第一話「こんにちは、赤ちゃん」
目が覚めた。
気だるい体からはどうやら熱は引いたらしい。
しかしながら体は上手に動かせないでいる。
まるで筋肉がすべて溶けてしまったようだ。ピクリともしないぜ。
なんて思う程度には頭がぼんやりしている。
どのくらい時間がたったのだろうか。
どうやら仰向けに寝かされているらしい。
囲いのあるベットからは薄明りに照らされた天井だけが見えた。
見慣れた安アパートの白い天井ではなく木の板がむき出しの高い張と天窓が見えていた。
空は真っ暗で、窓ガラスにはロウソクの火のような小さな明かりが反射していた。
窓枠に雪がすこし積もっているからどうやら雪国らしい。
……どこココ……。
ぼーっと眺める。
知らない天井ですね。
少なくとも病院ではないようだ。
なんにせよ助かった。危ないところだった。
走馬灯まで見えたけど、ギリギリ致命傷で済んだようだ。
助けてくれた人には礼を言わねばなるまい。
会社の上司だろうか。あんな小言しか言わない上司でも気が利くことするじゃないの。
今度菓子折りでも持ってって……
そう思っていると周りが暗くなった。
何かがわずかな光を遮ったようだ。
そちらに目をやって、俺は驚いた。
金髪の女の巨人がいた。
体格の差は身長165㎝の俺と比べれば5倍はあるだろうか、ヌッとベットの柵越しにこちらを見ている。
ロシア系っぽい顔つきからはあまり年齢を感じなかった。
人間なら二十歳前くらいの人相だ。
何やら嬉しそうな顔で口元を抑えながら目を涙ぐませこちらの顔を覗き込んでいる。
「───!───!」
同じような単語を二回ほど彼女は口にした。
まったく聞き取れない。何語だ?ロシア語?俺今ロシアにいるんです?
とりあえず聞き取れなかったらロシア語かドイツ語だ。
すると今度は彼女と同じぐらいの年に見える眼鏡をかけた金髪の男の巨人が顔を出した。
同じようにロシアか欧州かといった俳優っぽい顔付きである。
彼はその整った顔つきも同じように安堵の表情を浮かべている。
そんな彼は同じように何か言いながら俺のおでこに手を当てた。
手もでかい。
俺の頭が手のひらに丸々収まってしまうほどにはでかい。
握りつぶされるんじゃ……?
しかしその手はそのまま優しく頭を撫でた。
ゴツゴツとした彼の手は少し皮がささくれていて、正直痛い。
「────、─────……。」
「───。」
何やら会話をしている。知能はあるようだ。
夫婦の巨人であるか。
やはり人類は巨人に支配されていたのか。
しかし、いい加減そのナデナデが痛い。
俺は彼の手をどけようと、腕を上げた。
「ぇ。」
小さくあどけない声が俺の喉から漏れた。
俺の腕は赤ん坊の腕だった。
手をニギニギしてみる。
うん、俺の手だ。
何が起こっている?
状況が読み込めない。
半ばパニックになっていると、男の巨人が俺を抱き上げた。
視界がぐわっと持ち上がり景色が広がる。
目に入ったのは簡素な暖炉と山小屋のような木と石でできた部屋。
敷かれた赤い絨毯に揺り籠。
そして窓。
窓に反射する仲睦まじい3人の家族。
若き夫婦にして父と母、
そしてその腕に抱えられた赤子。
そしてそれらは俺に告げる
俺は、俺自身が赤ん坊になっていたのだ。と。
「ぁぇー。」
あと喋れなくなっていた。
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数か月たっただろうか。
しばらく不自由な生活が続いた。
体が自由に動かない。
寝返りくらいなら打てるが、ハイハイはまだ無理そうだ。
しかし驚いた。
目覚めてみると、俺は体が縮んでしまっていた!とかそんなもんじゃない。
完全に生まれ直しているじゃないか。
一体何をどうしたらこんなことが起きる?
あと今の俺の人格って何扱い?
前世の記憶扱いなの?
わからないことだらけだ。
「ハイハーイ、良い子ですねー気持ちいですねー。」
子供をあやすときのあのちょっと高めの声が聞こえる。
この頃にもなるとこの異国の言葉もすっかり耳になじんだ。
視界の隅では金髪の彼女がせかせかと事を成している。
そう、今俺はお風呂に入れられているのだ。
大きめの桶にお湯が張られ、母は半身ほどお湯につかって俺を抱えて布で洗ってくれている。
赤ちゃん言葉で女性と互いに全裸で入浴。
文面だけみるとすさまじいことになる。
さ、三十過ぎた男が年下の女性の前でお風呂場で赤ちゃんプレイ……。
いや!アタイ、恥ずかしい……!
