私の婚約者様は、私のことが大嫌いだ
私の婚約者様は、私のことが大嫌いだ。
「――――姫様、一体どうして、こんなところに一人でいらっしゃるんですか?」
呆れたような声音。顔を上げると、そこには件の婚約者様――――レイリーが眉間に皺を寄せ、私のことを見下ろしていた。
太陽の光を受けてキラキラ輝く薄い茶髪に、白と藍色のコントラストが綺麗な騎士装束がとてもよく似合っている。青と紫を混ぜたみたいな夜空色をした瞳を見つめながら、私は小さくため息を吐いた。
「息抜き位しても良いでしょ? 私に姫君としての教育はあまり必要ないのだし」
もっと可愛げのある言い方が出来れば良いのに、レイリーの物言いに呼応するかの如く、私の言葉もつっけんどんになる。
「せめて供のものを付けてください。いくら城内とはいえ、一人では危ないですよ」
私の隣にしゃがみつつ、レイリーはため息を吐いた。
辺り一面に咲き乱れる花々。それが、庭師が丹念に世話をしたものとも知らず、思うがままに摘んで遊んでいた幼い日々を思い出すと、少しだけ胸が苦しくなる。
(昔はレイリーも、私の髪に花を飾ったりしてくれてたのにな)
あの頃とは比べ物にならない程、強く逞しくなったレイリーの姿を盗み見つつ、私の瞳に薄っすらと涙が浮かんだ。
レイリーと私は幼馴染だった。
少し年の離れた兄や姉たちの影響か、当時の私は少し擦れた子どもで。感情の起伏が小さいというか、あまり物事に興味を示すことがない。そんな私を心配した父――国王が遊び相手として連れてきたのがレイリーだった。
父の親友の子であるレイリーは、私とは違って感情豊かな子どもだった。よく笑うし、よく怒る。見ていてこちらが疲れるほどだったけど、何となく彼の側に居ると心地よくて。次第に私も、人並に子どもらしく変わっていった。
レイリーはその後も、私のことを『王女』として扱わず、対等な友人として接してくれた。そもそも彼は、誰に対しても礼儀正しくて優しかったってだけだけど、私はそれが、とても嬉しかった。
そんな私たちの関係が変わってしまったのは、父が彼を私の婚約者に指名した十三歳の頃だった。
彼はそれまでみたいに私の名前を呼んでくれなくなった。笑い掛けてくれることも、一緒に庭園を駆け回ってくれることもなくなった。会いに来てくれる回数も減って、次第に会話も弾まなくなって。
そこまできてようやく、私は彼に嫌われてしまったことを悟った。
(そりゃぁそうよね)
王女が婚約者だなんて、十三歳の少年には重すぎる枷だ。
私だって本当は、他国の王妃として嫁ぐものと思っていた。けれど、姉君二人が友好国に嫁ぎ、周辺に王位継承権を持つ年頃の王子はもういない。ならば、と国王が選んだ私の結婚相手がレイリーだったのだ。
私に関わったばかりに、レイリーは将来が狭められてしまった。誰かと出会い、恋愛結婚することも、好き勝手に事業を興すことも許されない窮屈な生活。そんな彼が私を嫌いになるのは、当たり前だった。
そうして五年の月日が流れた。わたし達はもうすぐ成婚の日を迎える。レイリーに嫌われたまま、私は彼の妻になるのだ。
「――――そろそろ城に戻るわ」
こっそり目尻を拭いながら、私は立ち上がった。レイリーは小さくため息を吐きながら立ち上がると、私に向かってそっと手を差し出す。如何にも不服そうなその表情に、私の心が軋んだ。
「結構よ。自分一人で帰れるわ。あなたにはあなたの仕事があるのだし」
「そういうわけに行かんでしょう。俺の体面も考えてくださいよ」
そう言ってレイリーは半ば強引に私の手を握る。騎士らしさの欠片もない乱暴な仕草に、私の気分は更に下降した。
「そうね。そうよね。お父様やおじ様に叱られるのは、あなたの方だものね」
レイリーはチラリと私を振り返り、軽く目を伏せる。手袋越しに感じるレイリーの体温に心臓がトクトク鳴った。
「――――そんなに俺は頼りがいがありませんか?」
ボソリと、聴こえないほどの小声で、レイリーはそう尋ねた。
「一体、何の話?」
尋ね返しながら、私は眉間に皺を寄せる。
結局、答えが返ってくることがないまま、私達は別れた。
***
そんなことがあった数日後のこと。
「一体如何なさったのですか、お父様」
私はレイリーと共に、父に呼ばれていた。その場には私達の他に、レイリーの父親と私の妹のメアリーがいる。こんなこと、婚約を結んでから一度だって無かった。
「レイリー。悪いが君とセイラの婚約は無かったことにしてほしい」
「えっ?」
思わぬ言葉に、私は目を見開いた。
