8話 踏み出せない
翌朝、ベッド上で一人目覚めると、室内のテーブルに謎の箱が乗っていることに気がついた。
片手を精一杯横に広げたくらいの距離が一辺の正方形の箱で、桜色の紙で包まれており、純白のリボンがかけてある。その上の面には、何やら、メッセージカードのようなものが貼りつけてあった。
しばらくして体を起こすと、謎の箱の正体を探るべく、テーブルの方へ歩いていってみる。
「……リンツ」
貼りつけてあるメッセージカードには、子どものような丸みを帯びた字でそう書いてあった。
なるほど。
ということは、この箱は彼からの贈り物か何かなのね。
あの優しく穏やかなリンツのことだ、驚かせるような物や危険物なんかを入れてくることはないだろう。
開けてみようか——そう思って手を伸ばしたけれど、その手は、寸前のところで止まった。
「これを受け取ったら……代わりに話をすることを要求されるかもしれないわ」
こんなことのせいで彼と会って話すことになり、そこで無礼なことをしてしまったら、これまでの努力が水の泡である。
なので私は、すぐにローザを呼び、「返しておいて下さい」と頼んだ。ローザは私の心を察してくれたようで、特に何も言うことなく、箱を持っていってくれた。
せっかくくれたのに、申し訳ないことをしただろうか。
そういった思いがまったくないわけではない。
けれども、私は一応、これで良かったのだと思っている。これが一番相応しい対応だったのだと、そう信じて疑わない。
その日の昼前。
こんこん、という、扉をノックする音が聞こえた。
……リンツだろうか。
そう思いつつ、覗き穴から外を見る。
視界に入ったのは灰色の頭。
やはり、予想通り。きっちり撫でつけられた灰色の頭は、間違いなくリンツだろう。
扉の前に立ち、どう応じるべきか考え込んでいたところ、再び、こんこん、というノック音が聞こえてくる。
「キャシィさん! こんにちは」
ノック音に続けて、リンツの声。
「今朝の贈り物、あまりお気に召さなかったかね?」
「……いえ」
リンツは、扉のこちらと向こうであるにもかかわらず、何事もなかったかのように話しかけてくる。あまりに何事もなかったかのように話しかけられたものだから、こちらもついつい返事をしてしまった。
「メッセージカードくらいは見ていただけたのかな?」
「……お名前だけは」
「おぉっと! それは寂しいことだ! ……あ、いや、名前だけでも見てもらえただけましかな」
贈り物を返されたことを怒っている、というわけではないようだ。そう分かり、内心安堵している私がいた。
「ところでキャシィさん」
「……何ですか」
「お昼ご飯、一緒に食べないかね?」
おっと、食事のお誘いが来た。
彼は妙に積極的だ。
「皆と一緒が嫌ならば、二人きりでも構わないよ。もしキャシィさんに何か悩みがあるのなら、取り敢えず、僕が聞くから」
リンツは私の状態を心配してくれているようだ。
それはとてもありがたいこと。感謝すべきことである。
いつまでも頑固なことを言っていないで、彼と会って話すべきなのではないか。そう思わないこともない。
だが、どうしても「余計なこと、失礼なことをしてしまったら」という不安が消えず、踏み出せない。
「二人きりでも、嫌かな?」
「……お断り、します」
「僕たちはもう夫婦なのだよ。もっと仲良くしても問題ないと思うのだがね」
「……すみません。まだ心の準備ができていなくて」
リンツは私と仲良くすることを望んでくれている。だから、後は私の勇気次第だ。私が歩み寄る勇気を持てさえすれば、きっとすべては上手くいく。
「あ! ま、まさか、僕がかなり年上なのが原因かね!?」
「違います」
「もしかして、『王子とか言っておいて、年寄りか!』という感じなのかね!?」
リンツは唐突に慌て出す。
だが、そんなことはない。私は正直、年の差はあまり気にしていないのだ。
そもそも、私がこんなことになっている原因は、リンツではなく両親である。
「ち、違います! 違いますから!」
おかしな誤解が生まれても困るから、私ははっきりと述べておいた。
……それにしても、扉越しに会話する夫婦なんて変だと思われないかしら。
「本当に?」
「そうです! 本当です!」
「おぉ。そうかね……」
少し空けて、リンツは続ける。
「分かった。では、また誘いに来ることにするよ」
こうして、リンツは去っていった。
申し訳ない気はする。けれど、まだ踏み出せない。一歩を踏み出す勇気が、私にはなかった。
どのみちピシアで暮らしていくのだから、アックス王国にいる両親のことなんて、もうどうでもいいはずなのに……。




