1章 グール
1章 グール
下級悪魔【Ghoul】について。
人間の死体を喰らう悪魔で主な活動時間は夕時から深夜まで。その他の時間は光の当たらない所に身を隠して過ごす。
発生原因は人喰いを繰り返し他人の魂を死体ごと自身の体に吸収することで悪魔となってしまう人間の後天的変異だと考えられている。
彼らは死体を喰らう事で不死の体を維持しているが、代償として永遠の空腹感に襲われている。
出現場所の多くは墓地で他人の墓を荒らして中の死体を喰らうが周囲に墓地や肉の付いた死体が無かった場合、彼らは街で人間を殺しその肉を食べようとする。
基本的に彼らは己の持つ欲に逆らえない。1度食事を始めれば例え己が攻撃を受けても絶対に食べるのを止めようとはしない。
グールの持つ欲を利用する戦法は非常に強力だ。
故に食事の最中は周りに注意が払えず無防備な状態となるので、まずはグールの欲を刺激する〝餌〟を用意した後、おびき寄せられたグールが食事に夢中となっているところに攻撃を入れるのが対グールの基本戦法となる。
有効なのは神聖な祝福を受けた武器での攻撃、または破邪の詠唱。
防御には結界の陣、又は聖水を体に撒いておくのも良いだろう。
正面戦闘は必ず避けること。下級悪魔だが嗅覚が鋭く身体能力は人間のそれを遥かに超えており、甘く見た者は手痛い反撃を受ける事だろう。
更に注意するべき点として彼らは完全に食事を終えると一時的に特殊な能力を得るようだ。
私が過去に相対したグールは人並み外れた量の食事を済ませると両腕が異常に膨み、通常では考えられないような怪力を発揮した。
食事を終えさせる前に倒しきってしまうという事をあらかじめ頭に入れておくと良いだろう。
「ふーん。なるほどね」
「グールの本が見つかったのか?」
長い階段を下りつづけて地下に隠された巨大な地下蔵に入った翡翠と神保の2人は蔵島家の先代であり生前数多くの超常事件を解決してきた対人外のエキスパート蔵島翠の知識が記された書物の中から今回の事件の相手であるグールについて記された書物を探していた最中だった。
「ああ、流石はおばあちゃんだ。対処法まできっちり書いてあるよ」
広い地下蔵には本棚だけが所狭しと並んでおり、翠手書きの書物もぎっちりとその中に詰められている。
そんな中から特定の本を見つけ出すというのはとても根気の要る作業で2人のグール本捜索作業は3時間にも及んでいた。
当たりを引いた翡翠は書物を流し読みしするとその本を神保に投げて渡す。
「ありがとう」
「しっかり読んどけよ神保。メリーさんの時とは訳が違う」
「というと?」
翡翠の発言に神保は首を傾げた。
相手は下級の悪魔、それも対処法まで判明したというのに何を危惧しているのか神保は解らずに聞き返す。
「前回と違って相手は人型の悪魔だ。それも霊体じゃなく実体があるな」
人間と似た姿を持つ相手に引き金を引けるのか?
翡翠の言いたい事を察した神保は自分が甘く見られていることに眉根を寄せた。
「これは僕がやると決めて君に頼んだ事だ。躊躇はしないさ」
「だといいがな」
対悪魔用の魔方陣が何ページも書かれた書物を開きながら翡翠は無気力に返事する。
幻覚を見せる陣、動きを封じる陣、滅してしまう陣など円の中に細かく並ぶ線や文字の配置を翡翠は宙になぞりながら一つ一つ覚えていく。
「なんでその集中力を国語や数学のテストに活かせなかったかな君は」
「ひらがなや数字に芸術性を感じなかったからだろ」
「僕には芸術の事は解らないからな」
苦笑いを交じらせつつ神保もグールについてびっしりと書き込まれた書物のページを読み進めて行く。
「本当に詳細に書いてあるんだなこの本」
「おばあちゃんは仕事熱心な人だったからな」
覚えるのが難しい陣があったのか翡翠はボサボサの黒髪を掻きながら言った。
「どんな人だったんだ? 君の祖母……蔵島翠は」
数々の事件を解決してきた人物を知りたいという興味本位で神保が尋ねると、せわしなく動き続けていた翡翠の左手が止まる。
「とても暖かい、優しい婆ちゃんだったよ……人にも、人じゃない者にも」
ぼそりと放たれた言葉に神保は思わずページから視線を外し、驚いた表情で翡翠の方を見た。
「人じゃない者にもって……でも君の祖母は幽霊や妖怪相手に戦ってきたのだろ?」
「人間が良い奴ばかりじゃないように、超常的存在の者だって悪い奴らばかりじゃないのさ。そしておばあちゃんはそんな者達を守るために戦ってた」
「何だかすごい人なんだな。まるで漫画や小説のヒーローみたいだ」
「そう、まるで正義の味方さ。他人を守るのは得意でも自分の守り方を知らなかった。結果過労で逝っちまった」
平坦な声で言うと翡翠は止めていた手を再び動かし始め、陣の暗記に自分の意識を集中させた。
「本当にすごい人だな、君の祖母は」
神保もそれだけ言うと視線を自分の持っている書物のページへとおとした。
2人共無言のまま数分が過ぎた頃。
「よしっ」
「読み終わったぞ!」
両者が同時に勢いよく本を閉じたせいで地下蔵の壁に小気味良いぱたんという音が反響する。
「で、作戦は?」
グールについてある程度の知識を得た神保が書物を棚に戻しながら尋ねると翡翠は持っていた書物を見せ付けるように左右にひらつかせた。
「お前が言った通りグールは超人的な肉体を持っている。正攻法で戦って勝てないなら罠を仕掛ければいい」
「罠か。具体的に僕はどうしたらいい」
「メリーさんの時と同じさ。俺が動きを封じてお前が銀銃でとどめをぶっ放す」
そういうと翡翠は左手の人差し指を神保に向け「ばーん」と射撃するしぐさをしてみせた。
「随分とシンプルな作戦なんだな」
「お前の持ってる銀銃は上級悪魔にも通じるほどの破邪の力がある。まして下級の悪魔くらいならまず間違いなく一撃で仕留められる武器がこっちにはあるんだ。複雑な策は考えなくていいんだよ」
「そ、そうか。それで作戦の決行はいつだ」
「神保、お前今銀銃は持ってるか?」
「ああ。元々今日君に返そうと思っていたからな」
そう言って神保はスーツの前を開き、左脇のショルダーホルスターに仕舞われた銀銃を見せた。
「持っているなら作戦決行は今夜……今からだ」
「えっ、今から!?」
唐突に作戦開始を告げられた神保が驚きの声を上げる。
「シンプルな作戦だからすぐに実行できる。警察のお前もスピード解決は望むところだろう?」
「それはそうだが……」
「俺もこんな面倒くさい依頼はさっさと片付けて画を描きたいんだ」
