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優しい魔王の疲れる日々(リメイク)  作者: n
優しい魔王の疲れる日々(リメイク)1
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第5話:魔王と反撃

今回も球技大会やってます!さぁ、試合はどうなるんでしょうか

 鋳鶴の高校生離れした球速を目の当りにして、完全にホームランを打った後のバッターたちは萎縮してしまっていた。

 6組の3、4、5番を担うクリーンナップの野球部でさえ、鋳鶴の球を捉えるのは難しく、鋳鶴は後続の打者を三者連続三振。それもすべて真っ直ぐの直球のみで打ち取った。

 152kmとは高校野球でもトップレベル。もしくはそれ以上の球速。陽明学園の野球部も県内トップクラスの実力を持つとはいえ、152kmのストレートは機械で体験するということが常である。

 県内でも強豪校のエース格ぐらいでしか出せない球速。それをスポーツ選抜の6組でもない1組の鋳鶴が出した事に6組ベンチと応援席は動揺が隠せない。

 6組の動揺をよそに1組ベンチと応援席はともに最高潮の盛り上がりを見せた。そして回は裏になり、1組の攻撃。

 1番はセカンドを守っている影太。

 ここで肝心なのは影太のバッティングではなく、詠歌のピッチング。鋳鶴のピッチングを目の当りにし、騒いでいた両クラス陣営には再び静寂が訪れ、両陣営ともに詠歌にくぎ付けになっていた。

 鋳鶴の衝撃的投球から短距離走の天才と呼ばれる詠歌はどのようなピッチングをするのか、全員が固唾をのんで見守っている。

 詠歌は、投球練習を始めると桧人はそれを眺めながら悠長に水筒の茶を飲んでいた。誰もが彼女の投球練習にくぎ付けなのにも関わらず、桧人は彼女のことになると、急に淡泊になってしまう。

「桧人、見なくていいの?」

 鋳鶴が首にタオルを巻いて桧人の隣に腰掛けた。

「大丈夫だ。あいつのピッチングは見慣れてる。今年の最初からずっと俺は言われてたかな。桧人たちとクラスは違うかもしれないけど、私は今年で完全にあんたたちを叩きのめす。みたいなこと言ってたんだよ」

 桧人が首を振って隣に腰掛ける鋳鶴に、マウンドを見ろという仕草を見せる。

鋳鶴はマウンドに目を戻すと、詠歌は自分の両腕を背中まで届くのではないか、と思わせるぐらい腕を捻り、一気にその腕を勢いよく振り下ろしてミットにボールを放り込む様子が見えた。

 ボールを受けたミットが渇いた衝撃音を球場に響かせる。

 鋳鶴には負けるものの女子高生が投げているとは見えないピッチングフォームだと、鋳鶴だけでなく桧人以外の1組の生徒が思った。

「何kmなの!?」

「俺が遠目で見るに、あれは140km程度出てるんじゃないか?」

「待って!?女子野球でもそんな球速出せる人いないでしょ!?」

「確かにいないな。でもあいつは出してる。それが実力なのか、あいつ自身が何か魔法でも使っているのかは謎だが、どっちにしろ勝つのは俺たちだ。それに鋳鶴、お前の球速もおかしから安心しろ。詠歌よりもよっぽどおかしなことしてやがる」

 桧人が話終えると共に、攻撃が始まる。

 影太は素振りを終えてバッターボックスに入りバットを構えた。彼の小柄な体には学園指定のユニフォームはあまりにも大きすぎて彼の身体能力を低下させるほどにサイズが適正ではない。

 故に影太は、自前の忍装束を装着し、試合に望んでいる。勿論、学園側に許可は承諾していて違反になる類のものも今回は装着していない。

「……手加減は……しないっ……」

 詠歌の美しくもしなやかなフォームから繰り出されるそのボールは、まるで生きているようだった。影太に音を立てながら迫るそれは、まるで動物の類かと勘違いしてしまいそうなものである。