「どうしてですか?」
尋ねたのはレイリーだった。彼の父親は、先に話を聞いていたのか、驚く様子もなく佇んでいる。
「先日、隣国で革命が起きたのは君も知っているだろう?」
「ええ、それはもちろん……」
「新しく王に立った男はひどくやり手で、他国への侵略も狙っているらしい。今は小国だが、いずれはうちも放っておけない存在になる。そんな隣国の王が、我が国から王妃を望んでいる」
父の言葉に私は小さく息を呑んだ。
私がレイリーと婚約することになったのは、ひとえに他国に良い嫁ぎ先が無かったからだ。自分の身分――利用価値に見合った嫁ぎ先が出来たのだから、当然、そちらを選ぶべきだろう。
「おっ……お待ちください! けれど、それでは…………セイラは俺の妻になるものだと」
その途端、私の心臓が大きく跳ねた。こんな時だというのに、レイリーが私の名前を呼んでくれたことが嬉しくて堪らない。瞳には涙が滲んだ。
「レイリーには、セイラの代わりにメアリーをやろう。この数年間、おまえ達の仲は良くなかったし、丁度良いだろう? メアリーはいつも、君と結婚ができるセイラのことを羨んでいたようだし」
そう言って父は、憐みのような視線を私に向ける。頭をハンマーで殴られたような衝撃が私を襲った。
父はちゃんと、私達の関係が悪化していることに気づいていた。気づいていて、けれどどうすることもできなくて、ここまで静観していたのだ。
(レイリーとメアリーが……)
二歳年下のメアリーは、素直で朗らかな性格をした、私とは正反対の人間だ。姫君特有の気位の高さもなく、誰とでも分け隔てなく仲良くできる妹は、私の憧れで。つい先日も、メアリーとレイリーが仲良く談笑している所を目撃した私からすれば、父の采配は妥当のように思えた。
「先方からは、王妃になるのはセイラでもメアリーでも、どちらでも構わないと言われている。私にとっては、どちらも自慢の娘だ。王妃として立派にやっていけると思っている。だが、二人の幸せを想えば、セイラの方を隣国に嫁がせたい」
父の言葉に、堪えきれず涙が零れ落ちた。
レイリーは俯き、じっと地面を見つめている。表情が見えないので、彼が何を思っているのか、私には分からない。
ようやく私から解放されることに安堵しているのか。それともいきなり婚約者を替えられたことに対する戸惑いか。もしかしたら、その両方かもしれない。
少なくとも、婚約破棄を惜しんでいることはないだろうと、私には分かった。
「話は以上だ」
父はそう言って話を打ち切った。私はレイリーの顔を見ることなく、父の後に続いた。
***
その日から、私の日常は目まぐるしく変わった。
これまで惰性で受けていた姫君としての教育が本格的なものに移行し、分刻みのスケジュールの中で生活する。当然、前みたいに息抜きに抜け出す時間なんてなくて、息が詰まった。
「お姉さま」
そんなほとんど存在しない授業の狭間、私のことを呼んだのは、レイリーの新しい婚約者になったメアリーだった。
滅多にないメアリーからの呼びかけに、私は首を傾げた。
「なに? 私に何か――――」
「レイリーって本当に優しい方なのね」
メアリーはそう言ってニコリと笑った。胸を抉られるような感覚。息をすることも忘れて、私はメアリーを見つめた。
「これまで遠くで眺めるばかりで、よく存じ上げませんでしたが、気遣いができて、いつも笑顔で、素敵な方だと思いますわ」
「……そう」
もう何年間も、私はそんなレイリーを見てはいない。いつも顔を合わせれば互いに憎まれ口を叩いて、私に向けられるのは仏頂面ばかりで。妹にはそんな顔を見せるのかと思うと、心が痛くて堪らなかった。
「同僚の方からの信頼も厚くて、この年でいくつもの手柄を立てている出世頭でいらっしゃって。侯爵令息ということを差し引いても、素晴らしい将来性だと思いますわ」
「あなた、そんなことを私に伝えに来たの?」
我ながら心が狭いことは分かっている。新しくできた婚約者が良い人であることを喜ぶのは当然のことだし、誰かに伝えたくなることも理解できる。
(でも、私に言わないでよ)
苦しくて悔しくて堪らなかった。
レイリーには私を見て笑って欲しかった。私にも、前みたいに優しくしてほしかった。私だけを――――愛してほしかった。
だけど、私がレイリーを好きなことは、私しか知らない事実だ。
結婚したら、形だけでも彼の妻になれる。側に居られて、いつかは愛してもらえるかもしれない―――そんな夢を見ていただなんて、父も妹も、レイリーだって知りはしない。
