血ぬられた復讐のプロローグ
私には一生涯忘れられぬ、幼いときの忌まわしい記憶がある。
──美しい森。
いまも眼を閉じると真っ先に思い出すのは、父と母と、多くの兄や姉や弟妹ら私たち家族が棲んでいた、あの美しい森だ。
緑豊かな山々。
青い空と広い大地。
清らかな水の河川と湖。
毎日のように愉しげに、おしゃれに着飾った草花は歌い、お喋りで賢しい樹木は語らい、合わせて鳥や昆虫が、悪戯好きの妖精たちと一緒に不思議なハーモニーを奏で陽気なダンスを舞う。
そして、さまざまな姿形をしたモンスターたちが争うことなくそれぞれの領分で、獲物を喰らい、愛を交歓し、安全な寝床で眠る。
そんな気ままな生活を、すべての生き物たちが平等に、自由に、営む山深く存在する地上の楽園。
いつまでも、永遠にあの美しい森の楽園でいつまでも、みんなで仲良く幸せな暮らしをつづけていけるものだと思っていた。
悪魔たちがやってくるまでは。
およそこの世のものとは思えないほどおぞましく、おそろしく凶悪で、無慈悲で、情け容赦ない冷酷無比なあの、邪悪な者たちがやってくるまでは。
まだ言葉もろくに喋ることのできない、年端もいかない子ども時分に、突然それは訪れた。
不吉な前触れか、その日は朝から森が騒がしかった。獣が盛んに彷徨きまわり、鳥が鳴いて飛び去っていく。木々は枝葉を揺らし耳障りな音を立て、虫が花のまわりや草木のあいだを逃げ惑うように飛びまわる。かたや精霊や妖精たちは、どこかになりをひそめていた。
太陽が最も高く位置する頃だった。
川辺へ魚を捕りに出掛けていたはずの、三番目の兄が頭と右腕から血を流し、左足を引きずり、ほうほうのていで家に帰ってきた。
驚いた私たち家族に兄は、何者か賊にいきなり襲われたことを、息も絶え絶えジェスチャーで告げた。一緒に連れていった妹や弟はすでに殺害されてしまったとも。
やっとそれだけ伝えると、しずかに息を引きとった。その瞬間、父は激昂して吼え、母は血相を変え、急いで小さな私の手を引き、家の穴ぐらに押しこんだ。それから私をまるで隠そうとでもするように、出入り口に草を敷き、土をかぶせはじめた。
穴がほとんど埋まり、わずかな隙間しかなくなってからすぐ、やつらが姿を現した。どうやら兄の落とした血の跡を追ってきたらしかった。
四匹の悪魔たち。
血に飢えた狂暴な怪物たちが、私たちの幸せを無惨にも破壊しにやってきたのだ。
まず何の呵責もなく殺害されたのは、私と同じように幼い兄弟やひ弱な姉妹たちだった。黒いシルエットが唸り、ねじれた棒が一本突き刺さったままの不気味な玉がかっと光ると、灼熱の炎があたり一面に放たれ、兄弟姉妹が次々に焼き殺されていった。
肉や毛の焦げる臭いと、絶え間ない悲鳴。
年上の逞しい兄たちは、鋼翼竜の巨大な爪に切り裂かれた。猛然と反撃するも、怪力の化け物じみた素早い動きに振りまわされ、ドラゴンの硬い鱗で護られた躰に怪我を負わせることは難しく、捕らえてもまるで歯が立たない。一方的に太い手足でなぎ払われ、殴られ、蹴り飛ばされ、骨まで砕かれた。あるいは、鋭く尖った竜の牙が高速で突き立てられた。
毛皮と肉を突き破る鈍い音。
無数に貫かれた体躯の、孔という孔からほとばしり出る大量の蒼い血液。
その間にも父は、子どもを助け護るために必死で戦おうとしていた。だが白い羽毛で覆われた、宙に浮かぶメスの小悪魔が起こす強烈なつむじ風に阻まれ、やつらに近づくことさえできない。眼の前で、家族が殺されていく。
阿鼻叫喚。
父はその地獄絵図さながらの光景を凝視するしかなかった。暴れ、歯噛みしながら、真っ赤な両眼から血の泪を流しながら。
母も、私の隠れている穴ぐらの前に立ち尽くしたまま慟哭した。
ふいに、父の右腕がすとん、と地面に落下した。凄まじい血飛沫が肩先から吹き出したかと思うと、瞬く間に今度は左腕も一刀両断されたように真上に、縦方向に回転しながら宙を舞った。父が呻いて両膝を着く。
刹那、きらりと何かが光った。
気がつけば、父の左胸が銀色の刃に背中まで貫かれていた。荒々しく蹴られ、貫通していた凶器が引き抜かれ、ゆっくりと父が真後ろに転倒した。
じっと見ていた。
惨劇の一部始終をずっと穴ぐらから見ていた。眼が離せなかった。声も出せなかった。
リーダー格らしい悪魔の首領が血をしたたらせながら、こちらへ歩み寄ってくる。母が抵抗するように身構え、声を張り上げ威嚇した。が、直後すぐに黙った。
次の瞬間、私の鼻先に母の顔があった。ただしそれは、私をかばうときの心配げな表情でも、いつもの優しい表情でもない。
うつろな双眸、泪でぐしゃぐしゃの頬、鼻血が垂れ涎まみれの口、飛び出た長い舌。
いつの間にか、急場で塗り固めた土壁が取り払われていた。ぬめぬめした体液を顔面に浴びた私の眼前には、母の生首が掲げられていた。
「●●●●●●」
母の頭部が無造作に投げ捨てられると、おびえて震えその場を動けず棒のように直立する私に向かって、悪魔が何か言葉を発した。そのとき幼い私には正確に聞きとることも、意味を理解することもできなかった。
ただ覚えているのは、緑色の粘液に染められた視界の中で魔物が見せた、悪意はまったくないとでもいわんばかりの、屈託のないその満面の笑みだった。