 影太は、取り敢えず、軽くスイングをしてその球に当てようと試みる。

 当てただけと言えるかもしれないが、初球から彼女の球にバットを当てるのは流石、影太と言える。練習の成果と言えるのもあるが、相当量の練習を積んだと見える影太の体は少しだけ入学式当初と比べると逞しくなっていた。

 打球はというと、内野の白線よりも外に出ればよかったのだが、運悪く影太の打球はものの大きく打ち上げてしまい内野フライで終わってしまう。

 影太は凡退したものの、自信満々に胸を張って1組のベンチに帰っていく、続いての打席は桧人。影太とハイタッチをして彼は笑顔でバッターボックスに向かう。

 ここで詠歌の目の色が変わった。鋳鶴とは違い、見た目ではなくその彼女の視線である。

 影太の打席では活き活きとして目を輝かせながら彼女は第一球を投じていた。しかし、桧人を目の当たりにした詠歌は燃え滾る闘志が抑えらんばかりにその瞳の奥には炎が燃えている様に見えた。

「こいやぁ!」

「絶対に……絶対に打たせないんだから!」

 詠歌の放ったボールがキャッチャーの構えたミットめがけて飛び込む。

 一球目は見送るも桧人は含みのある様な口角の上げ方をしながら、首を傾げた。外角限界まで切り詰めた場所に入ったが、審判の判定はボール、詠歌も首をかしげ眉間に皺を寄せる。

 次に詠歌は変化球で彼の懐目掛けて曲がる変化球を投げ込む。

 初球で直球を見せ、二球目の変化球で様子を見ようとしたところを桧人は、それに合わせてバットを振り、なんとかファールにしてみせた。初球の直球を見送り、二球目も見送っていいとは思うのだが、桧人は初球の直球を敢えて見送り、第二球の変化球から手を出すことにより、相手の精神を少しは揺さぶれるのではと考えていた。

 直球を見逃し、その後に投じた変化球のタイミングに合わせてきた桧人に驚きながら、詠歌は再びモーションをとった。次に桧人はバントの構えを見せて詠歌はそれを見て投球モーションの途中で心が揺らいだ。

 内野陣も桧人の様子を見て一斉にバントシフトの構えをとり、桧人に向かって前進する。

「甘い!」

 詠歌はもう動作に入ってしまっているため、そこから動くことはできない。内野陣が動いたのを見て桧人は瞬時にバットを構え直し、詠歌の放ったボールを待つ、心が揺らいだせいか、彼女が放ったのはあまり早いとは言えない直球。

 すっぽ抜けてしまった直球はそれが、ど真ん中に吸い込まれる様に、ゆっくりとやってくる。

 まるで打ってくれと言わんばかりに投げられた直球に桧人はタイミングをあわせてフルスイングする。

 素人目に見ても絶好球だった緩い直球だったはずだが、桧人のバットにたどり着く直前にボールが落下し、バットをすり抜けミットに収まった。

 かなり思い切りの良いスイングだった為だろう。桧人は勢いあまって全身で回転しまい、しりもちをついて転んでしまう。

「どう?さっきのがカーブでこれがフォークよ。桧人」

「してやられたぜ……。俺の知らない球種なんぞ投げやがって」

 唇を噛んで、悔しさを紛らわす桧人、クラスの皆の協力と自分がこの日のために積み上げてきた練習を思い出し、転んだ時についた服の土を払ってもう一度、バッターボックスに入った。

 詠歌はもう打ち取ったと確信しているのか、桧人に笑みを見せている。

 次に来るのは懐に向かって曲がるカーブか、それとも女子野球選手以上の球速を誇るストレートなのか、それとも相手の隙をついて空振りを取るフォークなのか、桧人はずっと考えていた。詠歌の性格上、自分を打ち取りたいと思えば確実にストレートのはずなのだが、今は勝負であり、景品もかかっている。

 それに私情を試合に持ち出すことをあまり良しとしないタイプだ。尚且つ、2ストライクと桧人を追い込んでいる。それも考えて次に投げる球種を予想し、桧人は再び、バットを構え直す。

