◆第一章 甲斐の虎
真田信繁、通称幸村の謎に満ちた前半生。大坂の役で戦国のヒーローとなった信繁の出生に纏わる秘められた定めとは。
◆プロローグ
二条城。今や城門の外には、三好軍が幾重にも包囲を敷き、その鬨の声が風とともに城壁を震わせていた。城内は静寂に包まれ、死地に咲く最後の盃が交わされている。
中央には、二十代後半の美しく気高き武将。その眼差しは遠くを見据え、既に死をも恐れてはいない。周囲には、命を賭して付き従った近臣たち。誰もが、胸の奥に滲む悔し涙を必死にこらえている。
「よう、ここまで……我と志を共にしてくれた」
一人ずつ目を見ながら肩に手を添え、心からの感謝の声をかける若き武将。
「殿!」
皆が肩を震わせ泣きむせている。
壇上の間に座し、少しの間目を閉じる。そこには美しくも凛々しい女性の姿が。
(あとは頼んだぞ。)
小さくつぶやくと、
「我が命はここに尽きようとも、この志は必ずや誰かが受け継いでくれる。いざ、参ろう!」
盃を床にたたきつけ、わずか十数名の武者たちは、気高き武将を先頭に城門を飛び出していく。
わずかな時を置いて、城を囲む大群から声があがる。
「エイ・エイ・オー!」
「エイ・エイ・オー!」
燃える二条城の火が、その瞬間大きく燃え上がり、炎は天にも届く勢いであったという。
とある場所。
夕日が差し込む庭に、風に揺れる芙蓉の花。縁側に佇むその人は逆光の中、容姿はわからない。
静かに手紙を読み終えると、視線をゆっくりと庭先へと投げる。その背に灯る静かな炎は、確かに彼と共に在った者の証だった。その後ろ姿には、どこか儚げで、それでいて凛とした決意がにじんでいた。
遠くで赤子の泣く声が聞こえる。その人物はそれに気づくと、立ち上がり母屋の中に消えて行った。
◆第1章 甲斐の虎
静まり返った夜の八幡原。 薄闇の中、黒地に武田菱を染め抜いた陣羽織を纏う大柄な男は、高台から遠く妻女山の山頂近くに瞬く松明の列を見据えていた。
武田信玄は、ここ川中島で宿敵上杉政虎と過去三度相対している。甲斐の虎と越後の龍と呼ばれる両雄の戦いはいずれも決着はつかず、今回で四度目となる。自らを毘沙門天の化身と称し、義の無い戦はしないが、戦えば必ず勝つ、そんな相手と正面から戦えば相当の犠牲は覚悟しなければならない。
政虎は人前に出る事も少なく素顔を知るものもわずかな近習のみという。今まさに眼前の妻女山に、その男越後の龍がいる。山頂付近の松明の灯は霧に揺らめき、かすみ、やがて闇に呑まれては、またぼんやりと浮かび上がる。まるで息を潜める獣の眼のように。
背後で甲冑の金具が小さく鳴った。振り返れば、長槍を携えた若い近習が一人、草の擦れる音すら見逃すまいと周囲を見回っている。
「……喜兵衛か。本陣だ、少しは休め」
その声にはわずかな労りがある。
武藤喜兵衛。信玄の馬まわり衆の中でも最も若い、この時まだ十五の年であった。今回が初陣である。
「いえ、たとえ本陣といえども、ここは戦場。いつ草の者が忍び寄るかも知れません。御館様の背を守るのが、私の務めです」
「頼もしいな」 少しの笑みを含んだその一言に、喜兵衛は初陣で偉そうなことを言ってしまった自分をごまかすかのように周囲に視線を逸らした。
信玄は再び妻女山へと目を移す。山頂に揺れる松明を眺めながら、ふと、この少年との最初の出会いが脳裏に甦った。
信濃国小県の領主・真田幸隆の四男として生まれた喜兵衛(後の真田昌幸)が、武田への従属の証として送られてきたのは、まだ七つの頃。幼さの奥に光る聡明さと、筋の通らぬことを嫌う生真面目さ。戦場で幾千の男を見抜いてきた信玄にも、その才覚は一目でわかった。だが同時に、そんな正しさは戦場では刃にもなる、とも。
ある日、自ら告げた。 「今日よりお前は、真田源五郎を名乗れ」
居並ぶ宿老たちの顔が驚きと共に一斉にこわばった光景は、今も鮮やかだ。清和源氏の流れをくむ由緒ある武田家で、「源」の字を血筋の者外に与えるなど前例はない。それを押し切ったのは、我が子に劣らぬ情ゆえだった。一つ年長の四男勝頼の幼名「四郎」にすら無い「源」の字。勝頼とその母諏訪の方の心中が穏やかでなかったのは明らかだ。勝頼にとって、それは長きにわたり血の深奥まで刺さる棘となる。
