2015年12月3日
2015年12月3日
風光明媚な観光地――そういう印象を抱く、平穏な土地だった。
田舎田舎した閉鎖的な環境を想像しながらの転居は、けれども思うより幾分も気安い住民達の、歓迎でも無い、胡散臭いものを見る目でもない、都会的な無関心に迎えられる。
それも当然か――数キロも行けば、私の地元なぞよりよほど高いビルが有るのだ。
仕事の都合で、この町に住む事になった。
初めは慣れ親しんだ土地を離れる事に悩みもしたが、もともと、縛るものの無い身軽な身分である。提示された給与の額面や、会社が持つ家賃の割合を聞いて、悩みはあっさりと晴れた。我ながら物欲に弱い。
私は、割合に吝嗇家の性質である。
市街地の賑わいを考えれば、その都会的な街並みに住む事を選んでもよかったが、男一人の生活ならば、さしたる物入りも有りはすまい。私にはむしろ、少々の家賃を削ることが関心事であった。
嵯峨崎市佳守地区桑船――
海の近いところで育った私には、懐かしい臭いのする町だ。
アパートの窓は東に向いていて、カーテンを開ければ目の前にある佳守の海は、朝には水平に刺さる光を鏡となって照り返し、夜には赤く遠ざかる光の最後の一掴みを捕らえて、闇に引き渡す。
そう――私の新たな住居は、海の際にある。波打ち際まで、ほんの数十m、嵐が大波を呼べば飛沫が窓を濡らす距離だ。
風に乗るのは、潮の香り。
耳に聞こえるのは海風と、にゃあ、にゃあと鳴くウミネコの声だ。
カモメとあまり面がまえは変わらないが、声のせいか妙に愛嬌のあるあいつらは、日の出から日暮れまで、ぐうるぐると桑船の町並みを見下ろし飛び回る。
外で弁当を食おうとした者が入れば、高空からすぅと降りて来はするが、あくまで近くを飛ぶばかりで、手から奪うまではいかない。
これがトンビだと――私の地元では、トビと言わずトンビと言う――女や子供ばかり狙って、手から食べ物を掻っ攫う。
脱線した。
ともかく、そういう町に、私は越してきたのである。
さして荷も多くは無いが、解くにはまた一苦労の事ゆえ、今日は眠ろうかと思うたが、こうして日記を書いている。
何故かと言えば、珍しいものを見たからだ。
二十二時ごろ、毛布を肩に掛けて椅子に座り、手元の漫画本に目を落としていた所、窓の外から、波の音に混じってなにやら艶めかしい声が聞こえた。
これが喧嘩腰の叫びなどであれば見向きもしなかったのであろうが、うわずり、高く低く抑揚付けて、言葉と鳥鳴きの間の音を、しんと静まった夜に歌う、女の声だった。
私は部屋の灯を消し、それからカーテンの端を20cmばかり開いて、外を見た。
夜の霧に、星灯、波灯。照らし出された女の姿が、遠目に見えた。
女は全くの裸形で水に戯れていた。骨の細い、肉付きも薄い、だが成人とは分かる程に丸みを帯びた肉体を、隠す端切れの一つも無く、ただ、波のシルク、夜風のヴェール、己の艶声で化粧をして、舞うカルメンのようであった。
あの細身の何処に、これだけの躍動感を秘めたか――女は良く馳せて、跳んだ。
ぱちゃん、ぱしゃん、じゃっと跳ねて、ばしゃっと水が弾けて粒になって、女の顔まで跳ねて、紅を差したような頬を伝って海へ返る。
女の唇から立ち上る白霧は、外気の温度を如実に示していたが、女は鳥肌の一つも立てる事なく、海に遊ぶのだ。
肉感的とは言えない女の体が、水を蹴立てて無邪気に走り、転んではそれも楽し気に立ち上がる様を覗き見ながら、然し浮気性の私は、別な奇妙に目を奪われた
もう一つ、波の中に白い肌を見たのである。
やはり、女だった。
遊び踊る女より、十数mも向こう、より深いところに漂うそれは、やはり裸形である事はあるのだが――少し、趣が違う。こちらの女は胸も豊かに、二の腕もこう、太いとは言わぬが柔らかそうに、けれどもすうっとした首や顎周りの線からして太っているとはとても言えない、悪く言うなら男の目を奪う女であった。唇はふっくらと、目はちょうど晴れた今宵の空から星を取って来て瞳に取り込んだようで、低めの鼻が寧ろ子供っぽい愛らしさをも見せながら、肉体の全てが醸す色は、盛りの花の薄紅であった。
これが街の中で、胸元の開いたスーツなど着ていたなら、擦れ違った私は振り返り、彼女の行く先を目で追い掛けたのだろう。だが、海の中に在る彼女は、そういう卑俗な色香を纏うものではない。
あれは、私の為にある女ではないし、他のどのような男や、女の為にある女ではないのだ――此処まで明確な文章としてではないが、その時の私は、そんな事を思ったような気がする。
裸形の舞い手は、猫が夜にするような鳴き方をして、海に入って行く。
波の中の女は、海に入って来た女を両手でしっかりと抱きしめて――
どぼん。
海の中へ、消えてしまった。
その時に私は、あの、男なら誰しもが目を留めざるを得ない魅力的な体の、腰から下を、波の下に垣間見た。
大きな、鯉や鮒のような、だが翡翠の如き眩い鱗を煌めかせる、魚の姿であった。
――と、ここで一度息を付き、思う。
成程、道理で私を指名で、この街へ赴任させた訳であるのか、などと。
全く意地の悪い上司達ではあるが、さりとて赴任手当の大きさを鑑みれば、今からとんぼ返りをしようという気にも慣れず、私はこうして日記を――これまでには無かった習慣を始めている。
来年、私がこの街を離れるまでに、さて私の日記帳は、どれだけの怪異を書き束ねる事になるかと思えば、些かに寒気のする思いでもあるが――
兎に角、私はこうして、嵯峨崎市に越してきたのである。
追記:24時過ぎ(?)
眠いので、簡単に書く。
海の方から声がしたので、目が醒めた。
やっぱり死にたくない、いやだ、助けて、いやだ、やだ、や、ぎゃああ、ぎゃああ、にゃああ、にゃあ、にゃあ、にゃあ。
あの、夜の中に踊った、痩せた女の声だった。
時計を見て、まだ7時間以上眠れるなと思ったので、これだけ書き足して、眠る事にする。
電気毛布が暖かい。