3章 射手
3章 射手
翡翠の祖母、蔵島翠は普通の人間にはない異能力を持っていた。
翠はその力を用いて時に死者との交流を図って成仏させたり、悪事を働く悪魔や異能力者に鉄槌を加えてこの町の平和を守っていた。
優しく、前向きでいつも誰かの笑顔を守るために動き続けていたのを孫である翡翠は覚えている。
蔵島の家に生まれながら全く霊感や異能の力を持たず、両親に失望されていた翡翠にも翠は暖かく接した。
毎日のように翠の元に困った人達がやってきては祖母が解決し、次の日には別の依頼人がやってくる。
働きすぎで顔色が悪くなっても翠は休まず働き続けた。
皆、自分が助かる事ばかりでお祖母ちゃんの事なんて誰も考えていないのでは無いか? 翡翠がまだ子供の頃、日を追うごとに顔がやつれていく祖母にそう質問したことがあった。
小さな翡翠の頭を撫でながら翠はこう返す。
「助けを求めている人を私は無視できないのよ。もしそれをしてしまったら、私は自分が死ぬことよりも大きな後悔をしてしまうから」
翡翠は今でも忘れられない。
この言葉と翠のやつれながらも満足そうな笑顔を。
それから3ヵ月後、最強の異能者である蔵島翠はこの世を去った。
人の為に戦い、人のために己の命を燃やし続けた祖母に何もしてやれなかった翡翠は自分の無力を酷く嘆いた。
そして現在。
たまに祖母と被って見えてしまう神保の命を救う為、翡翠はグールと一人で戦う決意をする。
今度は、目の前で自分の大切な人を失わない為に。
神保の上着を羽織った翡翠は暗い森の中で相手が来るのをじっと待った。
予習は完璧。
罠の仕込みも完了。
後はグールの知恵がここに誘き出されるのをただ待つだけだった。
神保は睡魔の陣が画かれた紙入りの枕で寝ている為最低でもあと2時間は起きない。
仮に早起きしたとしても神保には翡翠のいる場所が解らないのでここに現れる事もありえない。
同じくグールの知恵も魔除けの香で匂いを消した神保の位置を特定できない。
もし万が一、自分の作戦が看破され知恵に殺されたとしても神保には被害が出ない。
「おっと、いかんいかん」
つい弱気な考えをしてしまった自分の頭を左右に振り、翡翠は再び精神を集中させた。
周りの木々に黄色の絵の具で描いた誘引の陣が薄く輝き、今もこの場所に知恵を誘き出している。
前回の戦闘で餌となる幻が知恵に効かない事は承知していたが、誘き出す匂い自体は知恵の鼻にも十分効果があったので今回はただの呼び込みのためだけに木々に描いたのだ。
知恵との初戦同様右の掌には逃走用に保険の陣を描き強く握り締めている。
風が少しも吹いてこない森の中は、まるで嵐の前の静けさのようだった。
ここで知恵を倒すことが出来ればもう神保はグールと戦わなくても済む。
失敗するわけにはいかない。
翡翠は一度大きく深呼吸をする。
「それにしても遅いな……」
登場の遅いグールに翡翠が小さくぼやいた瞬間、静かだった森の中に一陣の風が吹きすさぶ。
木の葉が舞い、翡翠の髪が激しく揺れる。
数秒後、翡翠の5メートルほど手前に白いワンピースを着た黒髪ロングの女性が木の上から落ちてきた。
激しい着地音を響かせ、こちらを振り返ったのは間違いなくグールの西園寺知恵であった。
木々の間から降り注ぐ月光に照らせる知恵の姿は敵ながらどこか神秘的で翡翠は思わずこの光景を絵にしてみたいなどと下心を抱いてしまう。
「……御機嫌よう」
注意深く見ていたおかげか小さな声で会釈をする知恵はどこか余裕が無さそうなのを翡翠は見逃さなかった。
どうやら空腹が限界に達しているようだ。
「……待ったぜ」
「私の聡介さんはどこ!?」
間髪入れずに知恵が翡翠に質問する。
「悪いがここに神保はいない」
