56話 女子高生、迷いを断ち切る
自分が日直だったことをすっかり忘れていた。
補習はなかったが、学級日誌にまったく手をつけていなかったため、急いで取りかかる。
しかしそこで手が止まる。
(今日、授業なにしたっけ……?)
記憶を探るも真っ白だった。
まるで集中できていなかった。
なにをしているのだろうかと陽菜は自分自身の抜け具合に嫌気がさす。
「御巫さん。すごい苦戦しているようだけど、大丈夫?」
「え? あー、はは、だいじょぶだいじょぶ」
心配げに声をかけてきたのは楠木凛太郎だ。
平気だというふうに笑みをこぼし、学級日誌をぱぱっと書き連ねる。
と、そこで自分が不真面目な生徒のそれと同じであることに気づく。
「ごめん、楠木くん。やっぱり手伝ってくれる?」
――――
「ありがと。無事に先生に渡してこれたよ」
「いや、これくらい全然…………………………というかこれ絶対牛島くんがやるべきだった」
「ん、なにか言った?」
「なんでもない」
「そう?」
というものの、陽菜はいまの凛太郎の言葉は聞き取れていなかったわけではない。
牛島なんちゃらとか変な男の名前が出されたので気になったのだ。
ただ本人がなんでもないというのだから特に気にすることでもないのだろう。
「じゃあ僕はこれで」
「あ、待って」
学級日誌を手伝い、わざわざ教室に残っていてくれたせめてものお礼を込めて言う。
「飲み物でも奢るよ」
「え、いやべつにいらないよ」
「まあまあ、そう遠慮しなくていいって。暑いでしょ?」
「暑い、けど……奢ってもらうなんて悪いし」
「気持ちだからさ。受け取ってもらえないとわたし、してもらってばかりになっちゃう」
少し意地悪く言うと、凛太郎はまだ悪いと思っているのかすぐには受け取ってくれない。
しかしこちらの気持ちが通じたのか、彼は折れてくれた。
「わかった。一階の自販機で、なにかもらうよ」
「オッケー。それじゃあ行こっか」
先導するように陽菜が教室を出ると凛太郎もついてくる。
こうして彼と帰りをともにするのはずいぶんと久しぶりな気がする。
「楠木くん、ごめんね、付き合ってもらっちゃって」
「べつに大丈夫だから」
「でもいつも早く帰るじゃない? なにかやることあるんじゃないの?」
「……特になにかあるってわけじゃないよ。ただ、ここにいても仕方ないだけ」
「そうなの? ふーん、そうだったんだ」
納得したような声を出すも、陽菜はどこか拭えない気持ちとなる。
確証はないが、なにかあるのだと女の勘のようなものが言っているのだ。
犯罪的なものというわけではないと思う。
ただ、夢中になるものがあるように感じるのだ。
とはいえ、言わないということは言いたくないのだろうし、聞いても教えてはくれないだろう。そこはもっと仲良くなってから知っていけばいいと寂しくはあるものの、堪える。
(……もしかして、エッチ系なものとか……?)
以前にUSBメモリを探す手伝いをした。
その時は違うと言ってはいたが、なにか怪しかったのを覚えている。
これが当たりだとしたら女子の陽菜には言えないのも頷ける。
踏み込むのはちょっとあれな気がしてきた陽菜だった。
「そういえば、楠木くん。友達から奢られたことってある?」
「ない、かな」
「そうなんだ。わたしもそんななくってね。お金が絡むとやっぱり友達関係とかこじれちゃうじゃない? だからあんまりしたことなかったんだけど……うん、べつにこういう形なら変じゃないよね」
陽菜が重ねてしまったのは、言わずもがな、那遊たちのことだ。
奢りとはまたべつの話ではあるものの、なにかしてもらったお礼ということならば悪くない。むしろされた側は罪悪感でいっぱいになるので、なにかしてあげたくなる。
だからこそ、那遊は……ああいうことを受け入れているのだろうけれど。
「御巫さん?」
「ごめんなんでもない。じゃあわたしが楠木くんに初めての奢った人だね。やりー」
最後、階段を一段飛ばしで降りると自販機の前まで駆け足で向かう。
「なに飲みたい?」
どれも値段は一緒で百円だ。
学生が利用するということもあってお手ごろな値段であった。
「じゃあ、これで」
凛太郎は悩む素振りを見せず、コーヒーを指さした。
しかもブラックだった。
大人だな、と陽菜は感心したように彼を数秒見つめてしまった。
