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◆第七章 信繁出陣す

武田信玄のもとへ人質として送られた真田家の四男・喜兵衛は、その才を見抜かれ武藤家を継ぎ、信玄の側近として成長する。川中島で上杉政虎(後の謙信)の白馬の突撃を目の当たりにし、その素顔が“女”であるという衝撃の秘密を知る。戦後、角間温泉で再び政虎と遭遇し、互いに言葉を交わさぬまま深い因縁を刻む。


五年後、上杉家重臣・斎藤朝信が謎の赤子を抱えて喜兵衛を訪ね、「預ける」とだけ告げて去る。赤子の寝顔に政虎の面影を感じた喜兵衛は、その子を自らの子として育てる決意を固める。やがて信長の死を機に、謙信は将軍義昭の檄文に応じて上洛を開始。七尾城を平定し、手取川で織田軍を圧倒するが、その絶頂の直後に急逝する。


謙信の死は越後を揺るがし、真田・武田・徳川・北条の思惑が複雑に絡み合う。春日山に預けられた信繁は、景勝や兼続のもとで武芸を磨き、ついに初陣の時を迎える。父・昌幸からの援軍要請、徳川軍の上田侵攻――。


若き信繁が、ついに“戦場”へ踏み出す。

そしてその影で、静かに蠢く者たちがいた。

 天正十二年、浜松城。


 春の夜風が石垣を撫で、月は雲に隠れ、城内は不気味なほど静まり返っていた。

 人払いされた奥の間には、三人の男が向かい合っている。


 徳川家康、本多正信、柳生宗厳。


 囲炉裏の火は弱く、揺れる灯が三人の影を歪ませていた。

 家康は青白い顔で宙を見つめ、痩せた肩がわずかに震えている。

 幼い頃からの癖――焦りが募ると、指先を噛む。

 赤く腫れた指が、家康の苛立ちを雄弁に物語っていた。


「あの猿めが、調子に乗りよって…」


 低く吐き捨てるような声。

 猿とは、もちろん羽柴秀吉のことだ。


 宗厳は平伏し、正信はひょうひょうと酒を口に運んでいる。


「人質をよこせ、とは随分乱暴な話ですな」


 本多正信。かつて家康を裏切り、敵対した過去。それでも、今は何事もなかったかのように、家康の傍にいる肝の据わった男である。


 武田信玄、上杉謙信、家康の背後を脅かしてきた戦国きっての両雄が相次いでこの世を去り、家康は長年かけて明智光秀を調略し、信長を討たせることに成功した。そして忠義の鉄槌は信長の同盟者たる自分が振るうはずであった。だが計画が狂った。あっという間に秀吉が光秀を討ってしまったのである。


 光秀を討つまでの速さ。中国大返しの異常な行軍。家康は秀吉の「強運」と悔しがったが、正信は違う考えを持っていた。すべてを知った上で利用されたのだと。そして光秀の背後に家康がいたことも、秀吉は見抜いていたと考えてよいだろう。秀吉の情報網がこの強固な徳川家臣団の中にも紛れ込んでいると見て間違いない。


 さらに、後継者争いで激化する織田家中の内紛は長引くと考えていた家康は、混乱に乗じて武田旧領の切り取りを急いだが、ここでも秀吉は家康の想像を上回る。織田家筆頭家老であった柴田勝家を破り勝家は北庄城にて自害、瞬く間に織田家一の実力者の座を掴みとった。


 信長の次男織田信雄は、信長の孫にあたる幼少の三法師を推す秀吉と対立する。ここで断れば天下は秀吉の元に転がり込むと意を決し、信雄からの誘いに応じ家康は立ち上がった。


「秀吉の勢いはあなどれませんぞ。」


 秀吉との直接対決に徳川譜代の重臣達は高揚する中、慎重論を唱えるのは、家康の片腕として支え続けてきた石川数正のみであった。本多正信はその様子を冷静に観察していた。


 そして直接対決となった小牧・長久手では、数に勝る秀吉軍を家康は破った。

「戦場では猿とは経験が違う」珍しく饒舌になった家康だった。


 信雄・家康陣営が優位に戦局を進めていた矢先、信雄が秀吉の口車に乗せられ講和へと舵を切った。


「信雄め。欲に目がくらみよって」


 大義名分を失った家康も応じざるを得なくなった。


 だが東国五ヶ国を押さえ、未だ秀吉への臣従を拒み続ける同盟相手北条との領地を合わせると、まだ秀吉と対抗できるだけの力は保持していた。


 そんな中で勃発した北条と真田との領地争い。一人でも味方が欲しいところではあったが、北条を敵に回すわけにはいかない。秀吉との対決を控え、戦力の消耗も避けたい。そこで家康は宗厳に命じ、真田昌幸の暗殺と真田領の攪乱を命じた。だが送られた柳生の者は、誰一人として帰ってこなかった。


