させつつ。
娘にはほかの資産家と結婚させて金を融通できるようにする。
そうすれば息子二人のどちらかが子供をもうけたときに連れもどし、ゼルジア家として育てる。
資金を蓄え、血筋を繋ぐには最短の一手かもしれない。
本人たちの意志を尊重しないという意味合いにおいては下策も下策だが。
(…デニスなら、どうしたかな…)
生前含めて一番俺と近い視点を持っている父親はおそらくデニスだ。
もし彼が貴族という立場で、この状況ならばどんな手を使っただろうか。
もしかしたら彼は没落を選ぶかもしれない。
そして俺が選ぶのもおそらく同じ道だ。
それは俺自身が貴族でないということもあるが、家族を利用してまで手にする価値のある立場とはそれほど重要なのだろうか。
俺ならば立場より家族を選ぶ。
愛する妻と、その子供たち。
当面の資金になりそうなものを抱えてトンズラするだろう。
そう考えれば考えるほど、ドミトルの事がわからなくなる。
しかし考え事はいったん終わりのようだ。
「…ん…。」
シエナが小さく声を漏らしながら目を開ける。
紅い瞳がぼんやりと虚空に視線を送った後に彷徨い、俺に焦点を合わせる。
「おはようございます。シエナお嬢様。」
ニコリと笑って挨拶する。
挨拶は大事だ、とくに笑顔とセットであることが重要である。
「…なんであんたが居るのよ…!」
こうか は いまひとつ の ようだ ▼
起き抜けにすぐ目を吊り上げて拳を見舞うべく腕を振りかぶるが、魔力切れの体は上手に動かない。
彼女は体制を崩してベットからずり落ちる。
とっさに抱き止めた。
彼女の体はあまりにも軽く、華奢であった。
「大丈夫ですかお嬢さ─」
ま。と言い終わる前に左頬に拳を貰った。
木剣の一撃と比べれば脅威ではないが、痛いものは痛い。
「余計なお世話よ…!」
疲労困憊の体でよくそれだけ手が出せる。
「そういうときは先にありがとうって言うものです。」
「あんたにだけは嫌!」
バタバタと手足を動かし暴れるシエナ。
殴られてはたまったものではないと彼女の手首を掴んで直撃は回避する。
「暴れないでください!まだ回復しきってないんですから!」
「平気よ!あんたに心配されるような─」
─グゥゥゥゥ…。
素晴らしいタイミングで彼女の腹の虫が騒ぎ出した。
先ほどまで怒りで染まっていた彼女の顔が恥じらいの色に染まる。
「ち、違うんだから!お腹なんか空いてな─」
─ンギュルルゥゥゥゥ…。
言葉とは裏腹に彼女の体は空腹に喘ぎ、切なく鳴いている。
シエナは腕でお腹を抑えるようにして隠した。
顔を真っ赤にして、眼には涙が浮かんでいる。
「…空いてないんだからぁ…ッ。」
─キュウウウゥゥゥ…。
彼女は先日の朝食後からひたすらに木剣を振り回していた。
そのままたっぷり日が昇り切るまで眠っていたのである。
こうなることは予想がついていた。
だから昨晩から仕込みを行っていたのだ。
「…あの、ひとまず休戦にしてお食事にしませんか?」
腹が減っては戦もできぬ。
何事もまずは食事をすることからだ。
俺の提案にすこし間を開けてシエナは素直に頷いた。
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炎の魔法を応用してクッキングヒーターとする。
コガクゥの村にいるころからの特技だ。
トレイの上の土鍋がコトコトと小さく揺れいている。
煙も出ないし場所も選ばない。魔法ってすごい。
昨晩から仕込んでいた料理の仕上げをしている。
せっかく作るのだ、出来立てを食べてもらいたいというのが作り手というもの。
なので寝室であるとは承知の上でユリウス数分クッキングのお時間だ。
といっても、すでに温めるだけとなってしまっているが。
昨晩の内に鍋で長時間鱗鶏の骨を香草と一緒に煮込んだ。
醤油とか生姜とかが無いものの、塩だけでも十分な旨味を抽出できた。
やはりどの世界でも鶏というのは素晴らしい。
今日の献立はそうやって作った鶏ガラスープをふんだんに使用した麦粥。