いけないいけないと、顔を上げ、お金を入れてコーヒーを彼に渡す。
「はい」
「ありがとう」
「こちらこそ。どういたしまして」
改めて頭を下げ、陽菜は昇降口を目指そうとするが、凛太郎から珍しく見つめられ、「ん」と変な声を上げるとともに静止してしまう。
「なにかわたしの顔についてる?」
「あ、いや、そういうことじゃなくて」
ようやく自分が見つめていることに気づいたらしい凛太郎が顔を逸らす。
「……御巫さん、またなにか悩んでいるなっと思って」
「え?」
「後輩の花澤さんの時と同じで。……追試とはべつに、奈羅野さんだっけ? その人たちのことで」
「…………」
素直に驚く。
今回凛太郎には那遊の件は話すらしていない。
しかしどういうわけか、彼はほぼ確信を持って発していた。
「ち、違った? なんか最近、奈羅野さんといるし、彼女のことを気にしているみたいだったから。……それに奈羅野さんと一緒にいる媛岸さんってタイプ的に違うと思って」
そこで得心する。
きっと彼女たちのあの関係の違和には多くの人が気づいているのだろう。麻衣や夕莉も感じてはいたようであったし。そういうこともあり、陽菜が最近那遊と話しているのを見かければ結びつく。
「あはは、楠木くんには敵わないな」
当たりであることを認めるように陽菜は言う。
「ちょっとね、那遊……奈羅野那遊ね。楠木くんが感じているみたいな普通の関係ではないんだ。いろいろと複雑で」
「なるほど、それで御巫さんはどうしたらいいかって悩んでいるわけか」
「んーまあそれもそうなんだけど」
陽菜は心境を吐露する。
「その、ね。わたしがなにかしていいものなのかなって考えてて」
「なにかしていいかって言うのは……?」
「友人関係っていろいろ難しいものがあって。わたしが介入したばっかりにこじれてしまうかもしれないし、麻衣にも言われたんだけど、こういうことはただのクラスメイトのわたしが出る幕じゃないかなって思ってね」
どうしてそんなことを声に出していたのかわからない。
だれかに相談したかったということか、はたまた凛太郎だったからか。
どちらにせよ、少しだけ肩の荷が下りたように思えたのは確かだった。
「らしくないね」
「え?」
「いや、御巫さんらしくないなって思って」
らしくない。
そんなふうに一蹴されるとは思っていなかった。
凛太郎ならば「そうかもね」とか「仕方ないね」とか肯定的な言葉をもらえると思っていた。
けれど彼は違った。
きっと彼の中で、なにかが違うと思ったのだろう。
「この前の花澤さんの時……御巫さんは自分のことなんか顧みずに彼女のために頑張っていた。花澤さんを助けるため――花澤さんが助けを求めていないにもかかわらず、御巫さんは彼女のためになにかできないかと動いていた。そうだったよね? でも今回は奈羅野さんたちのことを考えてって言っているけど、なんか違う気がする」
凛太郎は言う。
失望にも似た色を瞳に帯びて。
「本当に奈羅野さんたちのためだと……奈羅野さんたちを助けたいと思っているのなら。行動を起こすのが御巫さんらしい、と僕は思う」
自分の考えを口にすると、凛太郎ははっとなって口元に手の甲を当てる。
「ごめん、なんか勝手なこと言って。御巫さんのことよく知りもしないのに……本当にごめん。じゃあ僕は行くね。あ、これありがとう」
息継ぎする暇もなく言って、凛太郎は陽菜から離れていく。
「楠木くん」
消えてしまう前に言っておきたかった。
「ありがとう! なんか悩んでいたのが馬鹿みたい。そうだよね、助けられるのに……苦しんでいるのをわかっているのに、なにもしないなんて違うもんね」
陽菜は言う。
晴れ渡った表情で。
「悲しんでいる人を見たくない……そう思っていたのに、忘れていた。ほんとらしくないね、わたしって! 思い出させてくれてありがとう。わたし頑張るって決めたから」
そう宣言すると、凛太郎は驚いたような表情からほっとしたものへと変わる。
これでいい。
那遊のため、瑛美のため。
彼女たちのために、すべきことがある。
――悲しんで欲しくない、そう異世界で学んじゃないか。
だったらこんなことで悩んでいる暇なんてない。
迷いを振り切った陽菜は今後、どうすべきかでもう一度考えようと思った。




