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◆第十二章 鶴松誕生

 天正十九年、真田昌幸、信幸親子は、秀吉の嫡男・鶴松の三歳の祝いのため、信州からはるばる京の都を訪れた。この日、京・聚楽第じゅらくだいには、全国津々浦々から諸大名が集結していた。


「鶴松さま万歳!」

「豊臣の御世も安泰じゃ!」


 大通りには全国から集まった商人が軒を連ね、珍しい舶来品や各地の特産品が山と積まれる。辻々では振る舞い酒が配られ、民衆が列を成す。行き交う人々の熱気と、あふれる富が京の都を輝かせていた。


 昌幸は目を細め、京の都のむせ返るような熱気を吸い込んだ。


「……これは、想像以上だな」


 信幸もまた、圧倒されていた。

「関白殿下の威光、ここまでとは……。信州の山奥とは、まるで時の流れが違うようです」


 普請の槌音、商人の呼び声、南蛮の楽器の音色。聚楽第の堀は、まるで海のように広がり、石垣には南蛮渡来の石材が陽光を反射して輝いていた。軒を連ねる茶屋、呉服屋、南蛮商館。その賑わいは、夜遅くまで絶えることがなかった。


 農民から天下人へ駆け上がった関白・豊臣秀吉。その人気と権威は、今や神仏にも等しい熱狂を帯びていた。



「おお、大殿、若殿! こっちです!」

 人混みの中で、何杯目かの盃を手に高梨内記が手招きしていた。派手な小袖を着た茶屋娘から新たな盃を受け取るや否や、内記はそれを一気に煽り立てる。


「ぷはあっ、うまいっ!」

 何年かぶりに大殿昌幸に随行し、内記は上機嫌であった。

 信繁は苦笑しながら内記をたしなめようとしたが、ふと、雑踏の中に奇妙な違和感を覚えた。


「……小平太?」


 こちらには気づかず、足早に去っていく小柄な男。

 信繁は人混みをかき分けて追いかけた。だが、その影は瞬く間に雑踏へと消えていった。


「源次郎、どうした?」

 不審に思った信幸が声をかける。


「兄上、今、あそこに小平太がいませんでしたか?」

「小平太……? ああ、あの上田合戦の時の……。いや、あやつはあの戦いのあと、行方知れずのままだ。戦場の恐怖に耐えられず、逃げ出したのだと思っていたが……」


 風貌、背格好に加え、何よりあの顔の右半分を覆う青い痣。間違いなく小平太であった。だが、あの上田の城壁で震えていた、あの気弱な男とは、纏っている空気がまるで違っていた。信繁は背筋に、冷たいものが走るのを感じた。


 聚楽第の正門を抜けると、そこはまさに「極楽」であった。

 庭には巨大な池が掘られ、南蛮仕掛けの噴水が虹を作っている。金箔の張られた欄干、極彩色の天井画、そして狩野永徳の筆による金碧障壁画。

 訪れた者を圧倒する仕掛けが、至るところにあった。



 大広間。


「皆の者、我が嫡子、鶴松じゃ!」


 関白秀吉が高らかに宣言すると、居並ぶ諸大名が一斉に平伏した。その隣には、生母・淀殿が、あどけない鶴松を抱き、誇らしげに座っていた。

 宴では山海の珍味が振る舞われ、能や舞が次々と披露される。まさに、この世の春。秀吉のすぐ近くに座る徳川家康も、満面の笑みを浮かべて祝いの言葉を述べている。

 その家康の背中に、突き刺すような視線を向ける男がいた。石田三成であった。


 その夜。徳川屋敷。

 町の喧騒が遠くに聞こえる静かな一室で、家康、本多正信、そして天海僧正が向かい合っていた。

 家康は、すこぶる機嫌が悪かった。

 五十をとうに超えた秀吉が、側室・淀殿との間に子を成したことだけでも耳を疑ったが、さらにその子が男児ですくすくと成長している事実に、家康の不機嫌は募っていた。


「秀吉の強運、恐ろしゅうございますな。お、これは美味い。」

 正信は、今日の引き出物にもらった南蛮菓子カステラを頬張りながら、他人事のように言った。


「いったい誰の種でしょうな」

 正信がニヤリと笑う。

「馬鹿なことを申すな」

 家康がたしなめるが、その目は笑っていなかった。


 世継ぎがない秀吉は、「天下で思い通りにならないものは、地震と子宝よ」、とかつて嘆いていた。子沢山の家康は、その度に秀吉から羨ましがられたものだ。

 全国から子宝に良いと言われるものは何でも取り寄せ試したが、正室の北政所はもちろん、多数の側室にも子ができず、効果は見られなかった。世間も秀吉自身に子を宿す力がないものと思い込んでいた。


