◆第十章 豊臣秀吉という男
戦国の世は、静かにその形を変えつつあった。
時代の潮流は、ひとりの男――羽柴秀吉の掌へと、音もなく集まり始めていた。
天正十三年。 小牧・長久手の戦いを経て、徳川家康はついに秀吉に屈した。 武力ではなく、政治と包囲の妙で家康を追い詰めた秀吉は、関白の座に就き、天下人としての地位を盤石なものにした。
「天下は、力で奪うものではない。人の心を掴むものだ」
その言葉は、もはや虚勢ではなかった。上杉景勝も秀吉に従い、真田昌幸もまた、秀吉の元で国持の大名として認められた。
戦火の跡は、京の町からすっかり消えていた。 焼け落ちた屋敷も、崩れた寺も、今では新たな瓦が載せられ、南蛮の品を積んだ荷車が行き交っている。異国の言葉が飛び交い、町人たちは色鮮やかな布を纏い、笑い声を響かせていた。
聚楽第の工事は佳境を迎えていた。
全国から腕利きの職人が集まり、金箔の瓦、唐風の門、南蛮渡来の石材が積み上げられていく。 秀吉の天下を讃える声は、町の隅々にまで届いていた。
「関白様の世は、まことにありがたい」
茶屋の女将がそう言って笑うと、隣の客が頷いた。
「戦がないだけで、飯が旨い」
その頃信繁は真田家の人質として京の秀吉の元に送られていた。だが、上杉の時と同様、若き客人のごとく何不自由なく過ごしていた。
戦の気配が遠のく中でも、信繁の日課は変わらない。与えられた広すぎる屋敷の庭先で、今日も朝から槍の稽古に汗を流している。
「ふっ……はっ!」
短槍を振るうたびに、汗が額を伝う。 内記が見守る中、信繁の動きは日ごとに鋭さを増していた。
「若、少し休まれては」
「いや、もう少し」
その時、庭の外を通りかかった影に、信繁は目を留めた。
幸村だった。
戸隠の草の者として、京の情報を探る彼女は、信繁の付き人の若侍に身をやつし、いつも忙しく動いていた。
「幸村」
声をかけると、彼女は立ち止まった。
「信繁様。ご稽古中に失礼を」
「いや、丁度よい。少し、町へ出ようと思っていたところだ。付き合ってくれぬか」
幸村は、少し驚いたように目を見開いたが、すぐに小さく頷いた。
「承知いたしました」
市中は、祭のような賑わいだった。 南蛮の香水、異国の楽器、金襴の布―。目を奪う品々が並び、商人たちの声が飛び交っていた。
だが、洛外へ足を伸ばすと、景色は一変した。 道はぬかるみ、家々は傾き、子供たちは裸足で走っていた。 下級役人が賄賂を受け取る姿も、路地裏では珍しくなかった。
「京の華やかさは、表だけです。」
幸村の声は静かだった。
露店が並ぶ通りへ差しかかった時だった。香ばしい餅の匂いが漂い、店主が銭を持たぬ子供たちを無下にあしらっていた。
ひとりの痩せ細った少年が、露店の餅をじっと見つめていた。骨ばった手が震え、喉が鳴るほどに餓えている。
信繁は気づかず通り過ぎようとしたが、幸村だけが足を止めた。
「……あの子。」
幸村は小さく呟き、露店の前に歩み寄った。少年は幸村の気配に気づき、びくりと肩を震わせる。その目には、恐れと、どうしようもない飢えが混じっていた。
「餅を二つ。」
幸村は銭を払い、餅を少年に渡した。少年は震える手で受け取り、深々と頭を下げた。
「……ありがとう」
その声はかすれていた。少年は道端に蹲っていた弟に駆け寄り、餅を二つとも手渡した。戦で両親を亡くし、ここ京のはずれで何とか生き抜いてきたのだろう。弟はむさぼるように食べ、少年はその様子を見てほっと息をついた。
幸村はそっと少年の肩に手を置いた。その眼差しは、温かい色を帯びていた。
その様子を見ていた信繁も、黙って少年の前に跪き、銭の袋を握らせてやった。
「お主もしばらく何も食べてなかろう。飢えた弟を思う心、大切にな」
少年は涙をこぼしながら頷いた。
京の華やぎの裏にある深い影。そして、その影に迷わず手を伸ばす幸村の姿。信繁の胸の奥で、言葉にならぬ想いが静かに灯った。
帰り道、骨董屋の軒先で、南蛮のガラス細工が並んでいた。
