39話 女子高生、妹の相談を受ける
(なんだったんだろう、あれ)
椅子の背もたれに反り返るくらいに背中を預け、天井を見つめる。
光が差し込むも気にした様子も見せず、部屋の主、陽菜は物思いに耽る。
(特に那遊もなーんも言ってなかったし、わたしが気にしすぎなのかな)
媛岸瑛美と奈羅野那遊。
ふたりは教室ではよく一緒にいる。それこそ、陽菜と麻衣と夕莉みたいな関係だろう。
と言っても彼女たちの他にももうふたり女子が加わって、集まっている。
ぶっちゃけ。
彼女らのグループは陽菜たちのグループとはだいぶタイプが違うので交流はほとんどない。
昨日話したのが初めてであったと言っても過言ではないだろう。
だからふたりが普段どんな感じで会話をしているのかわからないのでなんとも言えない。
『陽菜ちゃんまたねー』
そう別れる際に言われた。
常の笑顔で、常の口調で。
「ま、いっか」
考えても仕方ない。
陽菜は首を戻し、勉強で疲れた肩をほぐすように回す。
「お姉ちゃん聞いて!」
ノックもせずに入ってきた妹の里菜が血相を変えて迫ってくる。
「どうしたのよ」
こういう姉のことなど顧みない妹の言動はしょっちゅうなので慣れている。
「わたし、スランプかもしれない」
「……はい?」
「だからスランプ! 知らない? よくスポーツ選手とかが調子落としたら言われるじゃん」
「あー、なんか聞いたことあるわ」
説明を受け、陽菜はあれかと頷く。
スランプ。
心理的、身体的または情緒的に複合した形で原因のつかみにくい一種の混乱状態のことで、スポーツ選手が一時的に調子を落としてしまった時に使われることが多い。他にも漫画家が絵を描けなくなったとか、音楽家が楽器をうまく演奏できなくなったとか。
いわゆる不調と呼ばれるやつだ。
しかし。
「スランプって……里菜はプロじゃないでしょ。ああいうのってプロの人が使う言葉でしょ」
「え、そうなの?」
「や、わかんないけど。……ほら、プロって長年やってきたことがなにかの原因でできなくなっちゃうでしょ? でも里菜の場合、学生時代に部活でやっているってだけじゃん。それってただの実力不足じゃない?」
聞きかじりではあるが、それなりに的を射ている考えを述べると、
「――こんな時に正論はいいの!」
などと怒られた。
だいぶ真剣に悩んでいるらしかった。
「で、なにがスランプっていうのは?」
「わたしソフト部のエースじゃん?」
「そ、そうね」
こう見えて里菜はソフトボール部のエースなのである。
中学から始めたのだが、才能があったのか、めきめきと成長していき、中学三年のいまではエースにまで上り詰めた。同じ遺伝子であるはずなのに、陽菜とはまるで違う。
羨ましいことこの上ないが、いまはそのことを妬んでも仕方ない。
「それでエースがなにをお悩みで?」
「インコースが投げられなくなったの」
インコースとは内側、内角という意味だ。
野球やソフトボールで言うと、打者に対して内角寄りにボールが来ること。
「ええっと、うん…………、投げられないとだめなの?」
「お姉ちゃん馬鹿? だめに決まってんじゃん!」
「馬鹿って」
心外である……と言いたいところだが、先ほど補習を行ってきた身であるためあんまり強く否定もできなかった。
「野球とかソフトボールってインコースとアウトコースをうまく使い分けなきゃいけないの」
「へえ、そういうものなのね」
「わかった。お馬鹿なお姉ちゃんにもわかるように言うね」
「だからお馬鹿って」
ただスポーツに関して疎いだけだ。
「三×三の面があります。合計で九つね。で、ここからお姉ちゃんは一つだけ選んで〇でもなんでも描いといて。わたしあっち向いて、こっちのノートに同じようにして選ぶから」
姉からシャーペンを奪った妹はノートに勝手に絵を描いていく。
言われたとおりに右側の真ん中の面に〇を描いた。
「はい、わたしが選んだのはこれ」
里菜の描いた〇は左側の一番上だった。
「なに? どれだけ心が通じ合っているかっていうゲーム?」
「あながち間違ってない」
「まあそうか。わたしたちってこんなもんよね」
「うん。それはそうなんだけど、いまはどうでもいいの」
なぜか呆れたように言って、里菜は再び四角の面を描いていく。
今度は九つではなく、三つなくした六つの面だ。
「はい、じゃあもう一回」
言われるがまま陽菜は左側の一番下に〇を描く。