ぶっきらぼうに言った翡翠が書物を棚に戻し、元来た階段に右足を踏みかけた時、神保の腹から情けない音が室内に響く。
翡翠は嘆息しながら「何か食ってからにしよう」と言い、神保は「じゃあ回らない寿司をご馳走してくれ」と返して殴られた。
その後、階段を昇って蔵から出た2人は屋敷内のキッチンへと移動する。
少し広い空間にダイニングテーブル、流し台やコンロ、オーブンなどが揃えられているごく普通の調理場の風景に神保は少し驚いた表情を見せた。
「何だよ?」
「いや、僕って今まで屋敷内は翡翠の部屋と君の祖母の部屋しか見たこと無かったから」
よく解らない返答に翡翠は首を傾げる。
「この屋敷内にもまともな空間があるんだなぁってつい驚いてしまった」
「お前なぁ……」
神保の歯に衣着せぬ物言いに眉根を寄せてぼさぼさの頭を掻きながら翡翠は壁際に設置された冷蔵庫を片手で開けた。神保もどんな高級食材が出てくるのかと興味津々に覗き込む。
中は以外にも普通のスーパーで買えるような物ばかりで鳥の腿肉、秋刀魚、豆腐、味噌などが並んでおり、野菜室には所狭しと緑黄色野菜が詰め込まれていた。
「時子さん……またこんなに野菜買ってきて」
「家政婦の人か?」
「ああ。週3で家に来て家事をしてくれるんだけど、やたらと食事のバランスにうるさくてな」
広い蔵島家の屋敷に一人で住んでいる翡翠はもともと掃除や洗濯嫌いだった事もあって家事の一切を雇った家政婦の円谷時子に任せていた。
ある日、26歳独身の時子に外食ばかりの翡翠の食生活を知られてからは契約にはない食事の世話まで見てくれるようになった。
「へぇ~、いい人じゃないか」
「どこが! 週3でこの量の野菜食わされるんだぞ」
感心する神保に翡翠は苦虫を噛み潰したような顔で首を左右に振る。
「今日はその時子さんは来ないのか?」
「ああ。今日は休みだよ」
「そっか、なら今日は僕が夕食を作ろう」
スーツの上着を脱ぎながら準備を始める神保の提案にことさら嫌そうに顔をしかめる翡翠。
「お前、料理できるのか?」
不満そうに言いながら翡翠はダイニングテーブルの椅子に腰掛ける。
「日頃自炊をしている僕の料理の腕をお見せしよう。エプロンはあるか?」
「食器棚の引き出しにいつも時子さんが使っている物がある」
神保は台所に置いてあるテーブルの椅子の背もたれに上着と銀銃が仕舞われたホルスターを掛け、食器棚の引き出しから紫のエプロンを取り出して慣れた手つきで身に付けた。
「何作る気だ?」
「うーん、卵と麺つゆもあるから親子丼かな」
「待て。卵は解るが麺つゆって親子丼と関係あるか?」
「それは完成してからのお楽しみだよ」
2人で話しをしながら坦々と台所には料理に必要な調理器具や食材が並べられていく。
翡翠の話しにしっかりと返事をしながら神保はてきぱきと動き、フライパンに油をしいて弱火で温めながら鶏腿肉をまな板の上に乗せて包丁でぶつ切りにしていった。
「そういえばお前、銀銃いつも身に付けてたのか?」
テーブルに頬杖をついた翡翠が木製の椅子の背もたれに掛けられた銀銃のホルスターを見つながら言った。
「まさか! 今日は返そうと思ってたから身に付けて来ただけだよ」
背中を見せたまま神保は笑って返す。
「それにしても不思議な銃だなそいつは」
肉に火が通るのを待ちつつ味噌汁の調理に取り掛かった神保は銀銃を一瞥する。
「普段はトリガーが錆び付いているみたいに固くて引けないのにメリーさんに向けた時は驚くほど引き金が軽くなった」
「そりゃ対超常現象に特化した銃だからな。人に向けては撃てないように出来てんのさ」「弾も込めてないのに勝手に銀色の光が発射されるし、一体どういう仕掛けになっているんだ?」
「翠お婆ちゃんの時代からあった物だぞ。どんな構造かなんて俺が知る訳無いだろ」
話が進んでいくうちに台所には鶏肉と玉葱が炒められた食欲をそそる匂いが広がっていく。
「不思議といえば君の祖母も奇特な人物だよな。周りの人達を守るために戦って、その記録をしっかり後世のために残しているんだから」
水で薄めた麺つゆとほうれん草をフライパンに投入した後、卵を溶きながら神保が言った。
「あのなぁ。言っとくけどお前もお婆ちゃんと同じくらいの変人だからな」
ぼさぼさ髪を掻きながら呆れた顔をした翡翠が嘆息する。
「変人!? 僕がか!?」
溶いた卵を流し込んでフライパンに蓋をした神保が驚いて振り向いた。
「正義バカ。他人の為に動く事が自分の使命だとか思い込んでる自分から厄介事に首突っ込む自殺タイプ」
「う、うるさいな孤独バカ。いつでも一人でいようとする集団の輪を乱すタイプ!」
「俺は一人でも十分生きていけるし、天才画家だから学生時代に群れていた連中よりも稼いでいる」
神保の反論にびくともしない翡翠が胸を張って答える。
「まったく……君のそういうところは早く治したほうがいいぞっと」
炊飯ジャーから白米を丼によそぎながら、神保は苦笑いを見せた。
「はい完成! 聡介特製の親子丼と味噌汁だ」
会心の出来なのか上機嫌な神保が丼によそいだ親子丼と味噌汁をてきぱきとテーブルに並べていく。
狐色まで火が通った玉葱とぷりぷりの鶏肉、良い具合に半熟にとろけている卵、そして横に並べられた野菜がたっぷり入れられた味噌汁の見た目と食欲をそそる匂いに翡翠は思わず涎が溢れそうになった。
「お前、本当に料理できたんだな」
「疑ってたのか!? まったく君という奴は……」
コップと冷蔵庫に入れられたペットボトルのお茶も取り出し夕食の準備が整ったので2人は席に着き両手を合わせ目の前の料理に少しだけ頭を下げた。
「「いただきます」」
合掌を解き、2人は同時に親子丼の肉を箸で掴み口の中に放り込む。
奥歯で何度か噛むと鶏肉の肉汁が口の中で溢れた。
「うんまぁあああい。さすが僕!」
「うん。確かに美味い」
オーバーなリアクションをする神保とは対照的に翡翠は平坦な声で感想を言いながらも静かに舌の上で広がる美味を楽しんだ。
「こんなに美味い物がこの世界にはあるんだから、何も人間の肉を喰べなくてもいいのなぁ」
翡翠が不満そうな目で神保をじろりと睨む。
「あ、食事中にすまなかった」
「まぁ別にいいけどな。ちなみにグールは欲に忠実な存在だから人肉が一番美味いと思ってるうちは他の食材になんて目が行かないと思うぜ」
「欲に忠実に生きるか。そんなこと……誰かの命を奪って良い理由には決してならないだろ」
「あんまり……ズズズッ……熱くなるなよ。足元すくわれるぞ」