前世での麦粥は本来チーズやハチミツを使った甘い味付けだったのだが、俺が目指したのはあくまでも日本食のお粥だ。雑炊といっても差し支えない。
米があったらぜひとも再挑戦したい出来栄えだ。
ちなみに試食はメイドのシェリー氏にお願いした。
大絶賛だった。
「これならシエナ様もきっとお気に召しますでしょう!おかわりおねがいします!」
とは彼女の言葉だ。
火加減を見る用の試作品をすべて彼女が食べきってしまった。
それだけの栄養が行くというのだからあの巨乳も納得だ。
ふつふつと温まったところで、やけどしないように小皿に取り分ける。
「どうぞ、お召し上がりください。」
ベットに半身を起こした状態でいる彼女に麦粥の入った小皿とスプーンを渡す。
「…あんたが作ったの?コレ。」
「こう見えてもちょっと覚えがありまして。」
「ふーん…。」
食器とスプーンを受け取ると、匂いを嗅いだりして警戒しているようであった。
「あ、シェリーさんが味見されたときは美味しいと─。」
言い終わるか終わらないかくらいでグーで握ったスプーンで麦粥を口へと運ぶ。
優雅な食事姿とは程遠いが、彼女らしいといえば彼女らしい。
粗暴とも素朴ともいえる。
シエナは暫し味わったあとに特に感想も無ければ表情も変えぬままにもう一口とスプーンを動かす。
(…口に合わなかったかな…?)
思いはしたが、それは杞憂であった。
徐々に口へ運ぶスピードが速くなり、最終的には皿に直接口をつけて流し込むように食べ始めた。
「あの…。」
さすがにちょっとお下品では?
と口を挟もうとしたときに目の前に空になった皿が突き出された。
「…ん!」
頬に麦粥をつけたままシエナは待っている。
意図が分かればこちらの顔もほころぶ。
「…はやく!」
「はい!ただいま!」
まるで餌を待っていたひな鳥のように彼女は麦粥を頬張った。
土鍋一杯に用意していた料理はあっという間に食べつくされた。
シエナは少し物足りなさそうであったが、腹が膨れたおかげか顔色が少し良くなったようにも見える。
「お気に召していただけましたか?」
「まぁまぁね。次はもう少し味が濃くてもいいわ。」
次、ね。
食器を片付けながらもその言葉で再び頬が緩む。
あれだけ美味しそうに食べてもらえたなら、本望というものだ。
「ん。」
再び彼女が短く声をかける。
頬を差し出すようにして何かを待つシエナ。
「…はやく!」
「…あぁ。なるほど。」
しばし考えたあとに食器をおいて、その差し出された頬にチュッとキスをする。
おかえし代わりにズガンと抉るような鋭い拳が俺の左頬をぶち抜いた。
空中で三回転したあと冷たい床に転がる。
「拭けって言ってんの!!次やったら本気で殴るからね!!!」
声のハリもよくなったし、元気も出たようで一安心だ。
…というか、今まで本気じゃなかったんですね。お嬢様。
信じらんないとシエナは毛布で顔を拭く。
「ひょうひはほろられはほうへはひほりへふ。ほほうはは…。」
頬をさすりながら体を起こすとベットの上の彼女はフン!とそっぽを向いた。
「ていうか、なんであんたが部屋にいるわけ?シェリーはどうしたのよ。」
「今日は1日僕がお傍にいることにしました。指導係ですので。」
「は?まだ許可してないじゃない。」
「決闘の約束はお忘れで?」
「なんでそんな約束守らなきゃいけないのよ。」
えぇ…
そりゃないぜシエナちゃーん…。
「じゃああんたは私が勝ってたら首切ったわけ?」
「そのつもりでしたよ。」
即答してみせた。
いや実際はどうかといえばまず逃げ出すだろうけど、ハッタリは大事だ。
俺は目的のためには悪にもなる男だ。
「な、なんでよ。冗談に決まってるじゃない!そこまで、本気にならなくても…。」
「僕は本気ですよ、シエナお嬢様。」
気まずそうに目線を逸らしたシエナの顔を見る。
眼が合いさえしなければ、相手の顔を見ることなど造作もない。
目を伏せたままの彼女に言葉をかける。
