影は、こちらを見ていただけだった
遺跡を離れて半日。
「……静かすぎない?」
フィンが言った。
「言わないでください」
セラが即座に返す。
「こういう時、だいたい来ます」
「経験談?」
「経験談です」
軽口は戻ってきていた。
でも、空気は軽くない。
谷を越えたところで、違和感が走る。
「……止まって」
彼が言う。
全員が足を止めた。
「何かいる?」
マレーネが欠伸混じりに聞く。
「いる」
即答だった。
「でも、敵意は……」
言葉に詰まる。
「……ない?」
「は?」
フィンが眉をひそめる。
「それ、逆に怖い」
「同意」
セラが頷く。
次の瞬間。
空気が、沈んだ。
重力が増したみたいに、息が重い。
「……魔力、濃い」
マレーネが珍しく真面目な声を出す。
「しかも、洗練されすぎ」
谷の向こう。
人影が、一つ。
距離はある。
攻撃は、届かない。
でも――
見られている。
「……敵?」
フィンが小さく聞く。
「……魔王軍幹部、でしょうね」
セラの声は、落ち着いていた。
「でも、戦う気はない」
「なんでわかる?」
「視線です」
彼女は、彼を見た。
「あなたと、同じ」
胸が、嫌な音を立てた。
影の人物が、手を上げた。
攻撃の構えじゃない。
――挨拶。
「……ふざけてる」
フィンが呟く。
次の瞬間、声が響いた。
『――まだ、早い』
直接じゃない。
頭の奥に、滑り込む声。
彼の背中が、冷たくなる。
『勇者よ』
その呼び方。
違和感。
「……違う」
思わず、口から漏れた。
『そうだな』
影が、少し笑った気配がした。
『――王よ』
心臓が、跳ねた。
「……っ!」
セラが、彼の腕を掴む。
「聞こえました?」
「……聞こえた」
「何て?」
答えられなかった。
影は、それ以上何もせず――
消えた。
まるで、最初から存在しなかったかのように。
沈黙。
「……今の」
フィンが言う。
「やばいよな」
「やばいです」
セラが即答した。
「でも」
彼女は、彼を見る。
「あなた、立ってました」
「……当たり前だろ」
「違います」
少し、声を落とす。
「普通は、跪きます」
その言葉に、マレーネが目を細めた。
「……確かに」
「勇者なのに?」
「勇者だから、かもね」
誰も、笑わなかった。
夜。
焚き火の前。
「ねえ」
セラが言った。
「さっき、何て呼ばれました?」
彼は、少し迷った。
「……勇者」
「それだけ?」
「……」
黙った。
セラは、ため息をつく。
「隠し事、下手ですね」
「努力はしてる」
「方向が違います」
でも、怒ってはいなかった。
「全部じゃなくていいです」
視線を合わせる。
「でも、一つだけ」
「何だ」
「“戻りたい”ですか?」
彼は、答えた。
「……戻りたくない」
「即答ですね」
「即答だ」
セラは、少しだけ笑った。
「なら」
軽口に戻る。
「今のまま、前に進みましょう」
「雑じゃない?」
「現実的です」
「それ、褒めていい?」
「褒めてください」
小さく、笑い合う。
でも、その背後で。
運命は、もう動き始めていた。




