◆第十三章 新月の影
◆第十三章 新月の影
大坂城、山里丸。
淀殿と鶴松が暮らす寝所は、夜でもほのかな香が漂い、障子越しに揺れる灯が静かな影を落としていた。
曲輪の周りは秀吉の命により、手厚い警護がなされている。もっとも寝所に近いこの場所の警護は、石田三成が自ら買って出ていた。
島左近の指揮のもと、戸隠衆八名が四名ずつ二組に分かれ、それぞれを凜と幸村が率いて交代で警護に当たっていた。
毒殺が最も疑われる。食材を運ぶ者、調理する者、薬師、医師、奥女中に給仕する女中たち。出入りする者の持ち物、素性は徹底的に調べ上げられた。
鶴松が生まれる前から淀殿に仕える奥女中頭・おとめは、最近物々しくなった警護に眉をひそめていた。
「今日もすまないねえ。」
代金を支払いながら、おとめは白粉を届けに来た商人にすまなそうに頭を下げた。商人は毎回、厳しい詮索を受けている。
「こんな平和な関白様の世に、いったい誰がお世継ぎ様を狙うっていうんだい、ねえ。」
警護の者にも聞こえるように、あからさまに不機嫌そうに言った。
それから一月ほど経ったある新月の夜。
月のない夜は忍びにとって最も動きやすい。そしてそれは最も血が流れる夜でもある。
寝所の警護に立っていたのは凛の組だった。凛を含めいずれも戸隠でも指折りの精鋭である。
塀沿いを歩いていた凛は、胸の奥がざわつくのを感じていた。
「……妙だ。」
空気が、揺れている。風でもない。虫の羽音でもない。もっと、深く、重い“何か”が空間を押し広げている。
(この気配……)
凛は目を細めた。普通の忍びなら、気づかれぬよう気配を消す。だが、今感じているのは逆だ。“わざと”気配を放っている。
強くなったり弱くなったり。挑発するように、誘うように。
「……出てきなさい。」
凛が短刀を構えた瞬間、闇が、ゆっくりと形を成した。
痩せた体。顔の半分を覆う青い痣。その眼は闇そのものを宿していた。
「あなたが……服部半蔵。」
名を呼ぶと、男は薄く笑った。
「答えを聞くと、もうこの世とはお別れになりますよ」
声は穏やかだが、底がない。
「わざと気づかれるように気を発するなんて、一体何のつもりだい」
半蔵は愉快そうに目を細めた。
「あのわずかな気で、私を“感じ取った”のは、あなたが初めてですよ、凜殿。」
凛の眉がわずかに動く。
半蔵は一歩、凛に近づいた。その動きは音もなく、影が滑るようだった。
「目障りな真田の忍び、戸隠。その棟梁であるあなたを仕留めれば、戸隠は終わりですね。」
そして、声の調子を変えずに告げた。
「結論から言いましょう。 ――あなたは、殺す価値がある。」
凛が呼吸を整えた瞬間――空気が裂けた。
凛の側にいた戸隠衆の一人が、一瞬の内に喉を裂かれて倒れる。
「っ!」
凛が構え直すより早く、二人目の胸に黒い影が突き刺さる。
三人目は、悲鳴すら上げられなかった。半蔵の指が、喉元を軽く弾いただけで、
糸が切れたように崩れ落ちた。
(……速い。見えない……!)
半蔵は、まるで“遊んでいる”ようだった。
「戸隠はこんなものですか」
半蔵は凛の目の前に立った。いつ動いたのか、まったくわからない。
「さあ、凛さん、あなたの番です。」
半蔵の姿が闇に溶けた瞬間、凜は反射的に身を沈めた。
頭上を黒い刃が風を裂いて通り過ぎる。わずかでも遅れていたら首は無かった。
半蔵の動きは、凜の“次の動き”を先に知っているかのようだった。
「あなたの癖、呼吸、重心……すべて見えています。」
背後から声。半蔵の刃が迫っていた。
だが凜は動かなかった。凜の足元から淡い白煙が立ち上った。
半蔵の刃は凜の肩を裂くはずだった。だが、刃は空を切った。
「……これは。」
半蔵の目が細くなる。
凜はすでに半蔵の背後に回り込んでいた。短刀が半蔵の喉元へ迫る。
「覚悟!」
刃が閃き、半蔵の頬に、細い傷が走る。
「ほう、……やりますね。影返し……懐かしい技だ。」
凜の掌から放たれたのは、戸隠に伝わる“影返し”。白煙が視覚と距離感を狂わせ、“影の位置”を一瞬だけずらす幻術。
半蔵は指で血を拭い、その指先をじっと見つめた。
「こちらも少し本気を出さないと失礼ですね。」
気配が変わった。空気が重く沈む。包み込む闇が濃くなる。
(……これが、本気……?)
