◆第九章 信州上田合戦 後編
新月の闇が、城の輪郭を飲み込んでいた。
風は止み、音なき夜が訪れる。
大きな痛手を受けた徳川軍は、一旦兵を引き、負傷者のうめき声だけが陣中に響いていた。陣幕内では誰も声を発せず重苦しい空気が漂っている。
重苦しい空気が漂う本陣とは別に、柳生宗厳の姿は陣外れの暗がりにあった。
「行け」
宗厳の短く低い命を受け、大和柳生庄から呼び寄せた精鋭四名が、音もなく上田城の方角へ消えて行った。
率いるのは宗厳の甥で、柳生新陰流の使い手でもある柳生主馬。当初の狙いは真田昌幸の首であったが、ここに来て宗厳は標的を変えた。
「次男、信繁の首でも構わぬ」
その言葉に、主馬は密かに口元を歪めた。
「成功の暁には、家康様に推挙し、それなりの知行を約束しよう」
忍び働きなど、影の仕事には飽き飽きしていた。汚れ仕事の手柄はいつも叔父の宗厳のもの。いつか自分も、陽の当たる場所で侍として名を上げたい。主馬は声なき笑いを噛み殺しながら闇へと溶けていった。
昼間の戦勝で、上田城内の士気は高かった。要所には煌々と松明が焚かれ、見張りの兵も目を光らせている。だが、光が強ければ影もまた濃くなる。その影のスキを縫うように、柳生の手の者は搦手から二手に分かれ、城内へと侵入を果たしていた。
「忍びの夜討ちに警戒を」
忍びである幸村の忠告もあり、信繁は自ら見回りを強化していた。
二人が城内を巡回する中、南西の物見櫓の下で、体を硬直させながらあたりを見渡している若い兵がいた。
年の頃は信繁とそう変わらない。小柄な足軽で、名を高野小平太といった。兄・信幸の部隊に配属されたばかりで、この戦が初陣だという。幼い頃の病の痕か、顔の右半分が大きな紫色の痣で覆われていた。
「小平太。そんなに気負っていたら朝まで持たぬぞ。」
「あ、信繫様!有難うございます。」
何度もお辞儀を繰り返す律儀な小平太に、信繁と幸村は顔を見合わせ、苦笑した。
そのまま二人は、南東の物見櫓まで歩を進めた。その時、ふと、幸村の足が止まった。信繁も肌に粟立つものを感じた。虫の音が、消えている。
(信繁様、お気をつけて。)
幸村が目で合図を送る。
物見櫓の上には見張り役がいない。ゆっくり近づくと、櫓の陰で味方の兵が二人、すでに事切れていた。外傷はない。だが、口元からわずかに泡を吹いている。毒か。
ヒュッ。
完全な静寂の中、空気を切り裂く微かな音。
信繁が瞬時に身を捻ると、鼻先数寸の場所を何かが走り抜け、背後の柱に突き刺さった。矢先に黄色い粘液が塗られた毒矢である。
不意に近くの篝火が蹴り倒され、完全な闇が辺りを包み込んだ。
「信繁か。思わぬ大物が掛かったわ」
闇の奥から、嘲るような声が響く。
「隣にいる小僧は……その身のこなし、草か。戸隠の者だな」
信繁と幸村は互いに背中を合わせ、腰を低くして構えた。目は開けていても役に立たない。風の動き、殺気の揺らぎを読むしかない。
一瞬の淀みを感じ取り、幸村が苦無で受け止めた。火花が散り、闇の中に主馬の顔が一瞬浮かび上がる。
「さすがは戸隠、勘が良い」
力と力の押し合いが続く中、手練れの主馬は巧みに幸村を信繁から引き剥がしていく。幸村は必死で踏みとどまろうとするが、主馬の剣撃を受け流すので手一杯であった。
孤立した信繁に対し、もう一人の気配が背後から迫る。
信繁は全神経を耳に集中させた。衣擦れの音、踏み込みの振動。
(……そこだ!)