 詠歌は投げてきたのはストレート、桧人はそのストレートに合わせてバットを振り、見事にボールをミートする。

「よっしゃぁー!見たかこの野郎!」

 桧人は叫び声をあげながら一塁に向かって走った。

 桧人の打ち返した打球とともに、彼のバットの金属音が綺麗に鳴り響いた。高く響いた金属音は、気持ち良いぐらい鋭い勢いのまま、左中間を裂いて真っ直ぐフェンスまで向かって行った。レフトがボールを捕ったころには桧人は一、二塁間にいた。急いで返球するレフトだったが、桧人は悠々セーフ、ランナー二塁で次の打順は歩。

 歩はバッターボックスに入ると、まるで剣士の様に、腰にバットを当て、居合いの構えをとった。

 勿論、居合いという型でバットを構えても打てないことはないが、当たり前の様に打つのが難しくなる。

 しかし、ここで、歩はさらに目を閉じた。

「集中しろ……集中」

 歩は自分にそう言い聞かせながら詠歌が投げるのを待つ。その目を瞑るという行為が詠歌を煽り、彼女に怒りをもたらす。いくら日常的に同じ立場に居る彼女にも短距離走ではないと言えど、スポーツで己が侮辱的と思われる事をされれば憤りを感じるというのも当たり前である。

 そして放る一球は真っ直ぐそのもの、ど真ん中に投げ込まれる直球。その直球はまるで一本の線が筋を引くように見える。だが、歩はそれを打つ瞬間に目を見開き、その直球に合わせて刀を鞘から降りぬくようにバットを振る。

 だが彼女の球速もすさまじいところがあり、全力でバットを引き抜き打ったはずの打球はあまり、伸びが良くなく、センター前までしか打球は飛ばなかった。

 そしてセンターは詠歌に前進守備を指定されていたため、ホームへ送球し、桧人はホームを踏むことができずに三塁で釘付け、ランナーは一、三塁となった。

「よし、よく打ったぞ私」

 自分をほめながら歩は嬉しそうに一塁に立っている。

 次は麗花の打席、つけていたボクシンググローブを外し、何度も何度もネクストバッターズサークルで不器用ながらもバットを振り込み、自分の打席に備えていた。

 麗花の表情はやる気と自信に満ち溢れている。

 いつもより悪い目つきはさらに悪くなり、彼女がバッターボックスに向かう背中は不良がバットを持って喧嘩でもしにいくのかという様子にも見えた。

「しゃあ!こいやぁ!」

 詠歌は先ほどの麗花のスイングを見たところ、素人だという事をわかっていた。

野球初心者を相手に教えているかの様にがむしゃらな素振りをしていては、身体の軸が定まらないバッティングフォームは修正されない。

 詠歌はそれを考えて彼女にボールを放った。結果は見事に三球三振、麗花のバットは全く彼女の球に触れることもなく、ランナー一塁、三塁のチャンスで三振に倒れてしまった。以前ランナーは一、三塁、続くバッターは鋳鶴、一度だけ素振りをしてバッターボックスに入る。

 詠歌はここで今日、初めての警戒をする。

 勿論、負けるつもりはないが、150km超えの直球を放るほどの投手がバッティングも上手いはずはない。と思っていたが、鋳鶴の体格を見るとその考えは覆される。

 初回に6組チームがホームランを打てた要因としては、桧人の性格がそのまま捕手のリードとして影響していたこと、詠歌は、桧人の意地悪さを理解している故に、コースを絞ってバッティングをすることができた。それと、鋳鶴のコントロールがあまりの正確さで、むしろ6組側としては打ち頃の球だったということ。

 確かに、ホームランを打った。先取点を手に入れた。しかし、彼女の頭の中で、その後の6組選手たちが見せたバッティングが気がかりだったのである。

 3者連続三振。先ほど、2者連続ホームランを浴びた選手の投球とは思えない。

 今、自分の前に立ち塞がる同級生は、どちらも得意としているのではないか、と詠歌に感じさせる。桧人と鋳争った後の鋳鶴は、二本もホームランを打たれた男の顔つきをしていなかった。

