◆第二章 川中島の記憶
川中島の激戦から、すでに五年の歳月が流れていた。
その間、戦は絶えることなく続き、喜兵衛も武田家中にて頭角を現し、今や足軽大将として一隊を率いるまでになっていた。多忙を極める日々の中、昨年には信玄の勧めもあり、正室山手殿を迎え、間もなく第一子が誕生する。初めての子の誕生を、喜兵衛は心待ちにしていた。昨日ようやく甲斐に戻り、ひと月前よりも大きく膨らんだ妻の腹に手を添えると、中でかすかに動く我が子に触れ、命の神秘に打たれた。
だが、休息は束の間。明日には再び信濃方面へ出立する。滞在は、わずか一日だけだった。
山深い甲斐の空は、秋の気配を孕んだ薄曇り。妻が休んだ後、喜兵衛は奥の書斎にて文を読んでいた。
「体がいくつあっても足りませぬな」
口を尖らせながら入ってきたのは、真っ黒に日焼けした男、高梨内記。真田家家老高梨家の次男で、喜兵衛の一つ下。破天荒で遠慮のない物言いが災いし、煙たがられることも多いが不思議と馬が合った。喜兵衛の武藤家入りにも主家の反対を押し切り、従者としてついてきた。
京都では将軍足利義輝が三好一党に殺害され、中央の勢力が弱まると、主家武田家を取り巻く環境もめまぐるしく変わり、喜兵衛もまた東奔西走の毎日であった。
そんな束の間の滞在を知っていたかのように、玄関に一人の旅の者が現れた。
「武藤喜兵衛殿に、お目通り願いたい」
高飛車な物言いに、取次の者は困り果てていた。喜兵衛は「会おう」とだけ告げ、玄関へ向かった。そこに立っていたのは、旅装に身を包みながらも、隠しきれぬただならぬ気配、上杉家の重臣、斎藤朝信その人だった。従者も連れず、ただ一人。腕には包みを抱えている。
「これは……斎藤殿。何故、このような場所へ?」
「拙者をご存じか」少し驚いた様子の朝信。
「戦場にて、遠目で何度か。上杉家、鬼の斎藤を近くで見た者は、誰も生きて帰ってきませぬので」
(お、鬼の斎藤……)目の前にいる男の正体を知って、内記は顔を青くした。
朝信は言葉少なに包みを差し出した。中には、すやすやと眠る幼子。
「拙者、これにて」
それだけを告げると、朝信は踵を返し、風のように去っていった。
「え、ち、ちょっと!」
内記が慌てて追いかけるも、すでにその姿はどこにも見当たらない。喜兵衛はその間、居間で赤子を抱いたまま、その寝顔に見入っていた。指を出すとぎゅっと赤子が握り返してくる。間もなく生まれてくる我が子と重ね合わせながら、ある種不思議な感覚で赤子を見ていると、包む毛布の隙間に小さな書簡があるのを見つけた。ゆっくりと赤子を置いて、その文に目を通した。
読み終えた喜兵衛は、改めて赤子の寝顔をじっくりと眺めながら、あの時の事を思い返していた。
──川中島
辛うじて上杉軍を退けた武田軍が、海津城に守備隊を残し甲斐へと引き上げていく。典厩信繁、山本勘助、他多くの将兵を失った武田軍の足取りは重かった。信濃の国はまだ勢力基盤が安定せず、政虎率いる精鋭部隊の足取りもわかっていない。信玄の本陣はもちろん、小荷駄隊などの将兵を思わぬ敵に警戒しつつ、ようやく武田の領内、甲斐へ入ったあたりで将兵達は少し安堵の表情を見せた。
本隊や荷駄隊が通る街道沿いに不審な点が無いか、先行して脇道や小高い丘などをつぶさに見ては本体の通過を確認し、また先回りをして偵察する。交代で見張り役を務めていた喜兵衛と高梨内記も、武田の勢力圏である南信州の上田荘真田領に入ったところでお役御免となり、久しぶりに真田の居城砥石城に顔を出すことにした。
「若!その前にちょっと角間に寄っていきましょう!」
角間温泉。砥石城から二里ほどの距離にある秘湯で、古くから傷への効能があると言われている。実直な喜兵衛は、いつもなら「先に入城している実父幸隆を待たすことはできない」とにべもなくやり過ごしたであろうが、さすがに長期間の滞陣での疲れと、子供の頃兄弟でよく通った懐かしさもあり、「少しなら」と立ち寄ることにした。
知る人ぞ知る隠れた名湯は、いつも人気が少なくのびのびと湯を楽しむことができた。この日も夜遅いこともあり二人の他には誰もいない。内記は勢いよく湯に飛び込み、泳いだり、体の汚れを落としたり、ひとしきり暴れた後、疲れからか湯気の中で素っ裸のまま寝息を立て始めた。