とはならなった。
これが母と子の絆なのか、それとも俺が羞恥心を持ち合わせていないのか。
まったく抵抗感がない。成すがまま、あるがままだ。
この体は律儀なもので、授乳の時もお風呂の時も決して母親に欲情しなかった。
まだまだかわいい股間のベイビーはアダルティにはならないようだ。
あ、この体はちゃんと男の子です。ついてます。
まぁ生前から分別のある大人でしたので。
その辺俺は紳士ですので。股間の紳士はいつでも新品でしたよ?
死ぬまで新品でしたが……ね……。
「ハイすっきりしましたねー。ちょっとまっててねー。あなたー?ちょっと手伝ってくれるー?」
語尾を伸ばす癖でもあるのか、彼女は旦那を呼んだ。
しかしこの母親は見れば見るほど美人である。
よく鍛えているのか無駄な贅肉が見当たらない。
細くすらっとした四肢、たわわに実った母なる果実。
水の滴った肌をランプの明かりが艶やかに照らす。
この素晴らしい女性を我がものとした男性はきっと夜な夜な励んだことだろう。
うらやましい……。
「あ、あぁ、ま、待たせたね……」
キィと扉が音を立てて開く。
彼女の旦那、すなわち俺の父親が何やらオドオドと入ってきた。
眼鏡が彼自身の熱気で曇っている。
耳まで真っ赤にしながらそっぽを向きながらタオルを持ってきていた。
「あなた!そろそろ私の裸にも慣れてくださいな。」
「そ、そうは言ってもだね、私はあまりそういうのはだね。」
「そう言って昨日もシてくれなかったじゃない!」
おーおー、痴話喧嘩だよ始まったよ。
どうやらこの夫婦、妻の方が積極的なようだ。
旦那はヘタレ。
「私を愛してないの!?」
「愛してるとも!愛してるけどそうじゃなくてだね。」
そこは即答か。見せつけてくれるねぇ。
それはそれとしてそろそろ寒いんで、タオルでくるんでもらっていいですかねぇ。
こう寒いと縮こまっちゃいますよ。
息子と、息子の息子が、ね。ふふふ。
次第に会話は方向が変わっていき「私の方が愛してる。」「いや私の方がもっと愛してる。」
などと愛の大きさ比べになったので、俺は派手にくしゃみをしてひとまず会話を遮った。
このままだと朝までかかってしまう。
と思ったところでやっとお風呂場から上がった。
……その後、あのバカップルの夜は激しかった。
家が揺れている。
……うらやましい……。
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また数か月経った。
俺は子供用ベットの柵につかまり立ちしながら夫婦の会話を見ていた。
ついにつかまり立ちをマスターした俺を見た二人は朝っぱらからすごいすごいと飛び跳ねて喜んだ。
頭を撫でられ、頬ずりされる。
……まぁ、悪い気はしないよね?
それはともかくとして、初めて任意で広がった視界に意識を向ける。
今日の父は何やら家を出るようであった。
久しぶりの仕事なのだろう。育休がとれる職場は素晴らしい。
「久しぶりの魔物退治でしょ、ケガしないでねデニス。」
「大丈夫だよサーシャ、今日は父上もついてるんだ。」
父デニス、母サーシャは朝の支度をしていた。
まるで何気ない毎日のように。
だがおかしい、何がおかしいて今の会話がおかしい。
魔物?いま魔物って言った?何かの比喩か?
疑問は尽きない。
あとデニスのその恰好。
いつもの麻のシャツとズボンでは無い。
厚手の上下に編み上げブーツ、レザーの腕あてと膝あてを装着してその上から
昔本で見た十字軍の鎧に掛かっているような前掛けを垂らした格好。
そして腰に下げたソレ、間違いなく剣である。
RPGとかでよく見るロングソードが鞘に収まっていた。
イヤイヤ、コスプレ?原作何?
そんなデニスと会話しながらサーシャは朝食の準備をする。
石をくみ上げて作った頑丈そうな調理台と釜戸、流し。
ステンレスシンクでなければ蛇口もなかった。
さすがに文明レベル低くない……?
釜戸で調理ってすごいけど不便じゃない?