 弟の秀長か、甥の秀次が後継と目されていた矢先の、淀殿の懐妊であった。秀吉の喜びようは並大抵ではなかったが、誰の子種かという邪推は、大名から下級武士の間でまことしやかに囁かれていた。大野治長、石田三成、はたまた徳川家康の名も挙がっていたという。


「真実などどうでも良い。……秀吉の息子という存在そのものが、目障りなのだ」

 家康はそう吐き捨てた。


 正信は菓子を飲み込むと、傍らの黒衣の僧に水を向けた。

「天海和尚。貴殿も秀吉への恨み、並大抵ではあるまい。さぞや口惜しいでしょうな。」


 天海は、深い皺の中に感情を隠し、静かに答えた。

「熟した実は、そのうち自ら落ちます。……風が吹けば、尚早し」


 その頃、石田三成の屋敷。

 招かれていたのは上杉景勝、大谷吉継、そして真田昌幸。

 側には三成の懐刀・島左近、上杉家家老・直江兼続、そして信繁の姿もあった。


「関白殿下は、家康殿を信じ切っておられる」

 三成は焦燥に駆られ、扇子を強く握りしめた。

 家康は今では丸々と太り、温和な狸のような印象を振りまいていた。秀吉にも忠実に仕え、諸大名を代表して補佐する素振りを崩さない。かつて小牧・長久手で対決した時の牙は、すっかり抜け落ちたように見えていた。


 吉継が静かに諫める。

「三成、考えすぎではないか。相手は百戦錬磨の家康殿じゃ。余計な猜疑心は身を滅ぼすぞ」


 家康は秀吉の主君であった信長の同盟相手。家康からすれば秀吉は元陪臣であり、その家臣である三成などは、本来なら同じ敷居すら跨げない相手である。官位も領地も別格、今や内大臣という高い官位から「徳川内府」と呼ばれており、三成が正面から抗える相手ではなかった。


 景勝も同意する。

「いずれにせよ推測では動けまい。ましてや関白殿下の御前で事を荒立てるのは得策ではない」


 だが、三成は頑として首を振った。

「奴は必ずや、鶴松様の命を狙う。手は汚さぬ。伊賀の者を使うだろう。服部半蔵――あの正体不明の男が動くはずだ」


「服部半蔵? あの内府の元にいる、槍の半蔵のことか?」

 大谷吉継は、少し意外な表情を見せた。彼が知る服部半蔵正成は、武骨な槍働きで知られ、暗殺のような搦め手を使うとは思えなかったからだ。


 三成に促されて、島左近が重い口を開いた。

「服部半蔵は、二人おります」

 一同の視線が集まる。


「伊賀者・甲賀者を配下に加えつつ、戦場で勇猛果敢に働く『槍の半蔵』こと服部正成。そして……同じく伊賀者を従え、裏の仕事を一手に引き受ける『影の半蔵』。これらは、別の人間だという噂がございます」


 左近は浪人時代、一時期大和の柳生庄に身を寄せ、当主の柳生宗厳と剣を交わす仲であった。その宗厳が、酒の席で漏らしたことがある。

『柳生の精鋭も敵わぬ、裏の半蔵の恐ろしさよ』と。

 表と裏、まさに表裏一体。二人で一人の服部半蔵なのだと。


 昌幸が湯呑みを置いた。

「ならば、忍びには忍びを。我が真田の手の者を使おう」

 昌幸は、先日戸隠の棟梁となった凛を中心に、数名の精鋭をもって昼夜鶴松を警護するよう命じた。


 深夜、本多正信の屋敷。

 行燈の火が、ゆらりと揺れた。

 正信の前に、一人の男が平伏している。町人のような粗末な身なりだが、そこから発せられる気配は、鋭利な刃物のように張り詰めていた。


「半蔵。出番じゃ」

 正信の声が低く響く。

「獲物は太閤の宝。しばらくは淀殿と大坂城らしい。」


 男は無言のままだ。

「鶴松を仕留めてまいれ。傷一つ残してはならん。必ず、自然死にみせかけるのじゃ」

 男は小さく頷いた。冷ややかな笑みが、口元に微かに浮かんだ。


 ゆらりと揺れる行燈の灯が、男の表情を一瞬だけ照らし出す。

 その顔の右半分を覆う、大きな青い痣。

 かつて信州上田で、臆病者の「小平太」と呼ばれていた男。

 その目は今、上田で見せた怯えなど微塵もなく、ただ底のない闇のように冷たく澄んでいた。


 ◆第十三章 「新月の影」に続く


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