握りこぶしを膝の上で作り、闘志を燃やす神保を味噌汁を啜りながら翡翠が諌める。
「解っているさ」
小さく頷いた神保は丼を左手で持ち上げ、親子丼を口の中へと掻っ込んでいった。
「まぁ……この様子なら大丈夫か」
グールと戦うと決まった時、翡翠には一つだけ不安なことがあったのだが張り切る神保の姿を杞憂だったと小さくため息をつく。
「んっ? 何か言ったか翡翠」
「いや、なんでもない」
こんな事を話しながら食事が出来る自分達2人はもしかしたら感覚が麻痺しているのでは無いかと翡翠は苦笑した。
「「ごちそうさまでした」」
食事を終え、食器を片付けた2人は出掛ける準備を始める。
「そういえば、今から出発するのはいいがグールを探す手段はあるのか?」
屋敷の玄関でホルスターを身に付け、銀銃を左腋の下に収めた神保が上着を羽織ながら唐突に翡翠に尋ねた。
「さっき見た本にグールを誘き出す魔法陣が書いてあったから暗記しといた。あとはそいつに引っ掛かってくれるかどうかだな」
筆や絵の具、パレットなどが入った画材ケースを無理やりショルダーバッグに押し込みながら翡翠は答えた。
「自分の祖母のことをすごいすごいとよく言ってるが君も十分すごいと思うぞ」
魔法陣などという現実からかけ離れた単語をさらりと言ってのける翡翠を前に神保はつい苦笑いをする。
「だがな翡翠! いろいろと準備しているのは君だけじゃあないぞ」
「何だよ急に……」
「じゃじゃーん! 小型発信機ぃ~」
某猫型ロボットの声真似をしながら神保が上着のポケットから出したのは豆粒サイズの携帯発信機だった。
「何コレ?」
「刑事課の装備ロッカーから拝借してきた発信機だ」
「お前それ割りと問題行動なんじゃないか!?」
相方のアグレッシブすぎる行動に翡翠は本気で驚いた声を出す。
「大丈夫大丈夫。ピストルを持ち出した訳ではないし、こんな小型の発信機なんて無くなっても誰も気付かないよ」
「本当に大丈夫かよ日本の警察」
大丈夫と言いながらとてつもない問題発言をしている神保に翡翠は深く嘆息した。
「んで、それをどうすんだよ?」
「これを人喰いチエちゃんに取り付けることができれば万が一逃げられてもすぐに場所を特定できる!」
「取り付けられれば、ねぇ……」
どこか馬鹿にしたような視線を神保の手の平に乗っている発信機に向ける翡翠。
「ウチの科捜研の特別製でな。スマートフォンのナビアプリと連携して対象を追跡出来る優れものだぞぉ」
「いらないな」
「えええぇえッ!?」
散々得意げに説明した挙句一刀両断された神保が悲痛な声を上げる。そんな様子を見て翡翠は呆れたように首を左右に振った。
「何故だ!? 便利だぞ!?」
「そもそも逃がす予定がねーんだよ。早く終わらせたいってさっき言ったろ」
「くそぅ。せっかく持ってきたのに」
「さっさと出発するぞ」
軽くあしらわれた神保は涙目になりながら発信機をスーツのポケットに戻し、腰を下ろして靴を履き始めた。
蔵島家の屋敷から歩き続けて十数分、辺りはすっかり暗くなっていた。
神保聡介と蔵島翡翠の2人は前回人喰いチエちゃんが現れた時葉町内にある商店街に到着する。
先日ここで殺人事件があったというのに広い商店街内はいつもと変わらず会社帰りのサラリーマンやショッピング帰りの女性で賑わっていた。
「……しまった!」
商店街の入り口である〝ようこそ時葉商店街へ〟とでかでかと書かれた大きな門を通過したところで神保が唐突に頭を抱えた。
「どうした?」
あまり興味がなさそうに尋ねる翡翠。
「何となく前の現場近くに来たけど、よくよく考えたらグールがまたここにくるとは限らなかった」
「お前よくそんなんで刑事になれたな」
愕然とする神保をよそに翡翠は人気の無い商店街の建物の隙間を通って裏路地の方へさっさと歩き出す。
「あ、ちょっと待てよ翡翠」
慌てて追いかける神保。
狭い建物の隙間を抜けると2人は表通りの明かりが薄く差し込むだけの人の気配が無い裏路地に出る。
辺りは建物の壁に囲まれ、ファンが回り続ける換気扇と青いゴミ箱しかなく何匹かの猫がゴミを漁っていた。
周りの風景を見た神保は何となくここが今回の事件の被害者がいた場所と似ている事に気付く。
「……ふーむ。まぁここでいいか」
視線をあちこち動かした翡翠は何かに納得したように首を縦に振り、ショルダーバッグから画材セットを取り出した。
左手に筆、右手に絵の具用の木星のパレットを持った翡翠は黄色の絵の具を筆先に付けて振り向くと裏路地の中心に梵字のような文字の羅列を円状に書き始める。
「何してるんだそれ?」
不思議そうに見つめる神保が尋ねた。
「誘き出すって言ったろ? そのための餌を撒いているのさ」
翡翠は地面に文字を書き終えるとそれを囲むように黄色の絵の具を筆先につけて綺麗な円で囲い、魔法陣のようなものを完成させた。
「それは?」
「悪魔に使う誘惑と幻覚のまじない陣だ。微量の誘う匂いを発生させて悪魔を陣のある所へと誘引する」
「あ、なるほど」
ようやく翡翠が言っていた誘き出すの意味を理解出来た神保はそれと同時にあることに気付く。
「誘引……ってちょっと待ってくれ! それって他の悪魔まで集まってくるんじゃないのか!?」
周りを悪魔だらけにされると考えた神保は焦りながら懐の銀銃に手をかける。相方の慌てふためく様子に翡翠は思わず噴出してしまう。
「大丈夫だ。匂いが辺り広がるには少し時間が掛かるしグール以外は誘引されないから」
口の端をつり上げながら翡翠が説明すると、神保は赤面しながら懐から自分の手を抜き出した。
「この陣に書いた字は悪魔の鼻と目に人間の死体、つまりグールにとっての餌をまるでここにあるかのような錯覚を起こさせる。この陣はグール専用なんだよ」
「さ、最初からそう言ってくれ……」
緊張から一気に脱力した神保が両腕をさげて嘆息する。
「匂いが広がるまで少し時間が掛かるから今のうちに残りの陣も書いておく」
「残りの陣って?」
「メリーさんの時にも使った悪魔をしばらく動けなくする結界の陣。まぁ保険みたいな物だな」
質問に対し、先程書いた陣から少し離れた位置に青い絵の具で新たな陣を書き始めた翡翠が低い姿勢のまま答えた。
「なるほど。つまり今回の作戦は黄色の陣で誘き出した敵を青色の陣で足止めしている隙に僕が止めを刺すって感じか」
神保がこれからの動きを頭の中で纏めた直後2つ目の陣も完成する。
「そう言うこと。まぁ作戦なんて呼べたもんじゃないがこっちには最強の武器があるから心配ねーよ」