「最初はなんて狂暴なお嬢様だろうって思いました。殴られましたし怒鳴られましたし。でも師匠のこともあるから解決しないわけにもいかないなと。悩みましたよ。正直。」
俺は続ける。
「本当は、殴ってでも更生させようって考えてました。敵になってでも悪者になってでもあなたがちゃんとした大人になれるならそれでいい。でもこの部屋に居て考えが変わりました。」
ズイと彼女の顔を覗き込む。
普段しなれないから、若干緊張する。
シエナはキョドキョドと目線を泳がせていた。
反省の色が見て取れる。
「シエナお嬢様。あなたはもっと我儘になるべきです。もっと自分のことをちゃんと口に出して伝えてください。殴るでも怒鳴るでもなく伝えなくちゃ誰もわからないんです。あなたが辛い気持ちでいることも。本当は優しい人であるということも。」
そう、彼女のよむ本はそういう優しいお話ばかりであった。
"大狼の墓守ポロー""慈悲の女神ロゼイアの伝説"
その2冊の本は特に背表紙が擦り切れるほど読まれた本だった。
どちらも共通しているのは裏切られても尚、自分の信じたものを守る姿が描かれている事。
アレクの逸話にもそういう話がある。
「なによりあなたの剣筋がそれを物語っていました。あれは人を傷つける剣の動きじゃない。」
「…ッ!」
核心を突く言葉に彼女はビクリと体を震わせた。
彼女の殺気は本物であったし、剣筋の鋭さも相当のものだった。
だが1つだけ彼女の剣の振り方には嘘があった。
シエナは大上段の攻撃しかしてこない。
その気になれば横一閃を入れれるタイミングであっても決して打ってこなかった。
それはおそらく、相手を気遣って戦った稽古の名残だ。
「…だから何よ。今更どうしろっていうのよ…。」
彼女が小さく言葉を紡ぐ。
「父上にも遠ざけられた私が、何を伝えられるっていうのよ!!」
涙声の叫びと共に、再び彼女の拳が俺の頬を打ち抜く。
至近距離の一撃を俺は何もせずに受け入れた。
口の端が切れて血の味が広がる。
「もう兄上も居ないのよ!私だって貴族の末女がどうなるかってことぐらい知ってるわ!!そんなのが今更何か頑張ったってどうにもならないじゃない!!」
さらに一撃。
眉間のど真ん中に拳が突き刺さる。
だが、俺はそれを同じように受けた。
「なんで避けないの!なんでやり返さないの!!あんたエバーラウンズでしょ!?強い血筋の人なのになんでやられっぱなしなのよ!!」
もう一発振り落とされる拳。
俺は今度はそれを掴む。
「…強くなんかないですよ。僕はとても弱い。」
痛みに耐えながら、言葉を選びながらそれを口にする。
「祖父のように剣術の才もなく。4歳になるまで魔法ひとつ使えなかった僕が、強いわけないじゃないですか。」
自分でも口に出せば苦笑が浮かぶ。本当に落ちこぼれだ。
「もし、血筋だなんだというのであれば。僕がアレキサンドルスお爺様から受け継いだのは目と髪の色だけ。僕の家は片田舎の平民の家でしたから、家名が有名だってことを知ったのもつい最近です。でも一つだけ僕にも祖父にも共通していることがあります。なんだと思います?」
彼女は押し黙ったままだ。
掴まれたままの拳にはすでに力はない。
「…人にやさしくする。だたそれだけの事ですよ。お嬢様。」
そっと彼女の手を両手で包む。
小さく細い手が、震えていた。
「だから、父上に言えないならせめて僕に我儘を言ってください。シェリーさんでもベンジャミンさんでも。きっと叶えてくれますよ。だってこの館の人は皆シエナお嬢様のこと大好きですから。」
そこまで言う頃には、彼女の頬を雫がつたっていた。
すぐさま彼女はパジャマの袖でそれを拭う。
「…仕方ないわ。仕方ない甘ちゃんね!アレク様が言うならともかく、あんたが言ったって説得力ないでしょ!」
何度も何度も彼女は顔を拭った。
拭いた端から大粒の涙が落ちて行く。
「仕方ないから、これからは思いっきり我儘を言ってあげる!父上もベンジャミンも思いっきり困らせてあげる!全部あんたが悪いんだからね!!」
泣きながら笑う彼女はそれからポスンと俺の胸目掛けて拳を当てた。
