裳着と文
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目に映る様々な緑が、待ちわびた春を存分に味わい、目に優しくも生気を感じる色合いとなっている。
牛車の中で直信はひたすらに窓から春に満ちた景色を眺め、先ほどから感じるまとわりつくような視線から逃れようと努力していた。しかし、その努力はあっさりと潰えてしまう。
「今、気が付いたのだが、直信の睫毛は直子のものと似ている気がする」
直信は自分の眉の辺りが引きつるのを感じ、扇の内で溜息を零した。
今までも高直は直子に関することでは、怪しい振る舞いが見られたが、直子が裳着を迎えてからは、もはやどこかに突き抜けてしまった感がある。
自分の精神の平穏のために何とか話題を変えようと、直信は口を開いたが、高直の方が早かった。
「直信の香と直子の香は、少し違いがあるのだな」
直信は平穏を諦め、高直に向き直った。
宮中でその名を知らぬものはいない程の、魂を奪われてしまいそうな美貌が、無残に蕩けきっていた。高直は「直子」と口にするだけで、この顔になるのだ。
宮中の女房達の夢が壊れることのないよう、密かに祈りながら直信は口を開いた。
「直子が僕の印象に合うようにと、少し種類を変えたと言っていた」
直信の冷めた口調に全く気を留めず、高直の表情はぱっと輝いた。
「そうか。では、直子と同じ香は、僕だけが使っているわけだ」
直子は、高直の香も、彼の印象を思い描いて自分のものと僅かに変えていることは、告げない方がいいだろうと直信は賢明な判断を下した。
「君は、妹の香以外は焚かないのかい?」
直子の香との違いが露見しないよう、高直にさりげなく尋ねてみる。
高直は目を瞬かせた。
「当然ではないか。直子が僕のためにわざわざ作ってくれたのだから」
「いや、あれは君が作れと頼――、いや、君は昔は別の香を使っていただろうに」
高直は直信の言葉の意味が分からないとばかりに、微かに首を傾げた。
「直子が合わせてくれた香があるのに、どうして別の香を使う必要があるのかい?」
臆面もなく、続けて、「直子の香がなければ、いつも直子を感じることができなくなる」と真剣な面持ちで言い募る高直に、直信はとうとう疲れを覚えて、もう一度溜息を付いていた。
やれやれ。なぜ選りによって、今日、一緒になってしまたんだろう。困ったものだ――。
直信は懐に忍ばせたものの重さを感じながら、もう一度窓の外へ視線を向けた。
◇
ようやく屋敷に到着し牛車から降り、広い空間のおかげで一先ず怪しい空気が薄まった心地よさを味わった直信は、自分よりも先駆けて直子の部屋へと向かう高直の背を見ながら、黙考した。
今後のことも考えれば、先延ばしにしても意味はないだろう。
憂鬱な決断をして、廂の間に腰を下ろした高直の隣に、自分も腰を下ろした。
直子が裳着を迎えてから、さすがに高直も御簾の内に入ることは控えるようになった。もっとも、直信が御簾の内に入ると、恨みがましい視線を御簾越しに感じ、直信まで二人の時は御簾の内に入れなくなってしまったのだが、ともかく控えるようになった。
直信は御簾の内に隠れたい気持ちを抑え込み、意を決し、直子に声をかけた。
「直子。今日、帰り際に左少将の正道様から文を渡された」
予想に違わず、隣から息を呑む気配がする。
直信は視線を正面に集中し、懐から取り出した文箱を御簾の下に差し入れた。
これは直子にとって初めて男性から届けられた文になる。
女房達は華やいだ声を上げたが、直子本人には驚きが大きかったのか、箱はしばらく置かれたままになってしまった。
直信はそっと溜息を零した。
女性への文は、使いを遣って屋敷に届けられるものだが、高直が職場でも直子の香の自慢をしたらしく、方々で直子への興味をかきたてられてしまったらしい。
父の部下でもある、――血筋の点からいずれは上司となるであろうが――、正道は焦りを覚えたらしく、強引に文を渡してきたのだ。
妹にはゆっくりと将来の伴侶を選んでほしい直信にとって、この性急さは実に困った状況である。
そう、十分に困った状況であるのに――、
直信はちらりと隣に視線を遣って、扇で顔を覆った。
兄を自称する高直は、宮中一の美貌を怒りに染め上げている。
相手は先の左大臣の孫、頼むから大事にしてくれるなと、祈る思いで目を伏せた直信だが、高直にその思いは通じなかった。
高直は御簾の下に手を入れ、箱を取り出すと、恐ろしいほどに整った笑顔を直信に向けた。
「人柄もよく分からない相手からの文を、取り次ぐものではないよ」
言葉は正論だが、行動は常識からかけ離れている高直の態度に一同が唖然としているうちに、高直は優雅な仕草で立ち上がった。
その場の誰一人としてまだ立ち直れずにいた間に、高直は更なる衝撃を与えた。
「この文の返事は僕が出しておく」
皆が自分の常識なるものが大きく揺らぐ不安を覚えたとき、高直はふわりと微笑んだ。
「直子。待っていておくれ。君への初めての文は、僕が渡す。」
その言葉に、直信ははっと我に返った。
「待て、高直。要はそれなのか。正道様からの文を返――」
直信は慌てて高直を追いかける。
取り残された直子と女房たちはようやく自分を取り戻し、女房達は口々に思いを言い始めた。
「姫様が初めていただいた御文でしたのに」
「せめて、お文を見るぐらい、許して下さっても…」
「高直様は、あれで本当にご自分が初めての御文を送ったと思われるのでしょうか」
女房達は一斉に口を閉じた。
そして、一瞬後、一斉に扇の下で溜息が零された。
あの高直様なら思うのだろう、というのが女房達の暗黙の一致した見解だった。
直子は何となく気恥ずかしさを覚え、染まった頬を扇で隠して、女房達と視線が合わないように俯いていた。
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