新兵を落ち着かせる熟練兵士のように落ち着いた口調で良いながら翡翠はパレットから親指を抜き、右手の掌に落書きを始めた。
「最強の武器……」
対照的に自らの役割の重要性に体を固くした神保は自分の懐に手を当て、収まっている銀銃の感触を何度も確かめる。
「っし、保険も完成。さぁそろそろ隠れるぞ」
右手を握り締め、薄く口の端をつり上げた翡翠は裏路地の隅に位置する青色のゴミバケツが密集している場所の陰に屈んで隠れて神保を手招きした。
それにつられる様に神保も翡翠の隣にに身を隠す。
外出するときでさえTシャツにジャージズボンとスリッパというみすぼらしいファッションが状況にマッチしている翡翠と違い、しっかりとスーツを着こなした神保がゴミバケツの陰に隠れる姿は違和感があるのか2人は互いに互いを鼻で笑った。
「本当にこれでグールは現れるのか?」
「さぁな。匂いが広がる範囲にも限界があるからその辺にグールが居る事を祈れ」
「なぁ、これで何も来なかったら僕達すごくマヌケに見えないか?」
「……それを言うな」
赤面して視線を逸らす翡翠はそれ以上何も喋らなかった。
お互い無言のまま猫達がゴミを漁るだけの時間が数十分過ぎ、夕食を食べた2人に心地の良い眠気が襲ってきた頃。
「匂いはもう十分広がったはずだがまだ現れない。という事はもう今日は駄目だな。帰って寝るか」
とうとう翡翠が根を上げた。
「いやいやいや、まだ1時間も経ってないぞ! 君が今日中に終わらせようと言ったんだぞ」
「来ないものを待ってても時間の無駄だろう。刑事のお前と違って俺は張り込みとか慣れてないんだよ」
眠そうな目を擦りながら立ち上がった翡翠は悪態をつく。
神保は根気の無い相方の肩を揺さぶりながら説得を続ける事にした。
「大丈夫。待っていればもうすぐ現れるさ」
「気休めはやめろよ神保。俺は諦める時はキッパリと諦める男だ」
「見破られてたか……でもたった今気休めなんかじゃなくなったぞ」
肩を掴んだ神保の手が次第に強く握られていく。
「神保?」
「銀銃が微かに震えてる」
「何!?」
懐を押さえながら言った神保の言葉に翡翠は顔色を変える。
「メリーさんの時と同じだよ。近くまで来ているんだ……グールが」
強張った表情で神保は懐から銀銃を抜き出す。引き金に指が掛かった右手がわずかに震えていた。
真剣な表情から嘘では無いと察した翡翠は無言で頷くともう一度姿勢を低くしてゴミバケツの陰に自分の気配を隠す。
「どんどん銀銃の震動が強くなっていく。かなり近いな」
「もう黙っておけ。勘付かれると厄介だ」
2人が口を閉ざし、なるだけ呼吸も静かに行おうとした時だった。
神保達が入ってきた通路の隙間から長い人影が現れ、だんだんと近づいてきたのだ。
地面にヒールを踏みつける小気味いい音が聞こえるまでグールが接近したところで神保と翡翠はそっと向かい側を覗き込む。
「あら、なんでこんな所に人の死体があるのかしら?」
とても人の死体を発見してしまった人間の台詞とは思えない軽い口調で独り言を呟く女性の後姿が2人の目に入った。
白のワンピースが似合うほっそりとした体型に腰まで伸びた艶やかな黒髪。後姿だけ見れば何の変哲も無い女性である。
(でも、翡翠の書いた陣の幻覚が見えているという事は……!)
いくら後姿が人間に似ていても幻覚に誘引された時点で目の前にいる女は悪魔、グールなのだと神保は自分に言い聞かせるように銀銃を握り締め、じっと機会を待つ。
「へぇ~、すごいわねこれ」
「くそっ、早く喰えよ……!」
蔵島翠の本によればグールは自分の欲を最優先させる下級の悪魔で、一度死体に齧り付けば食べ終わるまで周りで何が起きようと感知しないと記されてあった。しかし目の前のグールはなかなか幻覚の死体に口を付けようとはせず、ただ陣の周りをジロジロと観察しているだけで翡翠は少しイラつき始めていた。
「ふふっ」
そんな翡翠をあざ笑うかのように背中を2人に向けたまま薄く笑い、信じられない言葉を口にする。
「馬鹿みたい。こんな物、触れるのも嫌だわ」
「何……!?」
「罠が見抜かれてる……!?」
翡翠と神保が同時に驚きの声を上げる。
「どうする翡翠」
グールを仕留める第一段階である餌に敵が食いつかない。予想外の展開に神保は焦りながら翡翠に尋ねた。
「どうするも何も保険を使うしかないだろ。行くぞ」
覚悟を決めたように立ち上がった翡翠に釣られるように神保も立ち上がって2人並んでゴミバケツの陰から姿を晒す。
「よう人喰い女。俺が用意したディナーはお気に召さなかったか?」
「両手を上げて動くな!」
グールの後姿に翡翠は皮肉交じりの挨拶をし、神保は構えた銀銃の銃口を突きつけて威嚇した。
「あら、2人もいたのね」
「ゆっくりとこちらを向け!」
女は神保の命令通りに両手を頭の高さまで上げたままゆっくりと振り返る。
どこか幼さが残る可愛らしい顔、白く透き通るような肌、モデルのような細く引き締まった体つき。
グールの女の容姿を見た神保に衝撃が走った。
翡翠には注意された事も心のどこかでは〝相手は異形の化け物〟なのだと勝手に信じ込んでいた。しかし、今神保の目の前には紛れも無い〝人間の女性〟が写っている。
「これが、この〝人〟が……グール……!?」
敵は人間離れした身体能力の持ち主だという事を書物で知り、しっかりと距離を録っていた2人に向かい、グールは焦るでも襲い掛かるでもなくゆっくりと頭を下げて会釈をした。
「初めまして。私は西園寺知恵。もちろん偽名だけど子供達の間では『人喰いチエちゃん』なんて呼ばれているわ」
神保が動揺しているのもお構いなしに人喰いの悪魔、西園寺知恵は2人に向かって笑顔で自己紹介をした。
「あなた達は何者なの? わざわざこんなものを用意しておいてまさか今更一般人ですなんて言わないわよね」
投げかけられた問いに2人は何も答えることなく目の前の悪魔の動きを見逃さぬように集中する。
「ちょっとちょっと、自己紹介もできないわけ?」
邪気も無く首を傾げるただの人間にしか見えない女性に銃を構える神保の手が微かに震えていた。
「おいグール。殺す前に一つ質問がある」
「私の言葉は無視するくせに自分は私に質問するなんて随分な扱いね。まぁいいわ、何かしら?」
暗い路地裏で1人の女性に2人の男が対峙するという端から見ればどう見ても神保達が悪者な場面を気に留める事もなく翡翠は尋ねる。
「何故あの陣が、あの死体が偽者だと解った?」
黄色の絵の具で書かれた幻覚の陣を指差されながら聞かれたことに知恵は背後の偽死体の映像を一瞥した。