 たった2球で2点を相手に献上するような投手が、凛とした顔つきはできるわけがないと詠歌は思っていたからである。

 詠歌はランナーを気にせず、鋳鶴一人を相手にしているという事を自分に言い聞かせ、投球動作に入る。

 第1球は外角低めのストレート、鋳鶴は見送って判定はボール。

 ギリギリのところをついた結果のボールに詠歌は何も感じなかった。寧ろ、少しだけ焦りを覚えていた。素人ならば、ストライクかボールの判断に迷うぐらいに完全なコースに投げ込んだのにも関わらず、鋳鶴は微動だにしなかったからである。

 ただ、悠然と視線を動かすだけで、全身は微動だにしない。その様子を目の当たりにして詠歌は肩の震えが止まらない。

 もう一度、鋳鶴はバッターボックスから出て素振りをした。詠歌はそれを見逃さなかったが、全くその1回のスイングでは鋳鶴の特徴は掴めない。

「ふぅー……」

 鋳鶴は大きく深呼吸して呼吸を整える。彼のその様子を見ると詠歌も肩の震えが弱まる。バッターボックスに立つ鋳鶴も結局は人間という事だ。

「頼むぞ鋳鶴!」

「打てよー!鋳鶴!」

 ベンチと観客席から鋳鶴の名前を呼ぶのが聞こえる。

だが、鋳鶴はそれも気にならないほどに集中していた。

詠歌が振りかぶって第2球、今度は内角高めにカーブ。鋳鶴はそのタイミングに合わせてバットを振りぬいた。

バットは快音を響かせ、打球は空を切り裂く音を響かせる。詠歌は振りむいて、打球の行き先を見る。

「よっし!」

 そう言った鋳鶴の打球はライト方向に引っ張られ、ファウルゾーンぎりぎりを沿っていき、ライトに打球は抜けていく、そしてそのヒットで桧人はホームイン、まずは1組に1点が追加された。歩はそのころ、三塁に向かっていて、鋳鶴も二塁に向かって懸命に走っていた。