「申し訳……ございませぬ。次こそは……」


 宗厳は深く頭を垂れた。正信が杯を置き、静かに言う。


「北条を納得させ、真田を排除する。目の上のたん瘤を取り除かねば、あの猿と向き合えませぬ」


 家康は、盆栽の枝を折った。その音が、密談の終わりを告げるように響いた。

 浜松城の空は、黒く沈み、何かが蠢いているようだった。



 春日山城。


 朝の空気は澄み渡り、まだ雪の残る山々が遠くに霞んでいた。

 城の一角、稽古場では、槍の音が鋭く響いていた。


「そこ、甘いぞ!」


 直江兼続の声が飛ぶ。

 文武に秀で、上杉景勝の右腕と称される男の指導は容赦がない。


 信信繁は額に汗を浮かべ、必死に槍を構え直した。何度も打ち込まれ、何度も受け返す。あまりの厳しさに、高梨内記は見ていられず何度も目をそらした。だが、冬の鍛錬が春の芽吹きへと変わるように、信繁の動きには確かな力が宿り始めていた。


「精が出るな」


 その声に振り返ると、上杉景勝と斎藤朝信が稽古場の縁に立っていた。


「景勝様、朝信様!」


 信繁は槍を下ろし、礼を取った。

 信繁は、真田家と上杉家の盟約の証として、春日山城に預けられていた。 人質とは名ばかりで、客将として破格の待遇。景勝も朝信も、信繁を家族のように遇し、信繁もまた二人に深く懐いていた。


「兄上は、もう初陣を済ませたと聞きました」


 信繁の声には、焦りが滲んでいた。


 信長の死後、信州・上野は徳川・北条・真田・上杉が入り乱れ、昌幸と信幸は北条との戦に明け暮れている。兄が戦場で名を上げる中、自分はまだ稽古場にいる、その思いが胸を締めつけていた。


「そう焦らずとも良い。戦は無い方が幸せなのだ」


 景勝の言葉は、静かに胸に響いた。


「……でも、やはり、真田のために戦いたいのです」


 唇を尖らせる信繁に、景勝は微笑んだ。


「間もなく、お主にも出番が来よう」


 優しく見つめる景勝のその目は、何かを見通しているようだった。


「で、与六。源次郎の腕前の方はどうじゃ。」


 幼馴染であった二人。景勝は、気遣いの無い親しい間柄の者だけの場合、兼続の事を幼名の与六と呼ぶ。


「殿は足元にも及ばぬ腕前にて候。」


「“殿の”の言い間違いではないのか?」


 景勝の隣で声を上げて笑う朝信。信繁も、釣られるように笑った。


「怪我をせぬようにな。」


 そういって二人は稽古場を後にした。


「謙信様に、そっくりですね。特に笑ったところが」


 朝信の言葉に、景勝は目を細めた。


 数日後。


 春日山城に、急使が駆け込んだ。

 真田昌幸からの援軍要請。徳川軍が上田城へ大挙して押し寄せたという。景勝は、すぐに重臣たちを集め軍議を開き、須田満親を総大将とする援軍の派遣を決めた。出立は翌朝と定められた。


 その夜景勝は、信繁を呼び寄せた。

 上杉景勝、斎藤朝信、直江兼続、須田満親、そして信繁と内記。事の次第を聞いた信繁は、今すぐにでもここを飛び出して、父や兄の元に駆け付けたい、そう願い出た。焦る信繁の気持ちを察しながら、「戦は準備がすべてだ。焦りは命取りになる。」そう諭した。

 景勝と須田満親はそのやりとりを頼もしく見つめていた。


「これへ」


 景勝の合図で襖が開き、真新しい鎧が運ばれてきた。

 赤漆の胴に黒の縅が映え、兜の前立には真田家の六文銭が輝いている。初陣の祝いに景勝が用意させたものだ。


 見たこともない赤の鎧に驚く信繁。その横で内記は口を開けて固まっていた。


「それと。」


 景勝はさらに目で合図を送ると、鎧の横で控えていた女中が信繁の前に出て跪き、伏し目がちに声を上げた。


幸村ゆきむらにございます。」


 朝信が信繁の横に歩み寄る。


「年は若いが凛に負けず劣らず優秀な忍びだ。連れていくがよい。」


 恐縮しているのか、少し震えているようにも見えた。


「有難き幸せ。」


 信繁は優しい笑顔を向け、幸村は慌てて目線を落とした。



 明朝、春日山城の門前には、黒装束に「毘」の旗が風にたなびく上杉の軍勢が整然と並んでいた。

 信繁は拝領した六文銭の赤備えに身を包み、やや緊張し気味に馬上で深く息を吸った。


「戦場まではまだ相当先だぞ。」と、豪快に笑い飛ばす須田満親に背中をはたかれ、馬から落ちそうになる信繁。


 馬上から信州の方角を見つめながら、その瞳には、決意と希望が宿っていた。


「若、いよいよですね」


 内記の言葉に信繁は頷いた。そばには若武者の姿に身を包んだ幸村の姿も。


「いざ、出発!」


 須田満親の掛け声に、大きな歓声が沸き上がる。


 春日山の空は晴れていた。 若き武者達の初陣を祝うように、風が旗を揺らしていた。



 ◆第八章「信州上田合戦 前編」 に続く


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