正体不明の暗殺者
両開きのドアが背後で閉じた。テーブルが六席ほどの店内。天井や四隅にランプが配置され、ところどころ蔭をつくりながらも外よりは遥かに明るい。
いっせいに数人の客が鋭い視線をこちらに投げた。ふっと消えるざわめき。だが、それはほんの数秒のことで、ふたたび何事もなかったように全員もとに戻った。
ひとり、ふたり、三人……。中央でカードゲームに騒ぎ興じる中年の男が三人、奥の席でしずかに酒を呑み交わす若い男がふたり、カウンターで酔いつぶれて上半身を突っ伏した白髪の男がひとり。いずれも町人然とした格好で、馴染みの常連客にすぎない。
「おい、ここはおまえのようなやつが来るところじゃあないぜ。商売ならよそでやってくれ」
私の顔を見るなり、酒場の主人がうんざりした表情でカウンターの中から言った。
「誰かに買われたいなら、べつを当たりな。娼婦の斡旋みたいなことは、あいにくここいらじゃあやってないんでな」
「買われたいってのじゃなくて、“飼われたい”っての間違いじゃねえのか」
「違いねえ。なんなら俺のペットにしてやってもいいぜ。うちの豚が喰ってる餌と同じでいいならな」
「いんや、俺んちに来な。うちなら、なんぼでも好きなだけしゃぶらせてやるよ。牛馬と仲良く並んで、飼い葉桶に頭つっこんで」
髭面の主人の言葉に継いで、悪のりして野次が飛んでくる。下品な笑い声。こちらに顔を向けるでもなく、毛の薄い後頭部を横柄に傾け、真ん中のテーブル三人はビール腹を揺すった。
「因果は廻る……。酒が酒樽から出て、酒樽に戻っていく」
「はあ?」
私の呟きを主が聞きとがめた。まさか、慣れないイントネーションでも私が喋れるとは予想外だったのだろう、唖然としている。
「ここに酒は捨てるほどあるのだろう、少なくとも家畜“や”にやるほどには。金はちゃんと払う、酒をくれ」
すぐにでも祝杯を挙げられるようにな、と今度はもれないように心中ひそかに呟いた。
黒いフード付きマントで全身を覆った、平素の姿と違う私の躰を主がいぶかしげにじろじろ眺める。
「金なら、ここにある」
私は懐から銀貨を数枚適当に取り出しながら、カウンター席の隅に腰掛ける。放り投げた銀の硬貨に眼をやる前に主人は、きゃしゃな私の指先と、一瞬コートの下の衣装から覗いた、盛り上がる私の胸元をちらりと盗み見た。
「金があるならかまわんが、ここは大道芸を披露する路上でも、いかがわしい劇場でもないんだ。踊りたいなら、外で勝手にやってくれよ」
「親爺、そいつはただの踊り子じゃないぜ。なにやらくせえ。何かあやしいモノを隠し持ってるぜ」
「そりゃそうだ。そいつぁただの見世物じゃねえだろうぜ。きっと夜のお相手もできる代物さ」
「こぎたねえメス野郎のくせしてか? そんならどうだ、俺っちの立派なモノでもくわえてみるか?」
下衆三人組がくだらないジョークでげらげら笑っている。女は太古の時代から、貨幣と同じ交換品や賞品といった男の所有物でしかない。少なくともこの手の連中はそう信じこんでいる。自分たちとは異なる姿をした者や外から来た者、あるいは力の弱い、子どもやハンデをもつコミュニティ内部のマイノリティは、同じ生き物とすら思ってない。
「一杯呑んだら、すぐ去る」
私は主人のむげな断りも外野の冷笑も無視し、もう一枚銀貨をカウンター上に置く。
主人がさらに私に何か言おうと口を開けたところで、奥にいた若者ふたりがいとまを告げた。機会を逃した主は肩をすくめると、しょうがないといった感じで背中を向け、酒を用意しだした。
俄かに興味は失ったのか、賭けが盛り上がってきたせいか、三人組はふたたびゲームに夢中になっている。私は見るからに度数の高い、飴色の液体がなみなみ注がれたグラスに一口つけたあと、奥壁に貼られたポスターのうちの一枚に眼がとまった。
「ああ、そいつが気になるのか。お尋ね者としちゃあ、なかなかやっかいなやつだってよ」
私の目線にめざとく気づいて、主人が喋りかけてきた。ずらりと壁一面に並んだ、数ある奨金首の貼り紙の中でも、そいつは桁外れに高い金額が提示されている。だが異例なことに、そいつには名前も、簡単な似顔絵すらなかった。簡易的、便宜的に、暗殺者とだけ書いてある。
「ついこないだ聞いた噂じゃあ、もう三人も殺られたらしい。揃いも揃って百戦錬磨の猛者どもがな。モンスター退治のプロだったようだが、そんな連中ですらその化け物には歯が立たなかったらしいぞ」
私はまたアルコールをちびり舐めた。グラスの表面に結んだ、おのれと世界のゆがんだ像と対峙しながら。
「なんでも、深夜に町の宿屋で凶行があったらしいんだが、そいつを生きて目撃した者が誰もいないってんだな。だから顔も姿形も、何者か、何の目的でかも、まったく見当つかんらしい」
巷で正体不明、か。
「ひとりは鋭い刃物みたいなもので切り刻まれていたようだし、べつの人間は丸焼けの黒焦げ屍体で発見されたって話だ」
地獄の業火が揺曳するように、小さく酒が漣だっていた。