喜兵衛は苦笑しながら、昔よく兄たちと冒険した小さな滝のある奥湯の方に向かった。小さな滝音が聞こえ始めたあたりで、ふと奥に人影を感じて木陰に隠れて様子を伺ってみる。雲で月明かりも無くよく見えないが、どうやら先客が一人いたようだ。何となくの気まずさもあり、目的の滝にはたどりつけなかったが、戻ろうとしたとき、ザバッという音と同時に雲の合間から下弦の青白い月明かりが差し込み、立ち上がった先客の姿が目に飛び込んだ。
その姿は、「女神」という単純な言葉では表現しきれない、神秘的な、幻想的な光を放っている。短く括られた髪のうなじから肩にかけて湯が滴り、肩口から長くしなやかだが細すぎない腕、腰のくびれからお尻にかけて無駄な肉が一切ない曲線、そしてその体に似合わないほどの大きな乳房。まだ若い喜兵衛は完全に目を奪われ、時が止まったような感覚を覚えた。
ふと見るとその女性の左肩にまだ新しい傷。なぜだか心臓が突き上げるように脈打ち、全身がざわめいた。振り向いた女性と目が合う。
(う、上杉、政虎…)
間違いなく武田本陣で一瞬見えたあの政虎であった。なぜか政虎は驚きもせず、少し笑みを見せた。敵の総大将、あの上杉政虎が目の前にいる。だが金縛りにあったかのようにまったく身動きが取れない。奇妙なほど恐怖はなく、むしろ吸い寄せられるような安堵があった。目を見ながら一歩、一歩と政虎がこちらに近寄ってくる。
あと一歩、手を伸ばせば届きそうなところで、遠くから喜兵衛を探す声がした。
「若!若!」
政虎は、何かを訴えるかのようにうなずき、さっと方向を変え、茂みの奥へと消え、しばらくして馬の蹄の音が遠ざかっていった。
「若、こんなところに突っ立って、どうされました?」
「・・いや、なんでもない。そろそろ上がろう。」
喜兵衛と内記も湯から上がり、砥石の城に向かった。
赤子がぐずり出し、ふと我に返った喜兵衛は、少し赤子を揺らして見せると、落ち着きを見せた。初めてながら自然に腕に収まり、我ながら驚かされた。
「見失いました。」
足音を響かせながら内記が入ってくる。喜兵衛は赤子の顔を見ながら軽くうなずくだけであった。
その後の喜兵衛の一言には、内記も開いた口がふさがらなかった。
「この赤子、わが子として育てる。」
越後春日山城。
下弦の月は静かに傾き、城内の空気はひんやりと澄んでいた。春日山の奥にある湯殿では、湯気が立ち昇り、石造りの壁に淡く揺れる灯が影を落としている。湯に身を沈めるのは、この地の主、上杉輝虎。政虎から名を改め3年の月日が流れていた。月光が湯面に差し込み、肌を銀色に染めていた。
「武藤喜兵衛殿へお預けしてまいりました。」
斎藤朝信の声は、湯殿の静寂を破らぬよう、慎重に響いた。彼の背筋は伸び、言葉の一つひとつに重みがある。報告を終えたその顔には、どこか言い足りぬ思いが滲んでいた。眉間に刻まれた皺は、忠臣としての葛藤を物語っている。
傍らには袴姿の凛が控えていた。まだ二十を少し越えたばかり、かつて身寄りを失い雪の夜に路頭に迷っていたところを朝信に拾われた。機転が利き、何事にも一生懸命、強い意志を持つその才覚を買われ、草の者として修業を積み、朝信の養女という身分で、輝虎の側仕えとして警護の傍ら輝虎の身の回りの世話を一手に担っている。特に最近怪しげな輩が周りを嗅ぎまわっており、警戒を強めていた。
輝虎は湯からゆっくりと立ち上がる。水滴が肌を伝い、床に落ちる音が、まるで時の鼓動のように響く。戦場を駆け抜ける武将の体は、赤子を生んだ一人の女性として、以前に増して艶やかな香気を漂わせていた。それでいて、近寄りがたい威厳を纏い、神仏の化身のような存在へと昇華しているように見えた。肩口には、信玄との死闘で負った傷跡が、赤く刻まれている。朝信の目が、無意識にその痕へと吸い寄せられる。
「本当に、良かったのでしょうか。」
朝信の心配も当然であった。大切な赤子を敵方の武田家、しかも名もなき足軽大将の家に預けるとは、正気の沙汰とは思えなかった。何度も反対を申し上げたが、輝虎は「毘沙門天さまのお告げ」とだけしか答えなかった。今もなお、輝虎は朝信の問いに答えることなく、湯殿の縁に腰を下ろし、月を見上げている。
下弦の月。いつかの月。目を細め何か遠いものを見ているようだった。まるで何かを見通しているかのように。
「盛者必衰。大義のためには、かの者の元でないとならん。」
輝虎の声は、湯殿の石壁に染み込むように響いた。朝信はその言葉を聞きながら、胸の奥に重く沈むものを感じていた。理では測れぬ何かが、輝虎の中にある。それは、戦の果てに見た幻か、あるいは神仏の啓示か。
◆第三章「武藤兄弟」へ続く