 歩が三塁に到達するというところでライトはようやく補給し、投げる体勢に入っている。

 それを見た歩は三塁を蹴って本塁に向かった。

 ライトはここでホームに投げるのではなく、中継を選択。

 鋳鶴がサードに走れない様にセカンドで止めるという作戦に入った。

 点は取られるものの、三塁か二塁で次のチャンスへの芽を摘む、その重要性は大変違う。だがしかし、中継先には詠歌が立っていた。

 鋳鶴はセカンドを蹴ってサードを目指す。

 なぜかというと、セカンドで中継してサードに投げる。確かに鋳鶴はアウトになるがそれでも歩はホームに帰る。

 歩は自分より早く本塁に向かえるはず、と考えた鋳鶴は二塁を蹴って三塁に懸命に向かっていた。

 次の瞬間、詠歌にまでボールが運ばれるとなんと、詠歌はそれを本塁に送球した。

 詠歌によって全力で投げられたボールは、キャッチャーのミットに音を立てて入り込む、歩が本塁に帰ってくるまえに見事な中継プレーで歩を刺す。

 この回結局、1組が1点を返し、2-1となっていた。詠歌は桧人に向かって得意気な顔をするとそのままベンチに戻っていった。




 試合はそのまま2-1で進んだ。4回と7回に6組にチャンスがあったが4回は野球初心者麗花の横っ飛びのファインプレー。

 7回は白鳥教諭が背伸びしてフライを補給し、なんとか凌いで、危機を乗り越える。

 一方、1組はランナーが二塁まで進むことはあるものの三塁を踏むことは許されなかった。

 そして試合は9回の表、鋳鶴は6組を残りの力を振り絞り、三者三振に打ち取った。初回に二本被弾したが、鋳鶴はそれ以降、完璧に0に抑えていた。

 歩は鋳鶴の右肩にアイシングの装備を付けさせベンチに自分の膝枕で寝させている。

 この大会に延長戦はないため、鋳鶴の番が回ってくる前に、桧人は試合を終わらせなければならないと考えていた。

 まずは、目先の一点。

 常に勝つことを考えるのが、この坂本桧人、その目は最終回まで燃え続けている。

「影太、頼んだぞ。あの技は、もうこの回しか使えないだろうし、その為にここまでとっておいたんだ。絶対に塁に出ろ」

「……任せろ……」

 影太はゆっくりと歩いて、バッターボックスに向かう。

 ついに9回の裏、1組最後の攻撃、できるだけなら桧人は自分と影太で終わらせることを考えた。

 詠歌は自分と影太が打ったとしても歩を敬遠して今日、一本も安打を打っていない麗花と勝負をし、疲れ切った鋳鶴を相手する事を考えているはず、そこで桧人は先ほど影太に指示を送っていた。

 最終回にするとは思えない、彼らしい大胆不敵な作戦。

「これで最終回、まずは二人!」

「……それはどうだろうか……」

 詠歌もこの回で最後、抑えれば桧人に願いを絶対に聞いてもらう。という欲から、これまでの疲労は吹っ飛んでいた。だが、それと同じく配球を無視して安牌(あんぱい)と思われている影太には真っ直ぐのストレートをど真ん中に放る。

「鈴村!?」

 キャッチャーの生徒が大きな声を張り上げると影太はバントの構えをとった。

 影太のバントを見て、詠歌は急いで打球を取りに行こうと体勢を崩す、影太のバントは理想的な形で地面を転がったが、それは不運にも詠歌の目の前だった。

 誰もが影太のアウトを確信して6組生徒は歓喜し、1組生徒は悲観した。が、桧人だけは違う。

「最高だ!影太!」

 桧人の目だけは悲観していなかった。むしろ歓喜しているように見える。歩は、桧人の表情を気にしながらグラウンドに目を向ける。

「……土村流忍術……(しゅん)(えい)!」

 影太が本人の柄に似合わぬ大声を出す。

 声を発して直ぐ、瞬く間もなく影太は、一塁に到達していた。

 詠歌の補給してから送球する。という一連の動きが、間に合う。間に合わない。ではなく、すでに影太は一塁に到達していた。

 詠歌がボールを捕って投げる前には、もう影太は一塁に到達していたため、全員が影太のその速さに驚くしかない。

 現場はただただ、驚愕。無言で誰も声を発することは無かった。

「……第一任務……完了……」

 影太は1組ベンチに向かって、小さくガッツポーズをすると1組から割れんばかりの歓声が上がった。

 次のバッターは桧人、詠歌はここで野球部のキャッチャーのサインを初めて見つめた。指示は、影太の素早さによる盗塁警戒と一度、高めに外すストレートの要求だった。

 詠歌はそのサインに素直に従い、投球動作に入る。

 あえて牽制はせずに、影太の盗塁の速さを見てみたいという余裕もあり、詠歌は投球動作に入り、ボールから手が離れるまで影太は動かなかった。

 詠歌は走らないのかと残念に思ったが、キャッチャーは目の前で起きた現象に目を奪われる。

 今まで野球をやってきて見たことのない光景、盗塁をする際にランナーが消えるという現象、そして自分がボールを受けたころには影太は二塁に立っていた。

 姿を見せることなく、盗塁をするという前代未聞の作戦が功を奏し、ここでキャッチャーにランナー土村影太という恐怖を教える。

 ここでさらに桧人は、バッターボックスから影太になんらかのサインを出した。

 詠歌もそのサインが気になって少し焦り始める。キャッチャーも詠歌に牽制する様にサインすると詠歌は、首を縦に振った。

 詠歌は牽制しようと考えているため、投球動作に入る前の時間が少しだけ長くなっている。桧人は、影太にサインを目で合図すると、影太は目の色を変えて次の塁を見る。

 一度、牽制しようとするも、すでに影太の姿はなかった。サードに急いで返球するも返球する前には影太は三塁にいた。詠歌が桧人の方向に振り向くと彼は彼女をまるであざけ笑うように微笑んでいる。