(どうしたら良かったんだろう)
彼との溝を埋めるための努力をしなかったわけではない。
でも、頑張れば頑張るほど、溝は広がっていくばかりだった。いつの間にか、思うように話せなくなって、どんどん離れていく彼に手を伸ばすことが出来なくなって。全部全部、くだらない私のプライドのせいだと分かっていたのに。
「ごめんなさい、次の授業があるから」
私はそう言って、メアリーに背を向けた。メアリーは小さくため息を吐きつつも、そのままじっと、私のことを見つめていた。
その日の残りの授業は結局、全てキャンセルになった。私の様子があまりにもおかしいからと、強制的に休むよう言い渡されたのだ。
(姫として……ううん、人間としてダメダメじゃない、私)
父は、こんな私を『自慢の娘』と言ってくれたけど、自分が王妃の器だとは、とてもじゃないけど思えない。
けれど、ようやく私という枷から解放されたレイリーを再び縛り付けることだって当然できない。
(八方塞がりって、こういうことを言うのね)
そんなことを思うと、ジワリと涙が滲み出た。
「……言ったでしょう? 外を出歩くときは供のものを連れてください、って」
その瞬間、心臓がドクンと大きく音を立てて跳ねた。誰かが隣に座る感覚がして、頭が優しくポンポン撫でられて。それが誰かなんて、振り向かなくてもすぐに分かる。
(レイリー)
堪えきれず、涙が頬を伝った。
「言えないわ。付いて来てほしいだなんて」
ポツリとそう口にしつつ、私は首を横に振った。
本当はこの数年間何度も、レイリーのいる騎士の詰め所を訪ねようと思った。ただ彼に会いたくて、それだけのために彼を連れ出したいって思いながら、行き場のない想いを一人で持て余していた。
「俺は付いて行きますよ」
レイリーはそう言って、私の手を握った。途端に身体が物凄く熱くなり、身体がブルりと震える。
「言われなくても、俺は姫様に付いて行きます」
レイリーは私の指先に、触れるだけのキスをする。こんなこと、今まで一度だってされたことがなかった。驚きと戸惑いと嬉しさが綯交ぜになった私の顔を、レイリーはまじまじと見つめている。胸が張り裂けそうな程痛かった。
それからも、レイリーは時折私の元に訪れては、優しい言葉を掛けてくれるようになった。
婚約者としてではなく、騎士としてならば、彼は私にも寛容になれるらしい。それは、彼からずっと冷たくされてきた私からすれば、嬉しくもあり、悲しいことだった。
どんなに彼との関係が改善したところで、私はもう、彼と結婚することはできない。そう思うと、レイリーが向けてくれた優しさは、まるで毒のように私の心と身体を蝕むのだ。
「いよいよ明日ですね」
レイリーがポツリとそう漏らす。
明日、私はこの国を発つ。この国のために、隣国の王妃になって、姫として生まれた責務を果たすのだ。
「嬉しいでしょう? ずっと、あなたの望みだったのですから」
「え?」
レイリーの言葉に、私は思わず首を傾げた。
私はこれまで、レイリーの妻になること以外を望んだことなんてなかった。彼にもう一度私へ笑いかけてほしい。人並みで良いから、仲の良い夫婦になりたい。それ以外、望んだことなんてなかったというのに。
「私は……この国の姫ですから」
精一杯の強がりを口にしつつ、私は夜空を見上げる。
「ええ。存じ上げていますよ」
そう言ってレイリーは切なげに笑った。その笑顔があまりにも寂し気で、今にも泣き出しそうで、胸が大きく震えた。
***
私の出発を祝う式典は、盛大でとても華やかなものだった。これから長旅になるというのに、フリルと刺繍がたくさんあしらわれた真っ白なドレスを着て、重たくてキラキラしたティアラを付けて、妹と共に父の前に立つ。メアリーは私のよりはシンプルだけれど、華やかで上品なドレスを身に纏っていた。
「こうして、我が子を無事に送り出せることを、とても嬉しく思う」
そう言って穏やかに笑う父に、私はゆっくりと頭を下げた。こんな出来損ないの娘を最後まで大事にしてくれた父には、感謝の気持ちが絶えない。胸がほんのりと温かかった。
「後のことは任せたぞ、レイリー」
「はっ」
けれど次の瞬間、父から発せられた思わぬ言葉に、私は大きく目を見開く。
「……え?」
レイリーはこちらに向かって真っ直ぐ歩いて来たかと思うと、私の前で跪いた。メアリーは何も言わないまま、黙って前を見据えている。
「お供させていただきます、我が君」
「な、にを……私はもうすぐ、この国を発つのに」