「別に偽者だと解った訳じゃないわ。ただこの死体に興味が持てなかった……いえ、食欲がそそられなかっただけよ」
自分の腹を摩りながら空腹アピールをする知恵の解答に翡翠はまだ納得がいかないのか不満そうな顔で舌打ちをする。
「翡翠……」
「大丈夫だ。お前はその銃弾ぶち当てることにだけ集中してろ」
罠が効かなかった相手に不安そうな声を出す神保の様子に翡翠は冷静になるよう小声で指示した。
「ちょっと。あなたの質問に答えたのだからいい加減名前くらい教えてくれても良いのじゃない」
「これから死ぬ奴に教えたって意味無いだろ」
いかにも悪役が言いそうな言葉で挑発し、翡翠は回答を拒む。相手が自分の知っているグールでは無い以上どんな情報も迂闊に渡すことは出来ないと判断したからだった。
「なかなか言うわね。まぁ良いわ。そっちの方が燃えるもの」
「何だと?」
「あなた達2人共、顔立ちは良いし変な匂いの香水とかもつけて無いみたいだから夕食にぴったりよ」
知恵は舌なめずりをしながら左右交互に視線を動かして神保と翡翠の2人を品定めするかのように上から下まで観察しだした。
「ああぁ。不思議な人達……人間のくせに私の事を最初から悪魔だと知っていたし変な罠まで用意してまで私を殺そうとして」 涎を垂らしながら小声で何かを呟く知恵の不気味な雰囲気に2人は思わず唾を飲み込んで本能的に感じた恐怖に耐える。
「神保。準備しとけよ」
「あ、ああ……」
「おい、いくら何でも体がちがちに固くしすぎだぞ。大丈夫かよ」
「大丈夫。大丈夫さ……」
明らかに動揺している神保の様子に翡翠は気付いていたが敵が目の前にいる状況では軽い言葉をかけるくらいの事しか出来なかった。
「本当に何者なのかしら。知りたい……しりたいシリタイ知りたい死リタイぁああもう我慢できない」
先程から挙動不審な動きを繰り返していた知恵の動きがぴたりと止まり、数秒間の異様な静けさが辺りを包む。
「……モウ食ベチャオウ……!」
「構えろ神保ぉ!! 来るぞ!」
「アハハハハハハハハッ!!」
高らかに笑いながら知恵は姿勢を低くし獣のように突進する。その速度は人間のそれを遥かに超え、翡翠はあっさりと懐に潜り込まれてしまう。
「不思議なまじない使いの人、まずはあなたから食べてあげるぅッ!」
「翡翠!」
大きく開かれた口が翡翠の眼前に迫った瞬間。
「……あ……が……っ!?」
躍動していた知恵の動きが金縛りを受けたようにぴたりと止まった。
「何……これ……!?」
苦しそうに呻く知恵。2人はその隙に背後に回りこんで再び距離を取る。
「今お前が掛かったのは悪魔を束縛する青の陣。描かれた円内に踏み込んだ悪魔を一時的に動けなくする」
翡翠の言葉につられる様に知恵が視線を下ろすと足元でまじないの陣が微かに青く輝いていた。
「魔術師や霊能力者が使えば何時間も拘束できる代物らしいが生憎と俺はただの人間なんでな。2分ほどしか動きを封じる事は出来ない」
「ただの人間ですって? 人間がどうしてこんな力を……!?」
拘束されたまま指一本すら動かす事のできない知恵が苦しそうに疑問を口にする。
「まじないの陣は使用者に特別な力が無くとも正しく描けばそれだけで力を発揮してくれるお手軽なものだ。知識さえあればただの人間にも悪魔と戦う術は有るって事だ」
口の端をつり上げながら話す翡翠の説明を受け、知恵は必死にもがこうとするが指一本すら動かせず、額から汗を流す。
誘引の陣こそ上手くいかなかったものの、当初の予定であるグールの動きを封じるという作戦自体は成功し、翡翠は勝利を確信した。
素早いグールの動きを封じてしまえば後は止めを刺すだけだったからだ。
「翡翠……!」
「おう、トドメだ。撃て神保」
無様に固まる知恵の背中を見ながら翡翠は銀銃から放たれる弾丸を待つ。
しかし、隣の神保の構える銃口からはいつまで経っても銀の閃光が発射されることは無かった。
「おいどうした!?」
「解らない! さっきから何度も引き金を引いているのに、銀銃が撃てないんだ!!」
「何だって……!?」
その言葉を聞いて、翡翠は今まで意識を知恵にばかり集中させていたことを後悔する。 神保は知恵の足を狙って何度も激鉄を親指で起こして引き金を引くがそのたびに錆びれた衝突音だけが鳴るだけだった。
「くそっ! くそっ!」
「不味いぞ……そろそろ陣の拘束時間が終わる」
2人がもたついているうちに固まっていた知恵の体が僅かながらに動きを取り戻していく。
「何故だ? メリーさんの時はちゃんと撃てたじゃないかっ!」
本来の力を発揮しないまま、渇いた音を出し続ける銀銃に苛立つ神保。
徐々に知恵の足元にある陣の光りが失せていく。
「……逃げるぞ神保」
「翡翠?」
「拘束が解ける。銀銃が撃てない以上俺達に勝ち目はない」
自分達の置かれている状況を冷静に見極めた翡翠が悔しそうに撤退の指示を出す。しかし神保はそれに従おうとはしなかった。
「いや、銀銃が無くても解決できるもう一つの方法を考えたよ……」
「もう一つの方法だと?」
自ら考えた案に自信が無いのか小さな声で神保が呟く。
「もう何秒も捕まえていられない。逃げるなら今なんだぞ?」
「解ってる! 何とかするから――」
意見が割れ、口論している間に陣の効力はどんどん薄れていく。
「ふふ、私を捕らえたところまでは見事だったわ。でもどうやら決定打が無いみたいね」
そして、とうとう光は消え失せて知恵が自由の身となってしまった。
「う~ん」
深い眠りから覚めたかのように知恵は体を大きく伸ばした後に両手を何度も握り感触を確かめる。
翡翠と神保はその様子をただ黙って見ているしか出来なかった。
「どうやら本当に体を動けなくするだけで他の効果とかは無いみたいね」
完全に陣の拘束から解き放たれた知恵だったが、まだ他に罠がないか警戒しているのか足元や自分の周辺を念入りに見渡し始める。
「どうするつもりなんだ神保?」
「……自首してもらうんだ」
「はっ!?」
突然素っ頓狂な案を言い出す神保に翡翠は口を大きく空けて驚く。
「お前何を馬鹿な事を――」
「なぁ知恵さん。少し話を聞いてくれないか?」
相方を無視して神保は銀銃を懐にしまい、敵意が無い事をアピールしてから知恵に向けて説得を始める。
「あらあら、人を不思議な術で縛り付けておいて今更お話しがしたいだんてつくづく失礼な人達ね」
「……すまない。だが君と話す為にまずは落ち着いて欲しかったんだ」
神保の見え見えの嘘に眉間に皺を寄せる知恵。