やがて十二の歳、源五郎に武田一門の名門・武藤家を継がせた。家督争いから遠ざけるためでもあったが、親族衆として遇する厚遇は幾人かの宿老を渋い顔にさせた。だが信玄は、意に介さなかった。
「間もなく、別動隊が出発いたします。」
声の主は、武田典厩信繁だった。信玄の弟にして、軍中でも最も理と情を兼ね備えた男。 戦国の世において、兄弟が家督を巡って骨肉の争いを繰り広げることは珍しくない。だが信繁は、弟としての立場をわきまえ、信玄の覇業のために影に日向に尽くし続けた。その姿勢は自然と人望を集め、信玄もまた、誰よりもこの弟を信頼していた。
「兄上。源五郎はほんに良い子じゃ。」
信繁は、源五郎を可愛がった。自分と似た、生真面目で不器用な性格を感じていたのかもしれない。子供ながらに「御館様の役に立ちたい」と真っ直ぐな目で訪ねてくる源五郎に、信繁は何度も膝に乗せて語りかけた。
「兵は詭道なり。理屈を知る前に、人の心を知れ。自然の匂いを知れ。戦は、すべてを動かす術だ」
その言葉は、源五郎の心に深く刻まれていた。
信繁はいよいよ戦が始まると、初陣で緊張する喜兵衛の肩に軽く手を置き、信玄に向き直った。「高坂殿ら、妻女山へ向けて動きます。勘助殿の策、見事に嵌まるでしょう」
信玄は頷いた。 「では、戻るとしよう」
去り際に、再び妻女山の方へ目をやる。変わらず松明の灯が揺れていた。 信玄の胸には、一抹の不安が拭いきれずに残っていた。
山本勘助。信玄の軍略を支える老将は、今夜の作戦に絶対の自信を持っていた。 断崖絶壁を越えた高坂弾正らの精鋭が、妻女山の背後から奇襲を仕掛ける。あらぬ方向からの攻撃に一万三千の大軍は山頂では身動きが取れず、八幡原へ降りる。そこを本隊が待ち構え挟撃する。 地形、兵数、心理、すべてを織り込んだ「啄木鳥戦法」。信玄はその策を採用した。
高坂弾正を筆頭に、別動隊一万二千が静かに動き出す。馬の蹄音を消すため、兵は草鞋を履き、口元を布で覆っていた。霧が濃くなるのを待ち、妻女山へと夜の闇に溶けていく。時を置かずして、信玄は本隊八千を八幡原へと移し、鶴翼の陣を敷いた。 妻女山から下りてきた上杉軍を包み込み、殲滅する。それが計画だった。
八幡原は連日霧に覆われ、この日も例外ではなかった。手の先すら見えぬ濃霧。霧の湿気と盆地特有の冷気が溜まることから、この時期の八幡原は非常に寒い。ガタガタと震える事で甲冑がこすれ、部隊のあちこちから小さな金属音が聞こえてくる。喜兵衛も例外ではなく必至で音を立てないよう震えを押さえていた。
徐々に夜が白み始める。地元の者によれば、辰の刻には西風が入り、霧が一気に晴れるという。計画通りなら、別動隊はとっくに妻女山に到達しているはず。法螺の音、戦の喧騒が聞こえてきてもおかしくない。だが、八幡原は未だ静まり返っていた。
「……おかしい」
本陣で、勘助が不自由な足を引きずりながら妻女山の方へ目を凝らす。 間もなく辰の刻。霧が晴れ始める頃だ。
信玄の傍らで長槍を構える喜兵衛は、ふと典厩の言葉を思い出していた。
(人の心を知れ。自然の匂いを……知れ)
その瞬間、何かが胸を突いた。
「敵は……目の前にいるのではないでしょうか」
静寂の中小さく呟く喜兵衛の声に、幕内の将兵たちが一斉に振り返る。勘助も語気を強める。
「馬鹿な。何を根拠に言う」
「自然の、音です。匂いです」
信玄の目が少し見開いた。
目の前の八幡原には、鳥の声も、水鳥の羽音も、虫の鳴き声もない。生き物たちが息を潜めている。それは、異物が入り込んだ証ではないか。 この霧の中に潜むものが、彼らを黙らせているのではないか。
勘助も振り返り、数歩進んで白く濁った八幡原の方を凝視する。
(この霧の中、本当にいつもの八幡原なのか……)
徐々に西風が強くなる、空気が流れ霧は急速に晴れ始めた。
薄まる霧の中から見え始めたのは、見慣れた秋の風景ではなかった。そこに広がっていたのは、一分の隙もなく隊列を整え、今にも獲物に食らいつこうとする漆黒の軍団。さっきまで妻女山にいたはずの、上杉政虎率いる一万三千の大部隊だった。おびただしい数の「毘」と「龍」の軍旗が、風に揺れている。