「せーの、はい」
二回目は一致するかと思われたが、里菜は左側の真ん中だった。
「あー、惜しかったね。確率は減ったのに、当たらないってわたしたち姉妹の絆ってこんなものかあ」
「うん、だからいまはどうでもいいの」
素っ気なく返され、陽菜は拗ねたように頬を膨らませる。
「これでわかった?」
「や、だからこれなんなの?」
「ストライクゾーン」
言われて、ああとようやくそれがなにを示していたのか理解する。
ストライクゾーンとは打者が投球を自然体でバットに当てることのできる範囲のこと。ホームベースをとおり、かつ高さ、低さがバットを当てることのできるところならストライクが取れる。
通常、このように九つに分けられる。
インコース高め、低め。真ん中高めとかアウトコース低めなどなど。
「本来なら、九つの場所で勝負する……けど、言ったよね、わたしはいまインコースが投げられないって」
「だから二回目は六つの面でやったのね」
「そ。合わなかったけど、確率はかなり上がるでしょ。つまりそういうことよ」
「なるほど」
そこでようやく得心する。
インコースが投げられないということは、勝負できるコースが限られるということ。
打者は三つの面を捨て、残りの六つの面だけを見てバットを振ることができる。
つまり、圧倒的に打者有利になってしまうということ。
「まあ、簡単に言うと、ね。他にもいろいろとあるけど、お姉ちゃんにはこれくらいで充分でしょ」
「そうね。よくわかった」
馬鹿にされているのなど気にしていられないほどに重要であることがわかった。
「早急にスランプ脱出しなさいよ!」
「できたら苦労してないし、素人のお姉ちゃんにも相談しないって!」
またしても正論で返された。
馬鹿のくせにこういうことになると頭がいい感じに見える。
「それでどれだけやばいのかっていうことはわかったんだけど、原因はわかっているの?」
「んー、なんとなくは」
「なんなの?」
聞くと、里菜は複雑そうな表情をする。
「……前に試合でバッターにデッドボールを当てちゃってさ」
「デッドボール」
「これまで何度もあったし、そこまで気にすることじゃないんだけど、今回はあれでさ」
「あれっていうのは……?」
一拍置いてから里菜は言う。
「頭に……当てちゃったんだよね」
頭。
それがどれほどの意味を示すのかは陽菜にはわからない。
けれど、頭に当てられる――否、当ててしまうというのはおそらく陽菜が思っている以上になんらかの精神的な苦悩を与えてしまうものなのだろう。
「べつに他校の子だし、友達っていうほど話したことはないんだけどね」
「そうなんだ」
「うん。当てたあとも普通にプレーしてたし、大事には至らなかったみたい」
何事もなかったのなら幸いだろう。
「でも、なに。里菜も意外と繊細なのね」
「やー、普通に気にはなるでしょ。わたしのせいでなんか調子落としたりしたら悪いし」
やはりスポーツをやっているだけあって、フェアでいたいらしい。
相手のことを気にして自分の思いどおりのプレーができなくなるなどなかなかないだろう。こういうところは里菜のいいところだと姉である陽菜は思っている。
「あれね、スランプっていうよりイップスなんじゃない?」
スマホでなにか解決策はないかと探る中、見つけた検索結果を見せる。
「精神的な原因などによりスポーツの動作に支障をきたし、自分の思いどおりのプレーや意識ができなくなること、か。……んー、そうかなのかな」
読み上げ、唸るような声を出す里菜。
「その子の頭に当てちゃったことでまたやっちゃうんじゃないかって思って、無意識に投げられなくなっているんじゃないの?」
「あーそうなのか……な」
こちらもはっきりとは断言できないし、里菜もすぐには納得できない様子だ。
なかなか難しいところだ。
「まあ、里菜の言うようにただの不調ってことなのかもしれないね。月並みなことしか言えないけど、やっぱり練習するしかないんじゃない? 大会も近いんでしょ?」
「うん」
「じゃあ、頑張んなさい。応援行くから」
「ありがと」
里菜は少しだけすっきりとした顔となる。
「お姉ちゃんに話せてよかった。うん、やっぱり練習しかないね。頑張ろう。三年最後にマウンド立てないとか絶対無理だし」
「その意気だ」
そうしてちょっとだけお姉ちゃんらしいことをした陽菜だった。