「色々と言いたい事はあるけどまぁいいわ。それで、お話って?」
「単刀直入に言って君に人間に戻って欲しい。人間として自首し、罪を償って欲しい」
「はぁ……? あなた馬鹿なんじゃないの」
知恵だけでなく端から話を聞く翡翠も苛々を募らせていく。
「人間として罪を償い、人間として世の中に帰ってきて欲しいんだ。人間から悪魔になれるのならその逆だって出来るだろう?」
「アッハハハハハハっ!!」
知恵は腹の底から神保をあざ笑う。
「神保ぉ! この馬鹿野ろ――」
我慢できずに翡翠が今までずっと握り続けていた右手で神保を殴ろうとした時。
「いいわ。あなたの提案にのってあげる」
「本当か!?」
「……莫迦な」
予想外の返答が知恵から返ってきたことに神保は安堵し、逆に翡翠は益々警戒をつよくした。
「私も正直こんな生活長続きしないと思ってた所なのよ。悪魔から人間に戻れるかどうか解らないけど、せめて心だけでも普通の人間の女に戻りたいわ」
そう言って知恵は握った両の手を合わせて前に出す。
「さぁ、手錠をかけて」
「ふざけるなこの悪魔っ!! 臭い芝居をしやがって」
物分りの良過ぎる相手の態度に思わず翡翠が叫ぶ。実際誰の目から見ても知恵の台詞はどこか演技じみていて茶番だと解る程だ。
しかし神保の性格を知っている翡翠は大げさに知恵への不審を煽るしかなかった。
「止せ翡翠。彼女は自首すると言ってるんだ」
「出会って数分。偽名しか名乗っていない女をどうしたらそこまで信用出来るんだよ」
「ちょっと、さっきからあなた何なのよ?」
相方を近づけまいとする翡翠の行動に不快感を示すように知恵が突っかかる。
両者が互いを睨み合った。
「あなたさっきから私を殺すことばかり考えているでしょう? 私は自首すると言っているのよ」
「悪魔の言う事など信用できるものか」
「言っておくけどあなたが少しでも不審な動きをすればその時点でこの話は無かった事にするからね」
その言葉を聞いて焦ったのは神保だった。
「ちょっと待ってくれ。今手錠をかけるから」
そう言って神保は腰のホルスターから黒い手錠を取り出し、翡翠の方を見て「大丈夫だから心配しないでくれ」と続ける。
翡翠は首を左右に振り、知恵に近づく事を警告したが神保は聞く耳を持たなかった。
「相手は悪魔だぞ!? それに一度グールになった人間が元に戻った話なんて聞いたことがない」
「誘引の陣も彼女には効かなかったし、きっとまだ人間らしさがどこかに残っているんだよ。いいか翡翠、動くなよ」
手錠を持ってゆっくり、ゆっくりと知恵に4歩近づく。チエは更に警戒心を解くためか目を瞑り両手を前に出したまま動かない。
「西園寺知恵……殺人の容疑であなたを逮捕する」
知恵の前に立った神保が手錠を嵌めようとしたその瞬間。
「フフッ。もう駄目。笑いを堪えられないわ」
目の前の知恵がくすくすと笑い始める。
「あなたって本当に馬鹿ね」
「避けろ神保!」
手錠が嵌められる前に知恵は両手を引っ込め、変わりに顎が外れるほど大きく開いた口を神保の胸元目掛けて突き出した。
「イタダキマス」
その言葉に戦慄した神保は咄嗟に動けなかった。
本能的な恐怖が全身を固めてしまったからだ。噛まれるとか怪我をするだとかの程度ではなく、千切られ抉られてここで自分は死ぬのだという恐怖を。
はっきりと死を意識した瞬間、周りの景色がスローモーションに回り始めた。
「う……ぁっ……」
無意識に口から小さな悲鳴がこぼれ、前歯の先端がスーツ越しの右胸に当たる。
猛獣に襲われるように、このまま噛み殺されてしまうと諦めた瞬間。
右から強い力で押された神保の体が左へ倒れこむ。
上半身が僅かに逸れた為、右胸を抉るはずだった知恵の攻撃は右上腕筋の外側をほんの少し齧り取っただけに終わる。
もちろん押し倒したのは翡翠だった。神保が知恵に近づいた時、自分の体が知恵の死角に入った瞬間から翡翠は走り出していたのだ。
覆いかぶさるように倒れこんだ翡翠は慌てて体を起こし、神保の容体を確認する。
「ぁあ……!」
僅かといえど肉体の一部を噛み千切られた神保は喰われた右腕を押さえながら激痛に耐える。
血が腕を伝い、指先からアスファルトに一滴一滴と静かに落ちていく。
一方知恵は殺すことには失敗したものの口で抉り取った神保の肉片をゆっくりとサイコロステーキでも食べるかのように舌の上で転がし堪能していた。
小さな肉片を奥歯で何度も噛み締め、その食感を十分に楽しんでから飲み込む。
人の肉を食べる瞬間というのはグールにとって至福の時間であり、神保の肉を食べた知恵も恍惚とした表情で溢れる幸福に身震いさせた。
「ああ……聡介さん!!」
まるで恋する乙女のような顔で知恵は地面に倒れこんでいる神保を見下ろす。
「あなたの体、とても美味しいわ! 今まで味わった事の無いほどに!!」
異常に興奮する目の前の悪魔の様子に翡翠は祖母の記録に残されていた一文を思い出していた。
1度食事を始めれば例え己が攻撃を受けても絶対に食べるのを止めようとはしない。
今、知恵は神保の肉体を飲み込んだ。
恐らくはこれから自分の空腹が満たされるまで、つまり神保をむさぼり喰うまでは仮にこの場から逃げたとしても執拗に追い続けてくるだろう。
「神保、立てるか?」
目の前の敵の動きを警戒しながら背後で倒れている神保に声をかける翡翠。
「ぐ……っ。へ、平気だ」
辛そうな顔をしながらも神保は何とか体を起こし、立ち上がった。 とりあえず一人でも動けそうな相方の様子に安心する翡翠。
「今度こそ、ここから逃げるぞ」
「……解った」
さすがに今度ばかりは神保も撤退に反対はせず、大人しく首を縦に振る。
「馬鹿ねぇ。逃がす訳無いじゃない」
そんな2人の会話を聞いていた知恵があざ笑いながら立ち塞がった。
ここから逃げ出すには2人が通ってきた狭い通路をもう一度抜けるしか方法は無いのだが、そうするには目の前の知恵を何とか抜き去らなければならない。
ただでさえ超人的な体を持つ知恵を何と躱さなければならない上にこちらは一人が負傷している。逃げるのならまず眼前の悪魔を何とかしなければならない事を翡翠はわかっていた。
「来るなら来て見ろ! 俺の陣の餌食にしてやるぞっ!」
強気な言葉で翡翠が怒鳴る。
しかし、知恵から見ればそれはもはやただの強がりにしか見えなかった。
「そう。じゃあ……遠慮なく行かせてもらうわねぇ!」
あらかじめ裏路地の壁や床にはもう何のまじないも仕掛けていない事を確認していた知恵は安心して2人目掛けて突っ込む。