 桧人の自分を見下すような目を見て詠歌はより闘志を(たぎ)らせていた。

 もう三塁のあのランナーはどうでもいい。詠歌はそう心に思ってミットを鋭い目つきで見つめる。

「桧人、あんなことしたら仲悪くなっちゃうよ……」

「鋳鶴、これは勝負だ。あくまで勝負、あいつらは俺たちに任せろ。鋳鶴は、休んでいてくれ」

 寝たきりで動かなかった鋳鶴が歩の膝の上で小さく話した。

 歩はそれを聞き取ると近くにいた麗花を呼んで、鋳鶴の発言を教えて、タイムをかけさせて影太と桧人を呼び出した。

「桧人と詠歌が仲良くなる作戦だな?」

 歩が得意げに言うと、ベンチ付近に居た1組の全員が集まり、一方の詠歌は、ベンチに戻り水分補給をしている。

「そう……だね……。このまま勝ったら遺恨が残ると思ってね」

「なんだその作戦は!?そんな作戦は俺が許さんぞ!」

「……今、鈴村は非常にマズい状況……。……桧人、お前は少し……、煽りすぎだ……」

「確かに、お前が怒らせすぎてるぞ」

 影太と麗花も二人の仲を心配している様相で、桧人の発言に眉をしかめることも多くなっている。

一方の桧人はというと、全く持って反省の色が見られない。

「待てよ!もうすぐ勝てるんだぜ!?」

 桧人は声を張り上げて主張するが、一同は全員桧人を無視してグラウンドに戻った。

 鋳鶴は歩に支えてもらいながらベンチで再び横になる。

 そして数10分後、試合は再開され、ランナー三塁、バッター桧人、相手ピッチャー詠歌は充分に水分補給してからの仕切り直しだ。

「これ以上点を上げるつもりはないわ。揺さぶられてしまっていたけどホームスチールはありえない、彼のやる気と体力の問題で、限度は二回と見た。桧人がたとえ犠牲フライを打ったとしても同点、運が良ければこの回は凌げる!ちょっと怒ってて周りが見えてなかったせいか、冷静になって今は視界良好よ」

「それはよかった。詠歌、話があるんだが……」

「ん?今更謝ったって私は許すなんて甘ちゃんな事しないんだからね?」

「そんなことは分かってる。でも俺はこの試合ちゃんと勝ちにいくつもりだ。勿論、お前との約束を聞くつもりがないからな。そこでだ」

 桧人が次の話に移ろうとしたとき、麗花はおもむろにユニフォームのポケットから何かを取り出した。

 それは小さな掌サイズの正方形のスイッチで、麗花は勢いよくそのボタンを押した。

 グラウンドの両翼とバックスクリーン上の拡声器から耳に残る金属音が響き、ゴホンと咳き込む声が聞こえた。

「詠歌、今日はお前を挑発したり、悪いことを言ってすまなかった」

 拡声器から響き渡る声はまさしく今、バッターボックスに立っている桧人の声だった。

 桧人は目が点になっているほど仰天して呆けているかのように口を開いている。

「俺は素直になれなかったんだ。お前の思いを受け止めきれなくて、お前に冷たい言葉をかけたり、お前に寂しい思いをさせてしまっていた。でも俺は決めたんだ。この大会で結果はどうあろうと……そう詠歌、お前と結婚するって」

「ちょっと待て!俺はあんなこっ……!」

 桧人の口を麗花と歩の二人がかりで塞ぎ、寝ていた鋳鶴が、先ほどまでの疲弊した表情など演技だった。と言わんばかりに機敏な動きを見せる。

さらに音量を上げ、桧人の声を会場全体に響き渡るように操作した。

「これからもこんなに不器用で馬鹿やっている俺でよかったら、そばにいてほしい。いつもありがとう」

 桧人が暴れて歩と麗花、二人の拘束が解かれると桧人は急いで弁解しようとマウンドに転びそうになりながら向かう。

しかし、マウンドに詠歌の影はなく、人っ子一人、居なかった。

「桧人……ほんとぅ……?」

 詠歌は上目づかいで桧人に迫る。その目はまるで小型犬が甘えてくるときの様な、今にも泣きそうにしている目だった。あまりの彼女の行動と自分のクラスメイトが仕組んだこの罠に対して、桧人は現実から目を背けるためなのか、白目を剥いている。