「嘘をついても駄目よ。私はちゃんと聡介さんの匂いを辿ってここまで来たのだから」
まるでそれが愛の力とでも言わんばかりに知恵は胸を張る。
そんな知恵を滑稽に感じながら翡翠は羽織っていたスーツの上着を脱いで見せ付けた。
「残念だが匂いの元はこれだ」
右腕の生地が齧りとられ、神保の血が染みたスーツを前に知恵は思わず涎を口から垂れ流す。
「素敵な服ね……前菜としてはぴったりだわ」
物欲しそうにスーツの上着を見る知恵は自分が騙されてここに誘き出されたことなど少しも気にしていない様子だった。
「そう。本当に気持ち悪いがお前にとってこれは前菜だ」
手に持ったスーツをゆっくりと自分の前に投げ捨てる翡翠。
「グールは欲に忠実な生き物だ。お前も遠慮せず――」
翡翠が言い終える前に知恵は走り出していた。
地面に落ちたスーツを拾い上げ、鼻孔を限界まで開き神保の残り香を知恵は堪能する。 更に知恵は腕の部分に付着している血液も舐め始めた。
それによって神保に関する追加の情報も頭の中に流れてくる。
以前は幽霊などを信じない超現実主義者だったということ。
好きな女性のタイプ。
最近の一番の悩みなど一舐めごとに神保聡介に詳しくなっていく知恵だったが、よく解らない情報も紛れ込んでいた。
「名前は蔵島翡翠? 仕事は画家……って何よこれ?」
イレギュラーな情報を口に出す知恵はすぐ目の前の翡翠に視線をやる。
「どうだ。俺の血の味は?」
「まさかあなた……自分で自分の血を混ぜたの?」
翡翠の意外な行動に知恵は戸惑う。
「これで俺にも少しは興味を持ってもらえたかな?」
知恵がスーツの血を舐めた時点で作戦の第一段階は成功していた。
今は握っていて見えないが翡翠の右手の人差し指が切れて血が出ている。わざと翡翠が
果物ナイフで指の先を切り、血を何滴か刷り込んでおいたのだ。
「……例えるなら、ステーキとお寿司を一緒に食べた感じよ。あなたの血の味も取っても素敵だわ」
恍惚の表情で知恵が呟く。
「自分の血を私に舐めさせたってことはどういうことか理解しているかしら?」
興味のなさげだった知恵の翡翠を見る目が今では獲物を求める狩人のようにぎらついている。
「あなたも私に愛されながら食べられたいのね!」
作戦の第一段階はグールのターゲットを神保から自分へと移すことにあり、それは見事に成功した。
自分の血を舐めさせれば知恵は必ずこの場にいない神保よりも翡翠を食べる事を優先すると考えたからだ。
「あぁああ素敵! 始めての経験よ。2人の男性を同時に愛するなんて」
「それは浮気じゃないのか?」
「何を言うの純愛よ。だってあなたも聡介さんも、私と一つになるのだから」
身勝手な愛を語り、色目を使ってくる知恵に翡翠は胃液が逆流しそうな気持ち悪さを感じた。
「ふざけるんじゃねぇよ。誰がお前の汚い腹の中なんざ入るか」
「照れちゃって可愛いのね。そんなあなたもとっても素敵よ」
口から大量の涎を垂らしながら顔を紅潮させていく知恵。
翡翠は保険を仕込んだ右手を前に出して身構えた。
「あーもう我慢できない。私食べたい。翡翠君の首を丸齧りして頚動脈から血をゴクゴク飲みたぁあああい!」
空腹感が我慢の限界を超え、不気味な台詞を吐きながら知恵が突進してくる。
しかし駆け出したその先には翡翠の仕掛けた罠が待っていた。
翡翠はあらかじめ落ち葉の何枚かに青色の絵の具で動きを縛る陣を画いておいたのだ。
あと一歩、知恵が足を前に踏み出せば陣に引っ掛かる。
「匂うわ。これは絵の具の匂いね」
しかし、もう少しで捕縛出来そうというところで知恵は予想外の行動にでた。
前に出すはずだった左足を折り曲げ、地面を蹴って神保の遥か頭上に飛び上がったのだ。
「何っ!?」
