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元服と香

お立ち寄り下さりありがとうございます。

この部分は短編と変わりはありません。

「高直。少し落ち着いてくれないかな」


 直信は溜息を付きながら、高直に話しかける。

 今、牛車は直信の屋敷に向かっているところだ。車中は二人しかいないため、高直が絶えず扇を開いては閉じている動きが、直信の視野にどうしても入ってしまうのだ。


「今日は牛の歩みが遅いと思わないか?」


 だから、落ち着かなくても当然だと堂々と答える高直のその態度に、直信は再び諦めの溜息を零し、牛車の窓を開け視線を逸らすことに決めた。

 高直は堰を切ったように話し始めた。


「もう1か月も顔を見ていない。1か月! こんなに会えないなんて、世の中おかしいと思わないか?」


 直信は窓から見える立ち並ぶ屋敷の木に意識を集中することに決めた。

 ――馬――、いや、何とかにつける薬はないのだ。

 大納言邸の桃の木の素晴らしい枝ぶりを見て感心し、意識がようやく落ち着きそうだったところに、高直の声が直信の平穏をかき乱してきた。


「こんなことになるなら、元服などしたくなかった。僕の大事な妹はどれだけ寂しがっているだろう」

「直子は僕の妹だよ」


 幼いころのままに兄を自称する高直に対して、疲れた思いで直信は訂正を挟んだ。しかし、それは意味がなかったと彼は即座に思い知る。

 高直は眼差しと声に力を込めて、直信に反論をし始めた。


「何を言う。直子も僕のことを『高直兄さま』と呼んでいるではないか。直子がそう呼んでくれているのだから、僕は彼女の兄だ。第一、僕の方が直子のことを可愛がっている。彼女に初めての手習いを教えたのも、琴を教えたのも僕だ」


 口元を扇で隠したまま、直信はどこから返していいのか逡巡してしまった。

 

「貝合わせだって、偏つぎだって、僕は直子と遊んだんだ」


 高直の主張は止まる様子を見せないため、結局、聞き流せないところだけは、言葉にすることにした。


「僕は妹を可愛がっているよ」

 

 君に負けないぐらいにね、と声に出さずにしっかりと付け加える。

 高直は丁寧に熱意をもって直子に教えてくれたが、まだ幼いため、手習いも琴も教えられたことを上手くできなかった。

 悄然とする直子を励まし、高直が屋敷に戻っていった後に一緒に練習して妹の笑顔を取り戻したのは直信だ。

 楽しんだ貝合わせの時間が高直の帰宅のために終わってしまい、寂しそうな表情を隠せない直子と、もう一度遊んで彼女の瞳に輝きを戻したのも直信だ。

 妹への愛は負けるつもりはない。


 それに、これからはもっと自分が頑張らなければ――


 直信が決意を固めた時に、牛車はようやく屋敷についた。


 牛車から降りると、高直は直信よりも早く、直子の部屋へ向かう。

 いつものように御簾を上げようとした高直に、直信は溜息を付きながら、その腕を抑えた。


「高直。君はもう元服したのだから」


 高直は打たれたように立ち尽くした。

 1か月前、高直と直信は元服した。その日を境として大人として扱われることになったのだ。出仕が始まっただけでなく、出仕後も挨拶をかねて、様々な屋敷の宴に顔を出すことが始まった。そのために、高直は一月の間、こちらに来ることができなかった。

 ともあれ、もう世間は二人を大人として見なしている。いかに幼くとも建前では。


 そして、大人の男性を今までのように直子の部屋の御簾の内に入れることはできなかった。

 いくら自分にとって愛らしい妹であっても、直子は血のつながりのない少女なのだ。

 世間の常識であるしきたりを突き付けられて、高直は心が冷えていくような感覚にとらわれる。

 呆然と立ち尽くしたままの彼を置いて、直信は静かに御簾の内に入っていった。

 中で愛らしい声がしているのを耳にしながら、高直は廂の間に崩れ落ちるように座り込んだ。薄い御簾が、はっきりと自分と兄妹を隔てていた。

 自分にとって二人は自分の兄妹のように思っていたけれど、隔てを置かれたことがその絆を薄いものだと言われた気がして、哀しかった。

 そして、何より――、

 もう、あの愛らしい顔をこの目で見ることができない。

 自分に寄ってきてくれる直子の髪を撫でることもできない。

 もう、あの可愛らしい声を直接聞くことができない――


 取り上げられた幸せな時間を思い、高直が俯いてしまうと、聞きなれた愛らしい声が近くで響いた。


「高直兄さま。元服おめでとうございます」


 弾かれたように頭を上げると、御簾越しに小さな姿がうっすらと見えた。

 御簾近くに直子がいざり寄り、女房を介さず声をかけてくれたのだ。

 苦しい思いを笑顔で隠し、高直は頷いた。


「ありがとう。久しぶりだね。元気にしていたかい?」


 まったくめでたい気分ではなくなっていた高直は、話を直子に向けることにした。

 しかし、すぐに帰ってくると思った返事はなかった。

 御簾の内が少し騒めいている。

 何事かと高直が首を傾げると、御簾がそっと上げられ、苦虫を噛みつぶしたような顔の直信が立っていた。


「裳着を迎えるまでだよ。いいね」

「高直兄さまですから。お入りください」


 しきたりを破って隔てを取り除いてくれた兄妹の言葉がじわりと高直の心を温める。

 高直は、自分の頬が緩むのを感じた。

 そんな彼を見て、直子は辺りを照らすような笑顔を浮かべてくれた。


ああ、僕の妹は最高に可愛い。


 高直の思いが聞こえたかのように、直信が「裳着を迎えるまでだからね」と再度念押しするのを聞き流して、部屋に入り込み、高直は目を見張った。

 香木や、鉢といったこの部屋では今まで見たことのなかった道具が置かれていた。


「お香を作っているのかい?」


 直子は小さく頷き、目を輝かせた。

「お兄様とお父様、お母様の香は、作れるようになったので、今度は自分の香を作りたいと思っているのです」

 

 可愛い妹はもう自分で香を作るようになっていたのか。


 その事実は少なからず高直に衝撃を与えた。

 香を作り、楽しむことは、大人の嗜みだ。

 高直は今まで気づいていなかったことに初めて向き合った。

 

 彼女ももうすぐ裳着を迎え、大人の仲間入りをするのだろうということに。

 今日とは違ってその時はこのように彼女の近くにいられないということに。

 ――そして、愛しい妹は、もう少女から女性へと成長し始めたことに。

 気づいたばかりの事実は、よく分からない思いを沸き上がらせた。

 

 寂しさなのだろうか?いや、それだけではない気がするけれど――、


 高直はひとまず分からない思いに蓋をして、愛らしくこちらを向いてくれる直子の髪をそっと撫でた。

 今は、この貴重な時間を心に刻み付けよう。


「どんな香になるのかな。できたら僕にも分けてくれる?」


 直子の笑顔が一段と輝くのを、高直は目を細めて眺めていた。


 


お読みいただきありがとうございました。

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