西風にたなびく旗の音だけが支配する空間。 勘助は膝から崩れ落ちた。漆黒の軍団の中央、上杉政虎の本陣を表す「日の丸旗」が目に焼き付いた。
「毘沙門天の化身は……未来が見えるのか……」
突如目前に現れた大部隊に圧倒され、武田軍中央嫡男・武田義信率いる二千の兵は、動揺を隠せなかった。 上杉軍の大将の合図に合わせ、その漆黒の軍団が、ゆっくりと動き出した。
「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経……」
毘沙門天の軍団は、槍衾を先頭に経を唱えながらじわじわと間合いを詰めてくる。上杉軍独自の魚鱗の陣が、まるで生き物のように蠢きながら武田陣に迫る。後ずさりをする武田軍を見て、大きな法螺の音が響き渡った。総攻撃の合図である。槍衾の隙間から猛将・柿崎景家の騎馬隊が現れ義信軍に襲いかかった。
「来るぞ! 持ちこたえよ!」
義信は総崩れを防ごうと、必死に部隊を鼓舞する。
本陣では、山本勘助が地図を睨みながら叫んだ。
「ここで踏みとどまれ! 高坂殿の別動隊が来れば、挟撃できる!」
そう言い残すと、勘助は馬を手繰り寄せ、自ら前線へと駆け出していった。
(わしの策で若を死なせるわけにはまいらん)
戦場は完全に上杉方のペース。「左右を崩すな! 中央を支えよ!」 勘助は前線に向かう馬上から檄を飛ばし、兵を鼓舞する。
武田軍は何とか総崩れを防ぎ、戦線を維持していた。だが、戦力差はいかんともしがたく、名だたる家臣たちの討ち死にの報が飛び交い、損害は拡大していく。
そして、ほどなくして、
「山本勘助殿、討死!」
その報せは、幕内を貫いた。 信玄は目を伏せ、軍扇を静かに閉じた。 宿老級の初めての戦死。敵に囲まれつつあった義信の部隊を救うべく突撃し、義信を逃がした後、討たれたという。
戦況はさらに悪化していた。 鉄砲の音が近づき、矢が本陣にまで飛び込んでくる。 信玄は床几に腰を下ろし、地図を見ながら巧みに指示を出し、部隊の崩れを防いでいた。
だがそこに、
「武田典厩様、討死……!」
二度目の報せが、陣幕を震わせた。
典厩信繁。信玄の弟にして、武田軍の精神的支柱。 その死は、兵たちの心を深く揺さぶった。信玄は、わずかに眉を動かしたのみだが、その表情の変化に、喜兵衛は息を呑んだ。
(典厩様が……)
喜兵衛は、初めて戦場の怖さを知った。 さっきまで普通に話していた人が、もういない。 典厩の、あの優しい眼差しで語ってくれた言葉が、もう二度と聞けない。
「耐えよ!典厩の死を無駄にするな。ここで崩れれば、武田は終わる」
信玄の言葉に、喜兵衛は拳を握りしめた。
(御館様は、揺るがない。ならば、私も――)
敵は、じわじわと本陣に迫っていた。 鉄砲の火薬の匂いが濃くなり、矢が幕を突き破る。 だが、信玄は静かに軍扇を開き、敵陣を見据えていた。
そして、ついにその時が来た。
「あれは!・・・別動隊一万二千、到着!」
陣幕の外から、叫び声が響いた。 妻女山を越えた高坂弾正らの軍が、上杉軍の背後に現れたのだ。武田軍の陣に、歓喜の声が響き渡る。
別動隊の到着は、乾いた大地に落ちた稲妻のように前線を貫いた。味方の旗が敵の背後に翻るのを見て、武田の列は一斉に膨らみ、押し返す力に変わる。
「いまぞ、間を詰めよ!追い立てろ!」
義信の声が波のように広がり、槍先が揃って前へ出た。 上杉勢は北西、八幡原の縁へとじりじり押しやられてゆく。 追撃に転じた本隊もこれに続く。武田の本陣内も極度の緊張から解放され、安堵の空気が流れはじめた。
「そんな馬鹿な。」
陣幕の隙間で伝令とやり取りをしている足軽からの報告で、先ほどからずっと敵政虎の本陣「日の丸旗」の旗印が見えないという。
信玄が軍扇を休めた。 「政虎の所在、再び確かめよ」 言い置く声は静かだが、眉間の皺はひと筋深くなった。いない?撤退した?だからこそ、どこからでも現れ得る。本陣の見晴らしの良いところに向かう信玄と、その後ろを喜兵衛もついていく。高台から八幡原を見渡すと武田本陣と別動隊が合わさり、本陣から離れ一団となって敵を千曲川方面に追いやっている。現在本陣には千も満たない数しかいない。
信玄は気づいた。(来る!)