「はい。望むところです。シエナお嬢様。」
ベットに座ったままの彼女から一歩下がり、傅く。
「このユリウス・エバーラウンズに何なりとお申し付け下さい。微力ながら、シエナお嬢様のお力になります。」
騎士礼節の最敬礼。
幼い貴族令嬢と、小さな魔道士の細やかな誓いであった。
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斜陽差し込む夕暮れ時、ドミトルは早めの夕食のために食堂に来ていた。
ベンジャミンの姿が先ほどから見えないことに眉をしかめてたところだ。
「父上!!」
シエナによって乱暴に食堂の扉が開け放たれる。
後ろにはベンジャミンと俺が続く。
「シエナ!?どういうことだベンジャミン!今は部屋にいる時間だろう!!」
「シエナ様がドミトル様にお話があるということでしたので、例外的に開錠いたしました。」
ドミトルの怒号にベンジャミンは恭しく頭を下げる。
「私が頼んだわ!」
しかしシエナはそれを軽々と越える声量で堂々と腕を組んで言い放つ。
「今日は父上に我儘を言いに来たの。私が良いって言ったら良いのよね?ベンジャミン?」
「確かにドミトル様は、シエナ様が良いと仰ればと。」
「何の話だシエナ。」
「決まってるわ!!」
後ろ手に胸倉を掴まれて俺は乱暴に前へと引っ張り出された。
もう少し丁寧に扱ってほしいね!
「私の指導役はコイツにする!!」
「…ど、どうも…。」
フフン!と彼女は自信ありげに笑う。
対照的に俺は少し身を縮めていた。
まさかこんな道場破りみたいな登場するとは思わなかった。
「…ほう、娘の指導役を取り付けたか。思っていたよりはやるな。」
「お褒めに預かり光栄です。ドミトル様。」
彼は意外と冷静だった。
「ではこれからはシエナの教育を頼むぞ。ドラゴンロッドの者として慎みある淑女へ教育を─」
「まだ話は終わってないわ父上!」
ドミトルの言葉を遮るようにシエナは話す。
ベンジャミンと俺の背筋に冷や汗が走り始める。
「私ね、ずっと思ってたの。父上に嫌われたくない。従者に嫌われたくないってずっと思ってたわ。だから良い子でいるのを辞めたの。好かれなければ嫌われることもないもの!でもコイツが教えてくれた。この館にいる人は皆私を好きで居てくれるって。だから私は変わろうと思うの!今までの私じゃダメなんだって気づいたの!」
まるで憑き物が落ちたように彼女は快闊に語る。
「父上!私は今日から我儘を沢山言う子になる。もう怒鳴ったり殴ったりしないわ!だからその代わりに私の我儘を聞いてほしいの。」
「…まぁ、我儘ぐらいであればいくらでも。」
あぁ、言質を取ってしまった…。
「じゃあ私は今日からコイツをユリウスと呼ぶわ。ユリウスも私の事はシエナと呼びなさい!いいわね!?」
「なぬ!!??」
ガタンとドミトルが椅子から飛び上がるように立ち上がる。
「これで対等ね。いちいち敬称を付けられるのが耳障りだったのよ。」
「馬鹿な!!アレキサンドルスの孫とはいえ平民の出だぞ!しかもお前より年下だ!そんな奴に呼び捨てなどあってはならん!取り消しなさい!」
「嫌!!!」
たった一言でバッサリと切り捨てられたドミトルは奥歯をギリギリと鳴らした。
「…ユリウス!!貴様指導係だろう!!もっとちゃんとした指導をしたらどうなんだ!!」
耳まで顔を真っ赤にしながらドミトルは声を張る。
しかし、俺にも言質がある。
「…しかしながらドミトル様。指導は僕に一任下さるとのことでしたので。この指導方針を変えるのは少々誠意に欠けるかと…。」
「ふざけるな!!アレキサンドルスを領地統括の任から外してもよいのだぞ!!」
「構いません。」
俺もシエナに倣ってバッサリ切り捨てる。
「祖父の代わりが居るのでしたらどうぞお使いください。最も《剣豪》アレキサンドルスほどの適任者が今後現れるかどうかは保証しかねます。」
そう、冷静に考えればアレクほど領地統括の任に向いている人選は無い。
人望があり、軍略に長け、実績を持つ。
