一話 五月雨
割合的に女の方が多いので実質ハーレム物です。
隣人が子猫を拾ってきた。
講義が終わり、帰宅して風呂に入ろうとした頃だろうか、部屋の扉を叩く音がする。応答しても返事がなく、不審に思ったが覗き窓が無いので恐る恐る扉を開ける。
鳴きもせずただ散々と降る雨に濡れ、隣人の足にしがみついている子猫。泥だらけで下唇を噛み締め俯いている隣人を前に僕は立ち尽すことしか出来なかった。
何があったのか聞こうとしても何も答えない隣人。子猫が微かな声で「ママ」と呟く。栓を抜いたように隣人が泣き出した。目の前で降る雨よりも大粒の雫を両の目から垂れ流し、肩で呼吸をしながら声にならない音で喘ぐ。
隣人に合わせるように一層雨音が激しくなる。この状況に気づいた大家が1階から上がってきた。一目見て全てを察したのか軽くため息をついて呆然としている僕を小突く。何も言わず隣人の足から子猫をひっぺがして軽々と抱え、そのまま大家は部屋に戻って行ってしまった。
「これからどうするんですか。」
問いかけるも隣人は口を開く素振りすらみせない。以前肩を震わせ大粒の涙を零してる。
「風邪ひきますよ、中入りましょうよ。」
返答はない。手を引こうとするもテコとして動かず、隣人を自宅に帰すにも子猫以外持たず、といった感じだった。恐らく鍵も財布も持っていない。
埒が明かないので隣人を抱え、僕の家の風呂場まで運ぶ。布越しに手にゴツゴツとした肋が触れた。脱がすわけにもいかないしとりあえずスーツのままシャワーで湯をかけ、雨水と泥を流す。
この間、魂が抜けたように隣人は無反応。
「服、脱いで籠に入れられますか。」
俯いたままだ。大家を呼びにいって代わりに着替えさせてもらう手もあるが、憔悴しているが少し目を離した隙に自死を選ぶのではと考えるほどの程の状態だ。また雨の中、濡れた隣人をまた抱えて階段を下るのも現実的ではない。
「不可抗力ですよ。」
隣人に、というよりは自分に言い聞かせるように呟きジャケットのボタンを外す。水を吸ってかなり重たくなっている。
一応ポケットを漁るも家の鍵らしきものは無い。ワイシャツのボタンに手をかけ、上から外していくと脇腹に大きい青痣が一つ痛々しく存在していた。
スカート、下着も外し洗濯機に入れ、隣人にもう一度湯をかけ洗う。髪の毛の落ちきっていない泥も石鹸で綺麗に流れる。冷えて血の通っていないような青白い肌に赤味がさしていく様を見て少しだけ安心感を覚えた。
一通り洗い終えて適当に僕の服を着せ、ドライヤーで髪の毛を乾かしていると大家が入ってきた。
「坊が風呂にまで入れてやったのかい。上出来だよ。」
先程まで泥だらけの子猫も綺麗に洗われ、乾かされていた。子猫は隣人に駆け寄り、足元に引っ付く。
「何があったのか洗いざらい話してもらおうか。」
隣人は答えない。
しばらくの無音を平手の音が切り裂く。婆の一撃とは思えない力強く乾いた音が響く。
「この子連れてアタシの部屋で待ってな。」
子猫をひっぺがし、僕に預けた。
言われるがまま大家の部屋に行き床に腰を下ろす。子猫の方に目をやると眠たそうに目を擦る。座布団を幾つか拝借して子猫を寝かせる。簡易的だがここで寝てもらおう、あの二人は暫くかかるだろうし。
「疲れてるだろ、ゆっくりお休み。」
子猫は相当疲弊していたのか床について瞼を閉じると直ぐ寝息を立てている。着ていた上着を子猫に掛け、文庫本を片手に夜が明けるのをじっと待つ。