半蔵の姿が揺れた。次の瞬間――凜の視界から消えた。
「っ!」
凜は跳んだ。だが、遅かった。
半蔵の足が凜の腹を蹴り上げ、凜の体が地面を転がった。
「技は見事でした。ですが――」
半蔵がゆっくり歩み寄る。
「あなたの“限界”も、すべて見えています。」
凜は立ち上がろうとするが、半蔵の刃が喉元に迫る。
(ここまで……か。)
その瞬間――
「凜殿!!」
雷鳴のような声と共に、半蔵の刃が凜の喉を裂く寸前、横から槍が飛び込み刃を弾いた。
火花が散る。
半蔵はゆっくりと振り返った。そこに立っていたのは――槍を構えた 島左近。
「間に合ったか。」
左近は槍を構え直し、半蔵を睨みつけた。
「“鬼の左近”……噂以上ですね。」
半蔵の声が、わずかに楽しげに揺れた。
凜は息を荒げながら後退し、その横を信繁と幸村が駆け寄る。
「お前は、小平太……なのか!」
信繁の叫びに、半蔵は薄く笑った。
「お久しぶりです、源次郎さま。」
その声音は、かつての小平太のものだった。
だが、その瞳は完全に別人のものだった。
「少し遅かったようですね。」
半蔵の言葉が終わらぬうちに、凜は口から血を吐いて倒れた。
「凛!!」
注意が逸れたその瞬間、半蔵は迷いなく信繁へ刃を振り下ろした。
「――させない!」
幸村の短刀が、その刃を受け止めた。金属が軋み、火花が散る。
「信繁様には……指一本触れさせない!」
幸村の瞳が、青い炎のように燃えていた。
「いい目だ。 あなたも、殺す価値がある。」
半蔵は楽しげに笑った。
「いくぞ!」
信繁の声に、幸村も斬りかかる。左近も槍を構え、半蔵に迫る。
三人の動きが交錯し闇の中で刃が閃いた。
左近の槍が半蔵の頬をかすめ、初めて血が飛んだ。
「……ほう。」
半蔵は塀の上に飛び乗り、指で頬の血を拭い、その指を舐めた。
「…さすがはあまたの大名が欲しがった島左近だ。切先に柳生の色も見える」
信繁が倒れている凛に駆け寄り、左近と幸村は半蔵を挟むように塀に飛び乗った。
――その時だった。
剣戟の物音に目を覚ましたのか、寝所の奥から女中頭のおとめが縁側へと姿を現した。彼女は塀の上に立つ半蔵の姿を認め、驚いて声を上げそうになる。
半蔵は、おとめの目を見つめ、指で奇妙な印を結びながら、何かを呟いた。
すると、おとめは糸が切れた操り人形のように表情を失い、何事もなかったように寝室へと戻っていった。
「左近殿。今日はここまでにしましょう。」
半蔵はその言葉を残し、その姿は一瞬の内に闇へと溶けていた。
「凛!しっかりしろ!」
凜を抱きかかえる信繁の元に、左近と幸村も駆け寄った。凜の傷は深く、誰の目にも致命傷であることは分かった。
「……信繁様。申し訳ございません。」
信繁は首を振った。
凜の目が幸村を追った。幸村も膝をついて凜の手を握る。
凜は幸村の手を握り返す。
「……幸村。朝信様と私は、あなたを本当の娘のように育てた。……できれば忍びの世界など、歩ませたくなかった……。」
頷く幸村の頬を、涙が伝う。
「でもね。流れる血は……、運命は、あなたを必要とした。」
凛は震える手で幸村の涙を拭い、優しく頬を撫でた。
「愛しいわが娘、幸村。信繁様と共に、行きなさい……」
凛は静かに目を閉じた。
「凛様!」
その手が、幸村の頬から離れていく。
「‥‥お母さん!」
幸村は崩れ落ちるその手を掴み、強く握りしめた。信繁もまた、拳を震わせていた。
凄惨な悲しみが場を包む中、ただ一人、左近は冷静に思考を巡らせていた。半蔵が去り際、縁側に現れたおとめに対して何やら呟いたあの一瞬。
(あやつ、一体何を……)
多くの戸隠の精鋭と、何より棟梁である凜を失うという、戸隠にとってあまりにも大きな代償を支払う夜となった。
翌朝、御殿から叫び声が響いた。
「鶴松! 鶴松!」
淀殿の悲鳴だった。
駆けつけると、鶴松はぐったりと淀殿の腕に抱かれていた。その小さな胸は、弱々しくかろうじて上下しているだけであった。
医師や薬師が手を施したが、ほどなくして、鶴松は帰らぬ人となった。
時を同じくして、庭の池で、奥女中頭・おとめの遺体が見つかった。
石田三成は屋敷の窓から大坂城を見つめ、拳を震わせていた。
「……守り切れなかった。」
背後には左近と信繁が控えている。表向きは病死とされていた。
「おとめ殿は、何日も前から“誰か”に接触されていたようです。本人は気づいておりませんでしたが……暗示、催眠の類です。」
「催眠……?」
左近は頷く。
「鶴松様のそばで、ある“合図”を見た瞬間に毒を盛る――そのように刷り込まれていたのでしょう。」
信繁が息を呑む。
「では……昨夜の騒ぎは……」
「はい。半蔵は“おとめ殿が出てくる状況”を意図的に作ったのです。」
左近は昨夜の光景を思い返すように目を細めた。
「戦いの最中、半蔵は一度だけ、おとめ殿の方へ視線を向けました。その時、何か口を動かしながら、指で印を結んだ」
三成の背筋が凍りついた。
「その合図で……おとめは……」
「無意識のまま、鶴松様の薬湯に毒を落としたのでしょう。おそらく、徐々に息を引き取り、病死にしか見えない南蛮の遅効性の毒を。そして催眠が解けた瞬間、おとめは己のしたことに耐えきれず、自ら池へ身を投げた」
部屋に重い沈黙が落ちた。信繁が唇を噛む。
「……おとめ殿は、利用されたのですね。」
幸村の言葉に左近は深く頷いた。
「そして、我々も。」
三成は拳を握りしめ、血が滲むほどに爪を立てた。
数日後。大坂城御殿。
「白粉の在庫がもうすぐ空っぽ。」
「最近、あの白粉商人の人、来られませんね。」
「ええ。顔半分に大きな痣がある、あの商人さん。白粉で隠しておられたけど……。」
大坂の町は、鶴松の死を悼み、ひっそりと静まり返っていた。
だがその静寂の底で、豊臣の未来を揺るがす“影”は、確かに息づいていた。
◆第十四章 「血の楔」に続く