さすがにガスも電気も水道もないって……。
そして窓から見えるのどかな風景。
馬とか牛とかが普通に居そうだ。
田舎ってレベルじゃねぇ……ぞ……。
と、サーシャの朝ごはん支度を目で追っていたら思考が止まった。
サーシャが釜戸に火をつけた
薪がゴウと音をたてて燃え上がる。
物の数秒の火おこし、見事な手際だが俺が驚いたのはそこじゃない。
彼女が火打石やライターを使っていないことだ。
何も持っていないはずの右手から炎が放たれたのだった。
俺は息をのんだ。
目が真ん丸になるほど見開かれた。
サーシャはその後に流しの前に立って桶を置き、手のひらからぷくりと水を出した。
バスケットボール大に膨れた水滴はポシャンと桶に落ちる。
そしてそこで食器を洗うのだ。
手品なんかじゃない。
頭に浮かんだのは魔法の二文字だった。
そんなはずない、でも現に目の前で。
俺は興奮のあまり身を乗り出した。
あ。
と思った時にはすでの遅かった。
柵の上で見事なでんぐり返しをした赤ん坊の体はそのままお尻から落ち、ゴチンと床に後頭部をぶつけた。
痛い。おもわずキャウと悲鳴を上げてしまった。
これで頭の形が変わったらいやだな。
「「ユーリ!?」」
デニスとサーシャの二人は大慌てで俺に駆け寄った。
ちなみにユーリというのはこの家での俺の名前である。
「あぁ、ユリウス……痛かったな、すまない。」
「ケガは!?ケガないの!?」
ユリウスというのも俺の名前である。
略してユーリだ。
うん、カッコいいぞ。
なんて思ってる間に持ち上げられてあっちこっち向かされる。
まるで開封仕立てのフィギュアでも見るかのようだ。
もう少し丁重に扱ってほしい。
心配なのは分かるけど、こういう時は安静にして患部を冷やすのが鉄則なのよね。
「頭の後ろにコブが出来てるな。」
デニスは冷静さを取り戻してケガの具合を見る。
サーシャはまだハラハラしたような感じだ。
「念のため治療しておこう。」
デニスは机の上に俺を座らせる。
そうそう、昔からタンコブにはお砂糖塗ったガーゼが良いって生前の俺のおばあちゃんが─。
しかしデニスは特に救急箱を取り出すでもなく、俺の頭にその皮の手袋をした手をポンと置き目をつむった。
「我らの母にして、大いなる大地の女神よ。」
突然の呪文詠唱。
このパターンは見たことある。
何度も読んだ漫画の一節。
異世界へ転生した主人公の一幕
「我らが傷つき倒れし時、汝のその深き慈悲を此処に─。」
まさか、いやまさかだろう。
デニスの手から柔らかな緑色の光があふれだしている。
手そのものが発光しているわけでは無いのに光って見える。
「再起。」
ひと際光が強くなると体中の血管を温かい波のようなものがザァッと駆け巡り後頭部の痛みは和らいでいた。
いや、消えたといっていい。
ポカンとした顔でデニスを見つめていると彼はもう大丈夫だともう一度頭を撫でた。
そしてサーシャに行ってきますのチューをかました後に玄関から出て行った。
「ね、パパってすごいでしょ!」
サーシャはひょいと俺を抱き上げながら言う。
「パパ……。」
そんな彼女の耳元で思わず口から漏らした言葉にサーシャは歓喜した。
キャー!あなたー待ってー!!今ユーリがパパって言ったわ!あなたー!あなたー!
バタバタとサーシャは俺を抱えたままデニスを追いかけて行ったがそれどころじゃない。
魔物、剣、魔法、そして家の外に広がる大自然と空。
温かい日差しを受けるデニスと同じような恰好をした魔物討伐部隊と思わしき人々。
剣や盾を持ち、近くには幌付きの馬車が待機させられていた。
「ユーリ!パパだぞーパパってもう一回言ってほしいなぁ。」
「ママも!ママのことも呼んで!」
幸せそうな夫妻の顔をポケっとした顔で見つめた。
その後ろではニワトリにイグアナの尻尾が生えたような生物が地面を啄んでいる。
そこにある景色は知っているようで少し違った景色。
太陽の傍にある月のような大きな天体。
鉢植えに植えられた赤と黄色の縞々のリンゴのような木の実を実らせた植物。
生前では本の中の世界。
間違いない。
俺は確信した。
これ、異世界転生だ。
人物紹介
ユーリ(ユリウス)=俺 かわいいベイビー ハイハイはまだ。
デニス 父 眼鏡の似合うインテリイケメン風育パパ 嫁が可愛くて手が出せない。
サーシャ 母 ナイスバディな家庭の守護神 夫に手を出させたくて仕方ない。