襲い来る一撃を紙一重で躱し、返す体で短槍を突き出した。手ごたえあり。槍の穂先が忍びの胴を貫いた感触が掌に伝わる。
「ぐっ……!?」
小さく鈍い声と共に、忍びが崩れ落ちる。
相棒がやられた気配を察し、主馬は驚愕した。闇夜の奇襲において、忍びが一介の侍に後れを取るなどありえぬことだ。
その一瞬の動揺を、幸村は見逃さなかった。全霊を込め、体当たりで主馬を弾き飛ばす。
闇が覆う中、主馬は信繁に狙いを定めた。主馬の目は、欲に濁っていた。不遇の身から抜け出すため、今夜にすべてを賭けていた。
(この首さえ取れば、俺は侍に……!)
そのわずかな気の乱れが隙となった。背後から一直線に信繁に駆け寄る主馬。だが、高く振り上げられた刀が、振り下ろされる事はなかった。
ごろっ。
地面に転がったのは、主馬の右腕。刀はなお強く握られたまま、信繁の足元に沈黙していた。幸村の一撃がわずかに勝ったのだ。
「むう、ぬかったわ!」
主馬は傷口を押さえ、闇へと飛び退いた。片腕を失った忍びにもはや未来はない。だが、主馬は痛みに顔を歪めながらも、暗い笑みを浮かべていた。
「だが、この間に別の我が手の者が、すでに昌幸を冥途へ案内している頃だろう」
昌幸を亡き者にできたのなら、この先忍働きの必要はない。晴れて侍に取り立てられる。
不気味な笑い声と共に主馬は闇の中へと消えていった。
騒ぎを聞きつけた兵たちが駆け付け、再び篝火が焚かれた。いたるところに倒れている城兵の屍が被害の大きさを物語っていた。
信繁の元に近寄った幸村は、怪我が無いか心配そうに身体を改めた。毒矢でもかすめてようものなら大事である。
「ありがとう、大丈夫だ。」
焚かれたかがり火に照らされた信繁の顔に、柳生の者の黒い返り血がべっとりと付着していた。
「これは…柳生の墨」
幸村は、柳生の者がいまわの際に相手に墨を浴びせる事で、仲間に敵を知らせると聞いたことがあった。特殊な墨で洗っても数日は落ちないという。
「それより、父上が心配だ」
主馬の言葉が脳裏をよぎる。
二人は急ぎ南西の曲輪へと戻ったところ、そこには柳生の忍びらしき二名が折り重なるように倒れ絶命していた。
丁度その時、昌幸と信幸、内記も供回りを従え、慌ただしく駆けつけてきた。
「父上、兄上!ご無事で何よりです。」
あちこちに倒れている味方の兵たちを見て、昌幸は表情を曇らせた。
「相当やられたようだな。」
事前に夜襲を警戒していながら被害を出してしまったことに、昌幸の表情には後悔の念が浮かんでいた。だが、足元に転がる黒装束の死体を見て呟いた。
「……これほどの手練れの者を、一体だれが仕留めたというのじゃ?」
信幸が、近くの物陰で震えている小柄な影を見つけた。
「小平太! 無事か!」
信幸の声に、小平太がおずおずと歩み寄ってくる。顔色は青く、ガタガタと震えていた。
「は、はい……用を足しに行っている間に悲鳴が聞こえ、怖くて隠れておりました……」
「そうか、無事でよかった」
信幸は心底安堵した様子で、小平太の肩を抱いた。
だが、幸村だけは違っていた。
じっと、切り捨てられた柳生の者を見つめている。手練れの柳生の精鋭二名を、あの暗闇の中で、迷いのない一刀のもとに斬り捨てている。
傷口は鋭利で、躊躇いがない。並大抵の使い手ではない。信幸配下の一兵卒に、これほどの芸当ができる者がいるはずがない。
(いったい誰が……)
その幸村の背中を遠くから見つめる目。篝火に照らされた小平太の顔右半分の紫の痣が、どす黒く光っていた。
翌日徳川軍は撤退を開始した。
◆第十章 「豊臣秀吉という男」に続く