「あはははっ、バレバレよ! 今の私の嗅覚は犬並みなのよ」
視界が鈍っている分、嗅覚が敏感になった知恵が翡翠の頭上で愉快そうに笑う。
「どんどん人間離れしていくなこいつ」
「私はグールよ。人間だった時の過去なんて捨てたのぉ!」
知恵は進化した鼻をフル活用し、空中から青の陣が書かれた落ち葉を嗅ぎ分けて自分が降り立つ事のできる安全地帯を探す。
「くそ、まさか嗅覚で陣を回避するとは」
神保は保険を握り隠した右手を突き上げ、知恵が頭上ぎりぎりまで落下してくるのを待った。
「あはははッ! また妙な閃光を浴びせる気なの!?」
絵の具の匂いがしない一帯を嗅ぎ分けた知恵が余裕の笑みを浮かべ、翡翠の真上から降下する。
「今だ。陣よ――」
ぎりぎりまで知恵を引き付けた翡翠が握り続けていた右手を開き、掌に描かれた陣を開放した瞬間だった。
「ごめんね。あなたの事は大好きだけど、何度も同じ手には喰らわないわ」
空中で知恵も左手をぐんと突き出し翡翠の右手を握ってきたのだ。
「どんなに強い光でも、遮ってしまえば眩しくはないわ」
死体のような冷たい手で翡翠の右手を強く握ったまま青の陣が描かれた葉っぱの無い安全な地面に知恵は着地した。
「ぐッ……あっ……!」
人間離れした知恵の握力に翡翠は小さく悲鳴を上げる。
「捕まえた。恋人みたいに手を繋ぎながらあなたを食べてあげる」
大きく口を開け、今にも翡翠の頚動脈に齧りつこうと知恵が一歩前に足を前に出そうとした時。
「……どうして?」
知恵が小さく疑問の声を漏らす。
その様子を見て翡翠は口の端をつり上げた。
「体が、動かない……!?」
突然体の自由を奪われた知恵は鈍った目で自分の足元を確認して見るが、どこにも青の陣が画かれている葉っぱは無い。
そもそも着地前に絵の具の匂いがしない場所に足をつけたのだ。青の陣など見当たるわけが無かった。
「一体何をしたの……!?」
「青の陣は円内に入った悪魔の動きを封じる陣だ。ただの人間の俺にも使えるお手軽なまじないさ」
「だからそんな物はどこにも無いじゃない!」
「本当にそうか?」
得意げに笑う翡翠。
知恵は暫く考え、あることに気付き自分が握り締める翡翠の右手に視線を向ける。
「まさか……!」
「ようやく気付いたか。そう、俺が右手の中に仕込んでいたのは光の陣じゃない」
急いで翡翠の右手を離そうとした知恵だったが、最早手遅れだった。
どれだけ力を入れても指先一つ動かせないのだ。
「俺が掌に描いていたのは青の陣だ」
グールを自分の至近距離で捕縛する事。
それが翡翠の作戦の第二段階だった。
「……やられたわね」
完全に動きを止められた知恵だったがその表情にはまだまだ余裕が残っていた。
「それで、動けない私をこれからどうするの? キスでもしてくれるのかしら」
軽口を叩く知恵を翡翠は無視し、腰に差していた果物ナイフを抜き取る。
刃物の扱いに慣れていない翡翠は息を荒くしながら刃先を知恵の手首に当てた。
「こうするのさ……!」
意を決してナイフを思い切り引き抜く。
刃は知恵の手首を切り裂き、真っ赤な血液が地面に勢いよく流れ落ちる。
「あーあー、酷いわ。私の手首を切るなんて」
自分の動脈を切り裂かれたというのに知恵は悲鳴一つあげず、むしろ溢れ出る自分の血液を愉快そうに眺めていた。
「まさかこれで終わりなの? 悪いけどこんなの全然効かないわよ」
余裕の無さそうな翡翠をからかうように知恵が笑う。
事実、刃物で傷つける程度ではグールにダメージを与える事はできない。それは翡翠も承知している。
「手首を切ろうと、心臓にナイフを突き刺そうと私は殺せないわ。さぁ次はどうするのかしら?」
体を縛られたまま知恵が強気にまくし立てる。