「あのな?落ち着け詠歌……日頃の俺の台詞に……」

「聞こえるよ?だって、桧人の声だもん」

 桧人の話を一瞬で遮り、さらに詠歌は頬を赤く染めながら恥ずかしそうに体を左右にくねらせ始めた。

「そうだな。じゃあマウンドに戻ろう。まだ試合は終わってないぞ……」

 白目を剥いたままの桧人は、詠歌に自分の帰るべき場所を恐ろしいほど棒読みで教えると、再びバッターボックスに入った。

 キャッチャーが桧人の顔を窺おうとマスクを外して見てみる。

 白目を剥いていることを確認して、再び、ミットを構えた。が、詠歌も詠歌でいつまでも頬を染めて、マウンドの上で左右に揺れ動いているだけだった。

 それに痺れを切らした影太は、三塁からゆっくりと走りホームイン、詠歌以外の6組面々が彼女にボールをホームに投げると示唆するが、彼女の耳にその言葉は入ることはない。影太は、桧人に一つ会釈をしてからベンチに帰る。

 これで2-2のスコアとなり、桧人は自分が本気過ぎて、1組の全員が裏切らないか、変な企てを考えていないか、ということに気付かなかったことを今更ながらに悔いた。

「詠歌、頼む。早く投げてくれ」

「もぉー!仕方ないんだっかっらっ!」

 詠歌の放ったボールは今までに見たことがないほどに貧弱な放物線を描いてミットに向かう、どのみち何があっても詠歌に対する好条件は確定している。

 勝ったら結婚、負けても結婚という事実が彼女の脳内ではそれしか巡っていない。球種の指示もコースの指示も詠歌には聞こえない。勿論、チームメイトや観客席の声も彼女の耳には届かなかった。

 最早、桧人にはこの球技大会の存在でさえ、嫌に思えてくる。

 桧人の気力も限りなく無に近い。負けても詠歌の言うことを聞かなければならない状況にされ、景品は6組のものになってしまう。

 だが、勝利したとしても景品は貰えるが、詠歌と結婚を前提とした付き合いでもさせられるのではないかという不安が、桧人の脳内を支配している。

 続けて詠歌は、桧人に向けて球を放る。野球をやるという意識はまだ保てているようで彼女は滅茶苦茶ではあるが、山なりのボールが桧人に向かう。

 ボールは全く変化すらせずにミットに一直線に迫っている。これは、本日一の甘い直球だ。これを見逃してしまえば、この好機は2度と訪れることはないだろう。

 ここで男、坂本桧人は、バットを全力で握る。それは怒りから生み出された圧倒的な力。

「お前ら……、ぜってぇ許さんからな……!あとで覚えてやがれぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ!」

 桧人が叫びながらフルスイングしたバットは、見事に詠歌の山なりに投げられた球威のないストレートを捉え、一瞬でバックスクリーンに直撃させた。

 桧人は、目に涙を浮かべてダイヤモンドをゆっくりと駆け巡っている。

 一歩一歩、この現実が夢であってほしいと考えながら、2分にわたって桧人はダイヤモンドを一周した。

 桧人が流している涙は、果たして嬉しいからこその涙なのか。それとも勝負に勝ったにも関わらず、別の意味で負けてしまったことに哀しみ故に泣いているのか、1組の生徒と6組の生徒は完全に後者で考えている。

 桧人のサヨナラホームランによって2-3

 とスコアが変わり、ゲームセット。

 結果は1組の優勝だったが、桧人だけは表彰式でもまるで覇気がない死んだ魚の様な目になっていた。

 桧人の告白音声は鋳鶴が桧人以外に秘密裏にクラス全員に伝えて事である。桧人はその事実に気付かず、そして首謀者はその最期を見届けることもないまま、ベンチでいびきをかきながら熟睡していた。


球技大会、いかがだったでしょうか!ちなみに僕の高校時代の球技大会はソフトボールでした!次回は8月13日0時に投稿予定です。よろしくお願いします。

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