◆第八章 信州上田合戦 前編
真田家四男・喜兵衛(後の昌幸)は武田信玄のもとへ人質として送られ、その才を見抜かれて武藤家を継ぎ、側近として成長する。川中島の戦いで上杉政虎(後の謙信)の白馬の突撃を目撃し、その素顔が“女”であるという衝撃の秘密を知る。戦後、角間温泉で再び政虎と遭遇し、互いに言葉を交わさぬまま深い因縁を刻む。五年後、上杉家重臣・斎藤朝信が謎の赤子を喜兵衛に託し、喜兵衛は政虎の面影を感じ、その子を自らの子として育てる決意を固める。
やがて信長の死を機に謙信は上洛し、七尾城・手取川で織田軍を破るが急逝。越後は揺れ、真田・武田・徳川・北条の思惑が複雑に絡む中、春日山に預けられた信繁は景勝・兼続のもとで武芸を磨き、初陣の時を迎える。徳川家康は秀吉への対抗を図りつつ真田排除を画策し、上田へ侵攻。信繁は上杉援軍の一員として、父と兄を救うべく信州へ向かう。
神川の水面が、朝の光を受けて静かに揺れていた。だがその静けさは、嵐の前の息遣いにすぎなかった。
徳川軍七千。鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉。名だたる将が上田城の前に陣を構えた。陣幕の中で地図の上に指を滑らせる忠世が、鼻で笑った。
「敵は所詮小勢。城を囲み、押し潰せばよい」
その言葉に、元忠は眉をひそめた。武田家に属していた地方の豪族、その程度の認識しかなかった忠世は聞く耳を持たず、兵力差に慢心し総攻めを命じた。
その陣幕の隅に、ひとり異質な気配があった。柳生宗厳。剣を帯びず、ただ座している。目を閉じ、風の音に耳を澄ませていた。
上田城の奥。
昌幸の前に久しぶりに信繁と信幸が揃った。
信繁は甲冑を纏い、幼さが消え、目には炎が宿っていた。昌幸は信繁の成長に驚き、兄信幸は目を輝かせていた。
「信繁、お前はここで敵に仕掛けるのじゃ。頃合いを見て負けたふりをして退散せよ。そのまま城内まで引っ張りこみ、信幸はここで敵を向かい討て。」
敵を城の奥深くまで誘い込み、地の利を活かし、敵を殲滅する作戦だ。二人の呼吸が合ってこそ成功する。兄弟は目を見て頷き合った。
徳川軍が動いた。手前に流れる神川を渡り攻め寄せてくる。
そこに大槍を携えた馬上の信繁を先頭に、六文銭の旗印を掲げた赤備えの百騎が突入してくる。側面を突かれた徳川軍は一瞬動揺したが、小勢の真田軍は次第に押し返されていく。
「所詮、用兵を知らぬ田舎侍たちよ、構わぬ総攻めじゃ。」
逃げる信繁らを追いかけ徳川軍は城門へと殺到する。信繁らを受け入れた門は開かれたままだ。
「締められる前に突入せよ」
徳川の兵は奥へ奥へと進むが、追っていた信繁らの姿は見当たらない。進むほどに通路は狭まり、槍の穂先が味方の肩をかすめる。密集した陣形は、まるで獣の腹に入り込んだ獲物のように身動きを失っていく。
その瞬間、屋根の上から鉄砲と矢が降り注いだ。塀の穴から無数の槍が突き出され次々と倒れ込む徳川兵。後ろから来る味方の兵で戻るにもかなわず、さらに屍を重ねていく。
這う這うの体で逃げ惑う徳川兵は、途中の城門も閉ざされ袋小路に。城壁から落とされる岩や熱湯、城は罠で満ち、まるで生き物のように敵を噛み砕いた。
櫓の上から指揮をしていたのは兄信幸であった。
「首は捨て置け、敵を逃がすな!」
城内から我先にと逃げ出る徳川軍を見て、内記は驚いた。
若い頃、旧主信玄の前で見せた模擬戦での信幸とは大違いであった。興奮する内記の隣で信繁は特に驚いている様子はなかった。
兄はいつも弟を立て一歩引いて周りを見渡すが、その内面に秘めた父譲りの用兵の才能は信繁が良く知っていた。
「何をしておるのか!」
苛立った大久保忠世は、軍配を叩きつけ、新手を送り込む。その指示が裏目に出る。城の大手通りで引き返す兵と、新手の兵が重なったところを、逃げ散ったはずの信繁率いる百騎に襲撃され大混乱に。
大柄の信繁は縦横無尽に暴れ、徳川の兵をなぎ倒していく。
敵ながら惚れ惚れする活躍ぶりに、鳥居元忠は息をのんだ。信繁の一隊は徳川軍を追い立てるが、神川の渡河地点付近で急に踵を返した。
「水が少なくて助かった。」
次々と川を渡る徳川軍。
「いかん!戻れ!」
元忠が叫ぶのと同時に、轟音が山を裂き、神川の上流から奔流が押し寄せた。
水、土砂、倒木、すべてが一つの牙となって、徳川軍を呑み込んでいく。目の前で多くの兵や馬が流されていく様を、ただただ見ているしかなかった。
その奥で、信繁が鬨の声を上げていた。
「ふざけよって。新手を」
いきり立つ忠世に静かに首を振る元忠。元忠の視線の先には、少し離れた場所に陣取る「毘」の旗がたなびく一団。後詰で控える上杉軍が手薄になった本陣を急襲せんとも限らなかった。負傷者の手当てを優先するべきとする元忠の意見に、忠世は従うしかなかった。
「しかし、いったい何者だ、あれは。」
「真田の次男坊、源次郎信繁です。」
誰かの問いに、柳生宗厳が静かに答えた。
◆第九章 「信州上田合戦 後編」 に続く