「首の頚動脈を切ってみる? それとも目を貫いてみる? それとも喉を掻っ捌いてみるのかしら。ほらほら急がないと拘束の術が解け――」
「次は……こうすんのさ!」
台詞に割り込ませるかのように翡翠は知恵の大きく開かれた口の中にナイフの刃を入れ込む。
突き刺したのではない。あくまで血の付いた赤い刃を知恵のよく回る舌の上にそっと置いたのだ。
予想外の行動に知恵は何も言えずただその場に立ち尽くした。
「最初から気になってたことがあるんだ」
ナイフを傾け、刃に付いた血が知恵の喉を通っていく。
「なぜお前が神保の下の名前を知っているのかってな」
知恵の口から刃を引き抜いた翡翠は持っていたナイフを投げ捨てた。
最初に2人が知恵と相対した時、翡翠は一言も神保の下の名前を呼んでいない。
それにも関わらず知恵は神保のことを『聡介さん』と呼び続けたのを翡翠は不審に思っていた。
「あ……ああ……」
自分の血を飲み込んだ知恵の様子が徐々におかしくなっていく。
「死体喰いのグールの中には稀に特殊な変異を遂げる者がいるらしい。過去に俺の祖母が会ったのは通常のグールよりも更に力を増す事のできるタイプだったがお前は違うな」
翡翠は目の前で段々と余裕を失っていく知恵の様子を見ながら自分が頭の中で立てた推測が正しかった事を確信する。
「お前は『知りたい』と思った人物を体内に取り込むことで、相手の情報を得る事ができるいわば知識欲のグールだったんだ」
「違う……私はただ……愛した人と一つになる為に……」
「お祖母ちゃんが過去にあったグールは怪力を出す為に尋常じゃない量の食事をとらねばならなかったらしい。お前にも能力を発現する為に何かの代償行為が必要なはずだ」
もっと早くに気付くべきだった。
必要の無いと思われた知恵の行動が知恵を倒す為の最大のヒントであったことに。
「何故お前は偽名を使っているんだ? 人間を辞めたグールに偽名が必要だとは思えないが」
「はぁっ……はぁっ……!」
翡翠の指摘に知恵の呼吸が乱れていく。
「しかも偽名である事を自らばらした」
不可解な行動の意味を翡翠は深く考え、解き明かした。
それは最初に偽名だと自ら名乗る事によって、自分が秘密主義である、自分に関する一切の質問は無意味であるという事を密かに印象付けるためのものだったのだ。
そうする事で、知恵は相手からの自分に対する質問を避けてきたのだ。
「お前は自分で自分の血を飲んだ。そして今、お前が最も『知りたい』と思う事を俺が訊いてやろう」
「やめて……お願い……」
まるで懇願するかのよう知恵は言ったが翡翠は聞き入れなかった。
「西園寺知恵。お前の本当の名前は何だ?」
「うわぁあああああああああああああああっ!!」 青の陣が効力を失い、捕縛が解かれる。
森の中に響き渡る絶叫とともに知恵は開いた大口で喰らい付く。
翡翠ではなく、自分自身の腕に。
自分自身の事を知りたくない者など、この世にはいない。それはグールに身を落とした知恵でさえ例外ではないのだ。
「何故お前に偽名が必要なのか。それはお前が他人の情報を得る代償に自分自身の記憶を失くしたからだ。違うか?」
特殊な変異を遂げたグールがその能力を行使するのには代償行為が必要だ。
今までの言動から知恵の場合は自らの記憶を失くしていくことでは無いかと翡翠は予想をしていた。
質問に答えることなく知恵は左腕の肉を食いちぎり、口の中で何度も噛み締めて飲み込む。
何も言わずともその行動は翡翠の考えが当たっていることを証明していた。
「私の……本当の名前……」
自分の肉体を喰らい、自分自身の情報を得た知恵が自分の本当の名前を思い出す。そして思い出すと同時に新たな疑問が頭の中で溢れ出す。
本当の自分はどんな人間だったのだろうか?