おまけに大陸で五本の指に入る剣の実力の持ち主だ。
おいそれと変わりなど見つかるはずがない。
一瞬でもアレクが首にされると思った自分を恥じた。
「それにもとより僕は─。」
シエナに目線を送る。
彼女は自信ありげに笑う。
言ってやんなさいよと、その表情が語り掛ける。
「僕はシエナの指導係です。ドミトル様の従者ではありませんので悪しからず。」
簡易騎士礼で小さく頭を下げる。
彼は乱暴に机に拳を叩きつけるとさらに怒りをあらわにした。
「ベンジャミン!!ユリウスは貴様が連れてきたのだろう!!責任を取れ!!!」
「…お呼びしたのは我が師、ネィダ様でございます。それはドミトル様も重々ご承知の事でしょう。」
ベンジャミンの言葉にドミトルの顔色が赤色を通り越して青色になっていく。
「それにどうかシエナ様のお顔をご覧になって下さい。こんなにも明るい表情は兄君方が家に居たころ以来でございます…!」
怒りの表情のままドミトルはシエナを見る。
そして気づく。
彼女が笑みを浮かべていることに。
見る見るうちに怒気が無くなっていく。
「…いかがでしょうか、ドミトル様。ここはしばらくユリウス様に託してみるというのは。」
その言葉でドミトルはヘナヘナと椅子に座り込んだ。
疲れ切った表情で、髪を直しながらため息を吐く。
「…お父様…。」
シエナが心配そうに歩み寄り声をかける。
「…そう呼ばれるのは何年振りか。思えば長く食事を共にすることもなかったな。」
そういってドミトルはシエナの頭に手を置いた。
ポンポンと優しく叩き、その赤い髪をなでる。
そしてもう一度大きく息を吸い込みながら言葉を紡ぐ。
「せめて、ドラゴンロッドの淑女として精進しなさい。お前に私が言ってやれることはそれくらいだ。」
「…許してくれるの?」
「我儘は聞くといったのは私だ。それにいつかは、シエナを何処かにやらねばならん。教育は必要だ。ユリウス!」
突然呼び立てられて背筋が伸びる。
「…あまり、お転婆にしてくれるなよ?」
そういうドミトルの声は今までにない優しい声色だった。
彼もまた、厳格な父親を装うことに疲れていたのだ。
「努力いたします…!」
「頼む。ベンジャミン。食事の用意にしてくれ。今日は…皆で食べよう。」
「ドミトル様…。かしこまりました。すぐにご用意いたします。」
ベンジャミンはそういうと準備に取り掛かった。
今日はメイドたちも随分気合が入っているように見えるのは、きっと先ほどの会話を聞いていたのだろう。
壁にミザリー障子にメアリー、厨房にシェリーだ。
あっという間に話は屋敷中に広がった。
その日の夕食は豪華ではなかったものの、大量に用意された。
シエナの我儘で、屋敷に居るもの全員と夕食会が行われることになったからだ。
誰一人としてそれを拒むものはおらず、皆が一様にシエナの我儘を聞いた。
もちろん中には暴力を警戒する従者もいたが、それも最初だけだった。
「いつかのシエナ様のお誕生会を思い出します。あの時もこうやって従者全員と食事をしたものです。」
とベンジャミンが懐かしそうに目を細める。
「…やはり、ユリウス様が来てくださってよかった。感謝いたします。」
「僕は何も。ただちょっとだけシエナの背中を押しただけです。」
2人で隅っこのほうで話しているとシエナから声がかかる。
「ユリウス!あんたもこっちでなんか話しなさい!」
酔っぱらいじみた無茶ぶりにハイハイと対応する。
本来なら、お嬢様その辺でと止めるべきなのだろうが。まぁいいか。
シエナがあんなにも笑顔なのだから。
まるで失った年月を取り戻すかの如く賑やかな食事の時間は過ぎていった。
俺はシエナの指導係になった。
人物紹介
シエナ・ゼルジア・ドラゴンロッド 人族 9歳
ゼルジア家の末女。幼い頃は寂しがりの普通の女の子。
剣術を習い始めたのを機に狂暴性が発露。幾度か魔術師を指導係にと与えられたが、即日屋敷から叩き出してしまう困り者だった。
好きな人は母リュミドラ。好きな食べ物は麦粥。