輿入れには、侍女を含め、数人を連れて行くことになっている。けれど、彼等はもう、この国に戻ってくることは無い。私と人生を共にし、隣国の人間として生きて行くことになる。
「――――レイリーたっての願いでね。おまえに付いて行きたいと……側で守りたいというから、私が許可したんだ」
そう口にしたのは父だった。レイリーは何も言わず、真っ直ぐに私を見つめている。
(なによ、それ)
頭の中はパニック状態だった。嬉しいのか悲しいのか、どうしたいのかも分からぬまま、私はゆっくりと口を開いた。
「だけど、メアリーは? 妹のことはどうするのです?」
私の代わりにレイリーの婚約者になったメアリー。仮にも『元姫君』だったメアリーを隣国に連れて行くことはできないし、国を跨いだ遠距離で、夫婦生活が上手くいくとは思えない。
「俺はあの時、姫様との――――セイラとの婚約破棄を承諾したわけではありません」
そう言ってレイリーは、私の指先に触れるだけのキスをした。心臓が痛く、目頭が熱くなった。
「俺の愛情は、いつだってあなただけのものです。夫になることは叶いませんでしたが、あなただけの騎士として、いつまでも、真心を込めてお仕えすることをここに誓いましょう」
「嘘よっ!」
気づけば瞳から、ポロポロと涙が零れ落ちていた。シンと静まり返った式典会場に、わたしの声が木霊する。父も妹も、皆が私達を見つめていた。
「あなたは――レイリーはずっと、私のことを嫌っていたじゃない! 前みたいに笑ってくれなくなって、優しくしてくれなくなって! 私との結婚なんて嫌だったんでしょう?」
「そんなこと、あるわけないでしょう! 大好きなあなたが……絶対に手に入ることはないと思っていたセイラが、ある日いきなり婚約者になって! こんな俺じゃ釣り合わないって我武者羅に頑張って! 好きすぎて、気づいたら前みたいに接することが出来なくなってたんです! セイラが本当は、他国の王妃になりたがってたって分かってるのに、それでもどうしても手放してやれなくて」
思ってもみない彼の本心に、私は息を呑んだ。
「違うわ! 私、本当は王妃になんて…………」
そう言い掛けて、私はハッと口を噤んだ。『妃になんてなりたくない』と言えたなら――――もう一度、レイリーとやり直せるならどんなに良いだろう。
けれど、私は一国の姫だ。国を背負っている私が、そんなことを口にして良い筈がない。時計の針が戻ることは無いし、私達が夫婦になる未来は存在しない。涙が止め処なく流れ落ちた。
「――――お姉さまったらズル~~い!」
その時、ずっと沈黙を守っていたメアリーが口を開いた。思わず振り返ると、彼女はニヤリと、意地の悪い笑みを浮かべる。それから優しく目を細め、そっと私の手を握った。
「わたくし、他国の王妃になるのが幼い頃からの夢でしたのに、お姉さまったらわたくしからそんな絶好の機会を奪うんですもの。ズルいわ!」
「えぇっ? だけど、だけどメアリー……あなた、あの時、そんなこと一言だって――――」
メアリーは私の手を強く握りながら、困ったような表情で笑っている。振り返れば、父も同じ顔をして笑っていて。
(――――最初から二人は、私を隣国に行かせる気なんて無かったんだ)
その時になってようやく、私は父と妹の想いに気づいた。二人は、関係を拗らせた私とレイリーのために、互いに素直になるための道を用意してくれたのだ。
(父様、メアリー)
涙が私の頬を濡らす。レイリーがそっと、私の涙を拭ってくれた。
「ごめん、ごめんね、メアリー」
「……何のことですの? わたくし、自分の願いに忠実なだけですわ」
私達はどちらともなく抱き締めあった。メアリーは私の背を優しく撫でながら、穏やかに笑っている。
「そういうわけですから姉さま、隣国にはわたくしが嫁がせていただきます」
メアリーはそう高らかに宣言すると、茶目っ気たっぷりに私の頭からティアラを奪い取った。
「セイラ」
レイリーが、改めて私に向き直る。これまで頑なに呼ばなかった私の名前を呼び、泣き出しそうな表情で微笑んでいる。彼の瞳は、愛しげに細められていた。
「俺の妻になってくれますか?」
少しだけ緊張した面持ちに震えた声。心臓がドキドキと高鳴る。
(答えなんて、分かってるくせに)
返事の代わりに、私はレイリーの唇に触れるだけのキスをした。何処からともなく祝福の鐘が鳴る。私達は満面の笑みを浮かべながら、互いをキツく抱き締め合ったのだった。
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