恋人はいたのだろうか?
何故自分はグールになってしまったのだろうか?
一つずつ疑問を解消していく為に右手でわき腹の肉を毟り取り、口に頬張って飲み込む知恵。
「そうだ……私は小さな町工場を経営する両親の元で生まれた3人姉妹の次女。家庭は決して裕福ではなかったけれど――」
ぶつぶつと自分の情報を一つ一つ思い出してはまた違う体の部位を千切りとって口へと運ぶ知恵の姿は凄愴なものだった。
「高校の卒業式。2人だけの静かな教室の中で私は生まれて始めて好きな人に告白をしたわ……それは私の担任の先生で凄く素敵な男性だった」
知恵が自分の高校時代を思い出すまでには体からはかなりの肉が削げ落ち、それは最早人間と呼べる形ではなく、もうすぐ自身では歩けなくなる程の変貌を遂げていく。
翡翠は自分の目の前でグールが少しずつ自滅していく様子を冷たい眼差しで見続ける。
「先生は私をふった時に言ったわ。相手の事を何も知らない子供が軽々しく好きなどという言葉を口にして大人をからかうものではないと」
話を聞く限りではどうやら知恵の初恋は失敗に終わっていたようだった。
今まで体の部位を千切っていた右腕に知恵が口を付け、また肉を食い千切る。
「私はショックだった。先生はどうしたら自分を愛してくれるのだろうと必死に頭を働かせ、そして……気付いたの」
翡翠は次に知恵が何と言うのかがなんとなく想像できてしまった。
「相手の全てを知れば私はもう子供扱いをされない。先生にだって愛してもらえると思ってその日から私は先生の生活を〝観察〟するようになった」
知恵の言っている観察とは有り体に言ってストーキングの事なのだろうと翡翠は大きく嘆息する。
「観察を続ければ続けるほど私は先生に詳しくなった。家に忍び込み、台所の残飯から味の好みまでばっちり把握した。けれど、ある日、解らない疑問が出てきた」
恐らくその疑問こそが知恵をグールに変貌させるまでに至った原因だ。
「ある日、先生が知らない女の人を自分の家にあげていたの。2人はとても幸せそうに食事をし、一緒のベッドで寝ていたわ」
延々と自分語りを続ける知恵の両目から涙が溢れ、頬を伝って地面に落ちていく。
「なぜ先生はその女と一緒にいるの? 私よりも先生に詳しい女なんてこの世にいないはずなのにどうして先生はその人を愛したのかいくら考えても答えは解らなかった……」
「ストーカーが選ばれる訳がないだろ……」
小声で翡翠が呟く。
「だから答えを知る為に、先生と一つになろうと思ったのよ。一つになれば先生が何を考えているのか解るし、肉の味も解って一石二鳥の名案だと思ったわ」
今までの話も大分狂っている部分が多かったが、その発言のあまりの異常性に翡翠は背筋を凍らせる。
「自宅に一人でいるのを確認した私は家に忍び込んで先生を殺した後、風呂場まで持ってきた死体の肉を思う存分喰らった」
「狂ってる! お前は狂ってるぞっ!!」
あまりに身勝手な言い分で人を殺した知恵を翡翠が激しく批難するも、知恵には何も聞こえていないようだった。
「不思議な感覚だった。先生の肉を一口食べるたびに先生の考えや思い出が私の脳裏に映し出されていくのに、私の映像が一つも出てこないの」
木々の隙間から写る月を見上げながら、知恵は悲痛な声を漏らす。
「それから色々な男を愛し、食べてきたけれど誰一人として私を見てくれている男性はいなかったわ!! 私はこんなに愛してあげているのにどうして誰も私を愛そうとしてくれないの?」
悲しげに俯き、答えを求めるように知恵は視線を翡翠の方へと向けた。
白いワンピースは血で真っ赤に染め上がり、ただ立っているだけの足も肉を千切られたせいで激しく痙攣している。