「光の陣よ!」
「ハッタリでしょうっ!?」
知恵が叫んだ瞬間に翡翠は今の今までずっと固く握り続けていた右手を突き出し、開いて見せた。
翡翠の右の掌を見た瞬間、突如として知恵の両目に激痛が走り視界が暗転する。
あまりの痛みに両手で目を塞ぎ、獣のような叫び声を上げる知恵。
後ろからその光景を見ていた神保は一体今、何が起きたのかさっぱり解らなかった。
「目ぇえええっ! 私の目がぁああああっ!」
「今だ! 走れ神保」
呆然と苦しむ知恵の様子を見続ける神保を急かすように翡翠は叫んだ。
我に返った神保は翡翠の後に続くように知恵の横を走り抜け、狭い通路を通って商店街の大通りへと戻り出る。
「待って聡介さん! もっと食べさせて、もっと愛させて、私から逃げないで! 待てぇえええええええっ!」
背後の裏路地から絶叫が響く。
「構うな神保。一旦俺の家まで戻るぞ」
「あ、ああ。行こう」
「どこよ聡介さん……どこにいるのよ!? 私からは逃げられないわよどこまでも追いかけて必ず見つけ出しあなたの体を骨まで噛み砕いて――」
商店街の入り口まで走ってようやく知恵の叫び声は耳まで届かなくなった。右腕から血が流れ続けるおかげで途中多くの人に怪しい視線を送られたが、どうやら2人は逃げ果せることが出来たようだった。
たまたま通りがかったタクシーを広い、翡翠の屋敷まで急いで戻る。
道中2人は一切言葉を交わさなかった。
神保の様子を見て運転手が病院に行く事を勧めたが「いいからさっさと言われた場所に行け」と翡翠が怒鳴ってからは何も言わずに車を走らせ、10分もしないうちに屋敷へと続く長い石階段前へと到着する。
50段以上ある階段を2人は無言のまま上っていく。
屋敷前に着く頃には負傷している神保よりも翡翠の方が息を荒げていた。
「……あの、翡翠」
翡翠が門を開けようとした時、神保が後ろから気まずそうに声をかける。
無言で神保の方を向く翡翠。
「さっきは本当にすまな――」
言い終える前に翡翠の左手は神保の右頬を打っていた。
「覚悟は出来てたんじゃなかったのか?」
「すまな――」
今度は左手の甲で左頬を打つ。
「お前死ぬかもしれなかったんだぞ!!」
間髪いれずに両手で胸倉を掴まれ、神保は門に背中から叩きつけられる。
「確かに銀銃は不思議な武器だ! どうやって撃てるのか俺だって解らない。けどな、今回どうしてお前が銀銃を撃てなかったかは俺にも解るぜ!!」
翡翠の台詞に神保は返す言葉が無かった。
「被害者の無念を晴らすんじゃなかったのか? これ以上犠牲者を増やしたくないんじゃなかったのか!?」
戦闘中、神保に知恵を殺す気が無かったことに翡翠は何となく勘付いていた。人間そっくりとは書物に記されてあっても〝人間の姿そのまま〟に悪魔が出てくるとは思わなかったのだろう。
怯える神保が銃を構えた時、銃口が頭ではなく足を狙っていた事に翡翠は気付いていたのだ。
「あいつは悪魔に身を落とした者だ。人の法で裁こうなんて2度と考えるな」
荒っぽく両手を神保から離した翡翠が屋敷の門を開く。神保はただその場に呆然と立ち尽くしていた。
「入れよ。傷の治療してやる」
「すまない……」
小さい声で謝罪の言葉を漏らす。
今の神保には肉を抉られた右腕よりも翡翠に叩かれた両の頬の方がよっぽど痛かった。 屋敷に入ると翡翠は自分の部屋に神保を座らせて上着を脱がせ、傷の治療を始める。
押入れから薬箱を取り出して消毒液を少しずつガーゼに垂らして傷口に当てると痺れるような痛みに神保が顔をしかめた。
消毒を終えると翡翠は慣れない手つきで包帯を神保の腕に巻きつける。他人の怪我の治療など今まで行ったことは無かったがそれでも病院に行くわけには行かなかった。
理由は地下蔵で見たグールの特性のせいだ。
一口でも食事を口にすれば周りで何が起ころうと彼らはそれに夢中になる。
知恵はわずかながらも神保の肉を喰った。
食事を終えるまで、満腹になるまで食い尽くすまで本人が言った通りどこまでも追いかけてくるのだ。
病院などに連れて行って一般人を巻き込むわけにいかないと翡翠は考え、一緒に書物を読んだ神保もそれに気付いていた。
「痛いっ。そういえば翡翠……最後のアレはなんだったんだ?」
やっと痛みに慣れてきた神保はおもむろに口を開く。
「我慢しろ。アレって〝光の陣〟のことか?」
「ああ。君が手を開いた瞬間、急にグールが苦しみ出したように見えたが」
「別に何のことは無い。ただ強烈な光を悪魔に見せるまじないを掌に書いてただけだ」
そう言って翡翠は右手に描かれた黄色の陣を見せた。
「最初に悪魔用の餌を見せる幻覚の陣を用意したろ? あれの光り版だと思えばいい」
人間の神保の目からはただ知恵が苦しんでいるようにしか見えなかったが、悪魔の目には至近距離で強烈なスタングレネードが炸裂したように見えたのだろう。
「不意打ちは見事に決まったからな。あいつが回復して追ってくるまである程度の時間は稼げるだろう」
「これからどうする?」
心配そうに尋ねる神保に翡翠は少し考えて返答する。 「とりあえず今日連戦するのは戦力的にきつい。お前は負傷してる上に銀銃まで撃てないからな」
言葉が棘のように神保の胸に刺さる。翡翠の言い方はまるでいかに自分が足手まといになっているのかを自覚させるようだった。
「だからまずは追跡されないよう俺達の匂いを消すうえに悪魔の苦手な匂いを放つ香を焚いて日の出までやり過ごす。念のため屋敷の外にも焚いておく」
「解った。僕も手伝うよ」
「馬鹿、お前は寝てろ。怪我のせいで発熱もしてるんだから」
そう言って翡翠は押入れから布団一式を出すと床に敷いて半ば無理やりに神保を寝かせる。
「し、しかしこんな状況を作ってしまった僕がただ寝ているだけというのは……」
「そうだよ。はっきり言ってお前のせいで状況は最悪そのものだ。だから足手まといにこれ以上状況を悪化させられたくないんだよ」
魔除けの香を焚きながら翡翠ははっきりと辛辣な言葉を浴びせる。
こう言われると神保はもう何も言えなかった。
「ゆっくり寝てろよ神保。大丈夫、何とかなるさ」
最後に少しだけ優しい声色で呟いて、翡翠は自分の部屋を出て行く。
一人残された神保は天井を眺めながら自分の愚かさに辟易する。
ただ呆然としていても無意味だったので翡翠から言われた通り、少し寝て体力の回復に努める事にした。
ズボンのポケットから携帯を取り出してアラームを30分間だけセットする。
何故撃てなかったのだろう?
