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◆第五章 謙信上洛す

【これまでのあらすじ】

武田信玄のもとに人質として送られた真田家の四男・喜兵衛は、その才を見抜かれ武藤家を継ぎ、若くして信玄の側近として頭角を現す。川中島の戦いでは、上杉政虎(後の謙信)の白馬の突撃を目の当たりにし、その素顔が“女”であるという衝撃の秘密を知る。戦後、角間温泉で再び政虎と遭遇し、互いに言葉を交わさぬまま深い因縁を刻む。

五年後、上杉家重臣・斎藤朝信が謎の赤子を抱え、喜兵衛のもとを訪れる。「預ける」とだけ告げて去った朝信の背に、政虎の影を感じた喜兵衛は、その赤子を自らの子として育てる決意を固める。赤子の正体、政虎の秘密、信玄無き武田、そして密かに蠢く徳川の触手。真田家を継いだ喜兵衛は昌幸と名乗りこの大海に漕ぎ出してゆく。

 夜の浜松城。 城壁を月明かりが青く照らしている。 奥の間では、徳川家康が盆栽に手を添えながら、静かに耳を傾けていた。 背後の壁には、三つ葉葵の家紋が淡く浮かんでいた。


「上杉が動きます。」


 そう告げたのは、大和柳生家の棟梁、柳生宗厳。 家康は盆栽の枝を折り、形を整えながら答える。


「では手筈通り、次は松永を背かせ、信長の背後を。」


 その声には、普段家臣には見せぬ冷たい響きがあった。


 枝が折れる音と共に口元にわずかな笑みを浮かべながら、家康は呟く。


「まだ徳川には力がない。伸びた枝を折り続けて時を待つ。三好と将軍義輝……今度は信長と上杉。うまく共倒れになってくれればな。」


 月が雲に隠れようとしていた。 その夜の静けさは、嵐の前の予兆だった。


 謙信の元に将軍足利義昭からの檄文が届いたのは、まだ雪の残る早春のことだった。 織田信長の専横に耐えかねた義昭は、ついに諸国の大名に向けて「朝敵討伐」の命を発した。 だが、京を掌握した信長の勢力はあまりに強大で、誰もがその檄に沈黙した。 


「行かざるをえまい。」


 朝信は、さして驚かなかった。

 謙信の判断は、常に「義」はどこかによってなされる。

 今までも、西は越前、北は庄内、東は上野、南は相模へと義の戦いを重ねてきた。

 その謙信が、将軍の要請を断ることはない。

 ただ、敵は今までにないほど強大だった。負ければ上杉家存亡の危機に陥る。

 だが、謙信の目には、上杉の家の未来など映っていない。


 上杉軍の進軍が始まると、沿道の村々は歓喜に包まれた。

 軍勢を見送る民たちの笑顔、声援。

「これも持っていきんさい」と菓子や干物を差し出してくれる者もいた。

 その姿に、朝信は胸を打たれた。


(この者たちの平和と日常を守るために、我らは戦い続けるのだ。)


 上杉軍の隊列は整然としていた。 黒装束に身を包み、「毘」と「義」の旗が風にたなびく。その黒の軍団の中で一人白の法衣を身にまとった謙信を見て、手を合わせる者、涙を流すもの、まるで神仏の行列のような威厳を放ち、民の希望そのものとなっていた。


「謙信、上洛す。」


 この報せは、織田軍を震撼させた。まだ時間がかかると高を括っていた彼らにとって、謙信の迅速な動きは予想外だった。それだけ謙信の行動は早かった。義昭の檄文を受け取るや否や、北条、武田、本願寺勢力と同盟を纏め上げ、後顧の憂いを断ち切り西上を開始した。

 

 謙信は内紛の絶えなかった能登の七尾城を平定し、加賀の手取川でついに織田軍と対陣する。率いるのは織田家の筆頭家老柴田勝家。最新の武具に身を包み、鉄砲を揃えた織田軍だったが、「毘」と「義」の軍旗、黒装束の軍団を目にした瞬間、戦う前から士気は崩れていた。


「まるで、地を這う神の軍だ……」


 織田軍は多くの死傷者を出し撤退した。雨に濡れた鎧の匂いと、敗走の疲れが混じり合った重苦しい空気に包まれていた。柴田勝家は、濡れた兜を外し、深く息を吐いた。戦場で幾度も死線を越えてきた勝家にとって、恐怖などとうに捨てたつもりだった。いや、恐怖ではない、今までに感じたことのない感覚。


(上杉…謙信…)


 遠目で見た、雷光に照らされた白い直垂。雨を裂くように駆ける白馬。

 そして、あの一瞬――

 謙信がこちらを見たように感じた、あの視線。


(御屋形様は、勝てるのか…)


 上杉軍も一旦七尾城まで軍を引いた。戦場での謙信は、白直垂に身を包み、白馬にまたがり、最前線で指揮を執った。 矢も鉄砲も、まるで謙信を避けるかのように逸れていく。 兵たちはそれを見て、いつの頃からか謙信を「毘沙門天の化身」として崇め、命を賭して戦った。越後兵の強さの根幹は、謙信そのものにあった。 彼らは、神と共に戦っていたのだ。


 進軍の途中、朝信はふと気づいた。 謙信が、毎夜、何かを書き連ねている。謙信の書く字は、一字一字が、まるで祈るように並んでいる繊細でかつ力強い。まさに「義」と「静」の精神を映す鏡のような筆跡であった。少し鼠色がかった越後紙が撒かれ、かなり長い文章であることが見て取れた。


「最近、よく書いておられますな。写経ですか?」


 朝信が声をかけると、謙信は筆を止めて微笑んだ。


「まあ、そんなものだ。」


 謙信は何となく言葉を濁したようだった。


「少し付き合わないか?」


 謙信が酒を誘ってくるなど、珍しいことだった。星明りに照らされた七尾城の天守から見える空は静かに広がっている。


「多くの戦いで兵や民を犠牲にしてきたものだ。」


 この日の謙信は、いつもより饒舌であった。かつて語り合った「義」によって成り立つ日の本の統一。都の天皇を頂点とし、幕府の権威の元、民が安心して暮らせる世の中。その理想を夢見て戦い続けてきた。だがその結果、その手は血に染まり、多くの命を黄泉の国へと送り込んできた。これから更に多くの血が流れる事を思えば、果たしてその理想を追い求めるのは正しいのか、謙信の目には揺らぎがあった。


 元来無口な二人だが、この夜は、今までで最も多くを語り合う時間となった。


 謙信は守備兵を残し、冬を前に一旦越後に戻ることとした。翌年春には再度進行し一気に京都へ上る計画であった。


 防御を固めていた織田軍にとっては朗報であった。兵たちは、今またあの漆黒の軍団を前にして、足を進める自信が無かった。とりあえず来春までは、命をつなげる。そう安堵していた。


 だが、春になっても、上杉軍は動く気配はなかった。


 そして、その報せは突然飛び込んできた。


「謙信、死す。」




 ◆第六章 「親子の絆」 に続く


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