「人間だった頃のお前がどんな人物だったかなんて知らないし、興味もないね。一つ言えるのはお前が最初に想っていた人間を殺した時点で、お前に愛を語る資格は無いってことだ」
救いを求める知恵に翡翠は冷たい言葉を浴びせる。
森の中に強い風が吹き、そんな翡翠の髪を激しく揺らした。
「人である事を辞めた奴が人を愛するな! お前の自分勝手な愛情でこれ以上俺の大切な友人を傷つけるな!!」
三白眼で睨みつけ、感情をむき出しにして翡翠は吼えた。
こんな身勝手な悪魔に自分の友が傷つけられたかと考えると無性に腹が立ったからだ。
「お前の存在そのものが不快だ! 俺の前からいなくなれ!!」
それを聞いた知恵は自分の左腕をむさぼり続けながらもがっくりとうなだれて涙を地面に落とす。
翡翠のグールを自滅させるという作戦は完璧に嵌った。
後は知恵が自分の体を喰らい尽くすのを待つのみという時、翡翠は知恵の妙な雰囲気に気付く。
「ふふっ……あははっ……そうね、私はこのまま自滅して死ぬ」
先程まで悲しみに暮れていた知恵が突如不気味な笑みを浮かべたのだ。
「でも私の人生最後に愛する2人の男性を食べてから逝きたいわ」
「無理だな。お前はもう自分自身を知りたいという欲に縛られている。今更俺達にターゲットを移すことは出来ねーよ」
グールの特性は一度食事を始めれば終わるまで人喰いに夢中になるというものだ。
現に知恵は自分の肉を今も喰らい続けている。
この状態で食事のターゲットを移すには、外部の者から翡翠か神保どちらかの肉を食わせてもらう以外ないが、もちろん翡翠は自分の肉を食わせてやるつもりなど毛ほども無かった。
時間が経つにつれ、体がぼろぼろになっていく知恵と指先を少し切った事意外はほぼ無傷の翡翠。
勝敗は誰の目にも明らかであったが知恵の放つ異様な気配な雰囲気は徐々にその禍々しさを増して行く。
言い表せない本能的な恐怖に翡翠の足が無意識に後ずさりをはじめ、相手と距離を取った。
「そう。今の私は私自身しか食べられない……だから!」
突如、自分の体を食べるのを止めた知恵が翡翠目掛けて駆け出す。
翡翠は逃げるよりも先に考えてしまった。
どうしてターゲットが自分に移ってしまったのかを。
「……しまった!」
あることに気付いた翡翠は視線を落とし自分の着ている服を見ると、先程知恵の手首をナイフで切ったときに浴びたのであろう返り血がわき腹の辺りに数滴付いていた。
つまり今、知恵は翡翠の体を食べようとしているのではなく翡翠の着ている服に付いた自分の血を食べようとしているのである。
「服に付いた私の血液ごとあなたのお腹の肉を毟りとってあげる。食べさせて、人生最後の素敵なディナーをぉおおおおおっ!!」
「くそっ――」
猛スピードで近づいてくる知恵が右手を突き出す。
もともと体力の無い翡翠は知恵から逃げ切る事も、自分の腹に迫る右手を躱す事も出来なかった。
「神保……すまん」
こんな所でこんなにあっけなく自分は死ぬ。
自分の祖母も、たった一人の友人すら守れずに情けない人生を終える。
わき腹に知恵の冷たい手が触れた瞬間、翡翠は死を覚悟した。
「ぁあぁああああああああああっ!!」
暗く、冷たい風が吹く森の中に激痛で悶える絶叫が響く。
ただしそれは翡翠のものではなかった。
恐る恐る閉じていた両目を開く翡翠。
見ると右腕を失くした知恵がその激痛のためか叫びながら地面を転げまわっていた。
翡翠は今の一瞬で何が起きたのか理解できずに困惑する。
「探したぞ、翡翠!」
声のする方を振り向く。
そこには右手に銀銃を構え、体全体が銀色の光に包まれた神保が立っていた。
「神保……」
「酷いじゃないか。僕には無理するなとか言っておいて自分は一人で無茶をするのか?」
少し不機嫌気味な神保が駆け寄ってくる。
息の荒さから相当急いでここまで来たらしい。
「神保、お前どうしてここが解った?」