陽に透ける首飾りが、風に揺れていた。信繁は、ひとつの首飾りを手に取った。 淡い青のガラスが、幸村の瞳の色に似ていた。
「これを、もらおう。」
代金を支払うと、信繁はその首飾りを幸村に渡した。
「私に……?」
「いつも、献身的に仕えてくれている。礼を言いたかった」
幸村はしばらく黙っていた。そして、首飾りをじっと見つめ、少し照れたように「有難うございます」と礼を言った。
その童心な少女のような表情に、一瞬、時が止まったようだった。信繁は、胸の奥で芽生えた想いを、今はまだ言葉に変える術を持たなかった。
信州上田。
春の風が、城の石垣を撫でていた。 梅の香が微かに漂い、雪解けの水が土を潤している。 昌幸は、囲炉裏の前で静かに盃を傾けている。その横には珍しい客人が、静かに文に目を通している。上杉家の重鎮、斎藤朝信である。側には凛の姿もあった。
文の差出人は、京の都にいる信繁。
『父上、兄上へ。
京の都より筆を取ります。まずは上田のご健勝を願っております。
私は関白となられた豊臣秀吉様のご厚意により、聚楽第にて不自由なく暮らしております。
秀吉様は私を「源次郎」と呼び、南蛮の菓子を分けてくださり、
諸国の大名の話を聞かせてくださいます。まるで孫のように扱ってくださるのです。
京の町は戦の気配が遠のき、民の顔にも笑みが戻りました。
この先、日の本は秀吉様の元、一つにまとまると、民は口々に申しております。
私はここで多くを学んでおります。政治のこと、人の心のこと、そして戦のない世の在り方を。
それでも心は常に信州にございます。
父上の策を、兄上の采配を、そして上田の土の匂いが懐かしくてなりません。
華やかな京の都よりも、土と汗にまみれた故郷こそが、私の魂の在り処と存じます。
再びお会いできる日を、心より待ち望んでおります。
京の空の下より
真田源次郎信繁』
朝信は文を読み終え、静かに言った。
「信繁殿は立派に育ってますな。亡き謙信公もきっと安堵なされている事でしょう。」
朝信は昌幸から盃を受けながら、うっすらと涙を浮かべた。
上杉家臣団も直江兼続を中心とした若返りが図られ、齢六十を過ぎた朝信は体調も優れぬこともあり、一線を退いていた。近頃は頭に白いものも目立ち、かつての「越後の鍾馗、鬼の斎藤」と呼ばれた荒武者も、すっかり涙もろくなっている。
「昌幸殿、あれから徳川に目立った動きはありませぬか」
家康は、表向きは秀吉の元ですっかり落ち着いているようだった。かつての神経質でか細い体形は見る影もなく、どっぷりと太り、顔にはいつも笑顔が絶えない。民の間では「駿府の大黒様」などと囁かれているという。
だが、裏の世界では、柳生の失脚の後、伊賀者が徳川の諜報活動を牛耳っていた。没落していた伊賀を再興した謎の男――服部半蔵正成。その名は闇に響くが、半蔵の姿を見た者は、未だ一人もいない。
伊賀の動きを探っている戸隠の手練れの草の者が、行方不明になることが増えている。後日、見るも無残な形で屍は晒され、その容赦ない拷問の跡が、伊賀からの言葉なき警告となっていた。
秀吉には跡継ぎがいない。まだ秀吉の天下は薄氷の上に成り立っていることは誰もが感じていた。西は島津、東は北条に伊達。未だ秀吉になびかぬ大名たちの裏には、常に徳川の影が見え隠れしていた。
「今日お伺いしたのは、これを昌幸殿に託すためです」
朝信が懐から取り出したのは、古びた書状の束であった。それは、謙信が亡くなる間際まで書き連ねていた、この乱世への想いそのものであった。
「おそらくもう、私は長くありません。謙信公から預かったその書は、しかるべき時に昌幸殿お渡しするようにと託されました。……ようやくその遺命を果たす事が出来ました。」
夕暮れの空を背に、朝信と凜は上田を後にした。その背を見送る昌幸は、懐の書の重みを感じながら、深く目を閉じた。
それからほどなくして、斎藤朝信は世を去った。享年六十五歳。
一つの時代が終わり、また新たな嵐が、ゆっくりと近づいていた。
◆第十一章 「前将軍 足利義昭」に続く