両目を閉じ自らに問いかけても答えは出ない。
熱と疲れのせいもあってか神保はそのまま意識を闇に落とす。
一方、部屋を出た翡翠は祖母の部屋の地下蔵に続く隠し階段を駆け下りていた。 それは知恵の秘密を探る為、グールの攻略法を再び確認する為にもう一度地下の書物を読む必要があると考えたからだ。
「確か……この棚に直したよな?」
知恵には誘引の陣が効かなかった。それどころか冷静に状況を見て偽の死体に気付いていたのだ。
自分はまだ何かグールについて知らないことがあるのだろうか。もしくは何か思い違いをしているのではなかろうか。
その疑問を解消する為に地下蔵に着いた翡翠は早速グールに関する情報が書かれた本のページを何度も見返す。
更に知恵の言動、行動、特徴を必死に思い出し本の情報と照らし合わせる。
誘引の陣は完全に効かなかった訳ではない。
陣の放つ匂いは確かに知恵の鼻に届いたからこそ翡翠達の前に現れたのだし、喰らい付きこそしなかったが幻覚自体は確かに悪魔の目に映っていたようだった。
「動きを封じる陣も確かに効いていた。何故幻覚だけは見破られたんだ?」
知恵に対する翡翠の抱える疑問はこれ以外にもまだあった。
祖母、蔵島翠が過去に戦ったグールは人間の肉を食すと腕が膨れ上がり常識外れの怪力を奮ったらしいが知恵にはそんな変化は現れなかった。
では……知恵の持つ特性とは何だ?
それが解ればグール『人喰い知恵ちゃん』との戦い方、攻略法の糸口を見つけられるかもしれない。
翡翠は頭の中で知恵が人肉を食べた瞬間、神保の肉を飲み込んだ映像を思い出す。
あの時、知恵に何か変化はあったか?
「いや、無かった……そんなものは」
冷静に状況を思い出しながら翡翠は自問自答する。
記憶の通りならあの時の知恵に外見的な変化は無かった。
では内面的な変化は?
「そんなもの解るもの……か」
頭の中に浮かんだ疑問の回答を拒否しようとした口が途中で止まる。適当に流そうとしたその問題が何故かとても重要な事に思えて仕方が無かったのだ。
あの時の知恵のリアクション。
「あいつ、あの時何て言ってたっけ? そう確か……」
頭の中で再生される知恵の台詞を一字一句間違わずに口に出す。
「ああ聡介さん。あなたの体とても美味しいわ。今まで味わった事のないほどに……」
小さく呟いた瞬間。翡翠の頭に稲妻が走るような感覚が襲い、先程の戦闘中の出来事が高速で脳内を駆け巡った。
低級悪魔のグール。
書物に書かれていない変化。
知恵が偽名を使っていたこと。
被害者の男性。
偽者だと見抜かれた幻覚。
そして西園寺知恵の持つ欲の正体。
頭の中でバラバラな情報が線と線で結ばれていく。
全てがつながった瞬間、翡翠は口の端を釣り上げて笑い、もう一度祖母の残した書物を見直す。
「流石はお婆ちゃんだ。ここに書かれてあることは何も間違っていない」
本を閉じ、棚に直すと翡翠は元来た階段を再び上がり始めた。
「間違ってたのは……俺の方だったんだな」
階段の往復を終えると翡翠は一度自分の部屋へと戻る。
襖を開けると先程までぶつぶつと五月蝿かった神保が寝息を立てていた。
「睡魔の陣。効果覿面だな」
穏やかに寝息をたてる神保の顔を見て翡翠が笑う。
先程押入れから出した布団一式の枕の中には翡翠が常日頃から愛用している熟睡効果のあるまじない陣が画かれた紙が入れられていたのだ。
翡翠は相方を起こさぬよう足音を消しながら部屋に入り、布団の横に雑に置かれてある自分の画材の入ったバッグと右腕部分の生地が齧りとられ神保の血が染みているスーツの上着を摘み上げる。
「悪いな神保。お前の服借りてくぞ」
上着を腕に抱えた時、翡翠は今までスーツの下に隠れていた銀銃を収めたホルスターを見つけた。
「行ってくるよお婆ちゃん……この馬鹿を、俺の友達を守ってあげてね」
誰にも聞こえないほど小さな声で銀銃に囁いた翡翠は静かに自室を出ると最後に台所に寄って刃がケースに収まった果物ナイフを腰に差して準備を終える。
玄関で靴を履き、門から外に出る。
石階段は下りずに屋敷を囲う外壁をぐるりと回って裏庭の森の中へと入って行く。
しばらく森の中を歩き、適当なところで足を止めてバッグからパレットと筆を取り出すと鬱葱と並び立つ木々に黄色の絵の具で誘引の陣を書いていく。
翡翠はここでもう一度知恵と戦うことを決意していた。
これ以上神保を危険な目に遭わせたくないと考えての行動をとった翡翠は単独での戦闘を心に決めたのだった。
銀銃は翡翠には撃てないので持って来てはいなかったが、それでも勝算はある為か不思議と翡翠は自身も意外なほど落ち着いている。
「来るなら来い……」
頭の中で思いついた知恵の攻略法を何度も反芻する。
今回の作戦には銀銃など必要なかった。
上手くいけば知恵は勝手に自滅していくからだ。
暗い森の闇の中、翡翠はじっと知恵を待った。