一時間ほど経った辺りで寝ている子猫を起こさないように背負い、大家と隣人の様子を見に行く事にした。自分の部屋だというのに扉を開けるのが億劫だ。
隙間から覗くように様子を伺うと眉間に皺を寄せながら煙草を蒸す大家と床に這いつくばりながら啜り泣く隣人。思わず「うわぁ」と声が出る。
大家は僕に気づくと煙草の火を携帯灰皿に押し消し手招きをする。
「相当な事をやったよこの女は。」
「チビのお守りに高井戸と平場を呼びな、詳しい事はそれからだ。」
高井戸さんと平場さんは大家が経営してる劇場の役者だ。アパートの廊下の黒電話から二人に電話をかけ、明日朝10時にはこちらに来られるとの事。大家はこのまま僕の部屋で隣人と居るという。
僕は大家の部屋で子猫と共に薄く、浅い眠りにつく。
朝日が登りきらないうちに子猫の鳴き声で目が覚め、眼鏡を手探りで探す。頭と顔をぐしゃぐしゃにして「ママ、ママ。」と鳴く子猫を前に、起き抜けでぼんやりしている頭は言い訳にならない。
「大丈夫。」
事情も知らず根拠も無いのに口をついて出た。
子猫はとても聡い、僕が背中を擦ると言葉を飲み込むように泣くのをやめた。
顔を洗い、朝飯を買いに行くことにした。何も言わずとも子猫は僕の手を握る。
朝早くからやっている馴染みのパン屋までの道すがら、初めて会話らしい会話を子猫と交わす。
「パンは好きかい。」
「好きだよ。」
「甘いのとそうじゃないのどっちにしようか。」
「甘いの。」
「なら牛乳も要るな。」
パン屋に着くとショーケースに並ぶパンに釘付けになる子猫。薄暗い店内に射し込む朝日が子猫のヘーゼルの瞳に光を増やしていた。
袋いっぱいのパンと牛乳を片手にアパートに戻る。僕の部屋に立ち寄ると柱に縄でくくられ寝ている隣人だけだった、牛乳を二つ冷蔵庫に入れ、大家の部屋に戻り朝食を食べる。
子猫は砂糖のかかった甘いパンが気に入ったらしく小さな口で頬張っている。
「こっちも美味いが2個は食べきれんだろう、半分こしようか。」
ピーナッツバターが挟んであるコッペパンを半分に割って渡すとまた美味しそうに食べ始める。たまに口の端についたパンの屑を取ってやりつつ焼きそばパンに齧り付く。
朝食を食べ終わり、時刻は8時を回ったところ。高井戸さんと平場さんが来るまで時間がある、僕は昨日の課題を片付けねばならないがその間この子猫はどういてもらおうか。
そういば僕らは互いに名前を知らぬままだったことを思い出した。
「なあ、君の名前は何と言う。」
「ひなこ」
ポケットから小学校の名札を取り出す。『東海林 雛子』と細い字で書かれていた。
「雛子か。僕は秋一郎、御子柴秋一郎。」
チラシの裏に名を書いて見せる。
「これとこれとこれは読めるよ。」
子、秋、一を指さす。
「他も書きと読みを教えてやろう。」
僕の膝に乗っかりペンを握る。雛子は握り拳でペンを握っていた、勉強はここから始めなければいけない。
平仮名で紙が埋まった頃、扉を叩く音が数回。
「もし、大家さんはいらっしゃいますか。」
扉を開けると小柄な女性と大柄な男性。高井戸さんと平場さんだ。
「あら、貴方が子猫ちゃんね。」
「思ってたより小さい、幾つくらいかな。」
雛子は僕の足にくっつく。
「大家は今どこかへ行ってるので中入っちゃって下さい。」
玄関の段差に平場さんが高井戸さんに素早く手を貸す。
「僕の部屋に安曇野さん居るんで様子見てきます。その間、この子の事お願いします。」
不安げな雛子を横目にアパートの階段を上る。