一人でグールに戦いを挑んだ事への謝罪でも、助けられたことへの礼でもなく、最初に翡翠の口から出てきたのはそんな疑問だった。
そんな友人に呆れながらも神保はズボンのポケットからスマートフォンを取り出して言う。
「発信機だよ。僕のスーツの上着に入れっぱなしにしてただろう」
それは夕食を食べ終えた直後に神保が自慢げに見せ、翡翠が一言で使えないと切り捨てた刑事課の装備だ。
神保のスマホの画面には縮小された地図の上でここの位置がばっちりと赤く点滅していた。
翡翠の疑問はもう一つあった。
神保を寝かせた枕には睡魔の陣を仕掛けていて最低でも2時間は目を覚まさないはずあったのに神保は平然とした顔で今ここに立っている。
訳を尋ねようと思った翡翠だったが、光に包まれている神保の姿を見てすぐに理由を察した。
恐らくは銀銃が陣の効果を無効化したのだ。
あらゆる魔を跳ね除け、使用者を回復させる武器がこの銀銃である。ただの人間が描いたまじないなどすぐに消されてしまうのだろうと翡翠は自己解決する。
「……で、翡翠。僕に何かいう事無いのか?」
神保が意地の悪い声で訊く。
「神保……その、すまな――」
謝罪を言い切る前に神保は左手で作った握りこぶしで軽く翡翠を小突いた。
「翡翠。僕達は君の祖母のように強くない。ただの人間だ」
「神保……」
「だからどんな時も2人で助け合いながら戦おう。これからは抜け駆けはなしだ」
神保の提案に翡翠は観念したように頷く。
「……ああ、もう一人で戦ったりお前を守ることをかんがえたりしねぇ。これからは助け合っていこう」
照れくさそうに翡翠が鼻を摩り、2人が仲直りをした瞬間だった。
「聡介さぁああああああんっ!!」
2人のいい雰囲気を壊すように右手を失った知恵がふらつきながら起き上がる。
「会いたかったわァアア」
体はぼろぼろだったが念願の神保聡介を前に知恵は再び口から大量の涎を吐いた。
そんな知恵を前に神保は翡翠を庇うように前に立つ。
「グールを君一人であそこまで追い詰めたのか? すごいな……」
「本当はぶっ倒すところまで俺一人でやりたかったんだけどな」
翡翠は悔しそうに両手を握り締めた。
「後は僕に任せてくれるか?」
どこか頼もしさを感じさせる神保の台詞に翡翠は無言で頷く。
「聡介さぁああん。確かあなたの腕を齧った時に私の涎があなたの体内に入ってるはずよねぇ? これも運命かしら」
「そんな汚い運命があってたまるもんか」
銀銃のハンマーを起こし、トリガーに指を掛ける神保。
銃口は知恵の頭に向けていた。
「どうして皆私を毛嫌いするの? もっと愛させて。もっと私を愛してよ!!」
自分勝手な理屈を言い続ける知恵を前に、もはや神保に迷いは無かった。
「相手の全てを知りたいなんてそんなものは愛じゃない。ただの君の我侭だ!」
被害者の無念を晴らすため。
これ以上の被害を出さない為。
自分の友人を守る為に神保は覚悟を決め、狙いを定める。
「愛してるわ聡介さん。私と一つになりましょう!!」
片腕を失った知恵が最後の突撃を神保に仕掛けた。
「私をぉおお愛してェエエエエエエッ!!」
「やるぞ銀銃!! 僕に力を貸せ!!」
神保の人差し指がトリガーを引く。
その瞬間に銃口に銀の炎が収束し、固まったエネルギーが光速で射出される。
「聡介さん――」
銀色の光弾は額を貫き、知恵の体を銀色の炎で燃え上がらせる。
「ごめんよ……僕は君を愛せない」
それは膝から崩れ落ち、徐々に灰となっていく知恵に神保が最後にかけた言葉だった。
やがて強い風が灰を吹き飛ばし、時葉町の都市伝説である人喰いチエちゃんこと西園寺知恵はこの世から完全に消え去った。
風に乗り、遠くに流れていく知恵の灰を神保と翡翠は遠く見えなくなるまで黙って眺め続けていた。