「急ぎ防御を固めよ!」の指示と同時に「敵襲!」の声が重なる。
目前犀川の上流の茂みの方から、白い一団が一直線に進んで来る。白馬にまたがり、白直垂姿で先頭を進む大将は、まぎれもなく政虎。「毘」と「龍」の旗印に加え、大将旗「日の丸」を掲げた精鋭百騎が決死の突撃を敢行しようとしていた。
(最初からこれが狙いであったか、政虎よ!)
敵襲を知らせる法螺の合図の前に、鉄の蹄はもう本陣の畳を踏んでいた 刃が幕を裂き、風林火山の旗の影が揺れる。
「あわてるな、敵は少数、押し返せ!」
「御屋形様をお守りせよ!」
旗本たちは必死に刀や槍を繰り、馬上の敵を狙う。数の上では武田が圧倒的だが、上杉勢は精鋭揃い、旗本足軽たちはなぎ倒されていく。先頭の政虎は鬼神のごとき活躍を見せる。
「我は関東管領上杉政虎なり!逆賊武田、覚悟せよ!」
慌てた武田軍は敵と味方が入り乱れる中、鉄砲が同士討ちを誘う。風林火山の旗が、泥に倒れる。 上杉の馬の蹄がそれを踏み、布の端が湿った土に貼りついた。政虎は鞍上で微塵も揺れず、刃だけが獣のように息をする。
最後の陣幕を馬で蹴破り、床几に座して軍扇を持つ信玄と相対する。
「ようやく会えたな。越後の龍。」
想像よりも細身で高貴な雰囲気を醸し出す政虎に、信玄は興味を惹いた。
「足利将軍家の命により、逆賊信玄を成敗いたす!お覚悟!」
政虎は愛馬月影の手綱を巧みに操り、信玄に迫る。次の瞬間、白刃が閃いた。
一の太刀。軍配が火花を散らして受け止める。 二の太刀。骨に響く衝撃が信玄の腕を痺れさせる。 三の太刀。軍配はなおも立つ。だが、はじかれた。黒塗りの骨が角度を失い、土に落ちる乾いた音がした。
「覚悟!」
政虎の肩と腰が同時に沈む。とどめの一撃が、まっすぐに落ちる。
その刹那、喜兵衛の時間は止まっていた。 目の前の渦が遠ざかり、耳の奥でひとつの声だけが浮かび上がる。
(喜兵衛。怯むな!)
典厩の声だった。土の匂いと血の匂いの間で、確かに聞こえた。
「……典厩様」
自然と足が動く。己の名も忘れて、ただ空白へ飛び込む。槍を低く構え、白馬の大将へ。ためらいを斬り捨てるように長槍を突き入れた。
槍先は白馬の左後ろ脚の付け根あたりを突き刺した。たまらず両前足を上げいななく月影。さすがの政虎も信玄という大きな獲物を前に、まわりが見えなくなっていた。暴れる馬を手綱でさばき、何とか体制を持ち直した政虎。
信玄はその隙に、足もとに転がる槍を引き寄せ、政虎への逆撃を試みる。一挙の突き。短い呼気とともに、政虎へ伸びる真直ぐな一線。政虎は、柔らかい体を大きく身を捻って刃筋を外す。槍先は左肩口をかすめ、血飛沫とともに、白直垂がぱっと裂けた。 風が布を攫い、あおっていた襟がほどける。 一瞬、素顔が露わになる。
汗で濡れた黒髪の生え際、白い頬、揺らぎのない瞳。
(女・・・?)
喜兵衛の脳裏に、その像が焼きつく。政虎の視線がこちらをかすめる。 喜兵衛の面を見て、ほんのわずか、その顔に驚きの色が走った。なにを見たのか、言葉になる前に、戦場は動いた。
本陣の急を知って駆け付けた武田の援軍が周りに押し寄せてきていた。政虎は手綱を引き、一度だけ振り返った。 白馬が砂を巻き上げ、刃は血を払わぬまま返る。
「ここまでか」
その気配だけが言葉になり、白馬はひらりと弧を描いて離れた。追いすがる槍の穂先は、虚空を掴む。上杉の精鋭たちは本陣の外へ消え、北西から迫る武田軍から逃れるため、反対方向へと飛び出していった。追撃の号令はかからなかった。信玄は槍を下ろし、落ちた軍配を拾い上げる。 泥にまみれた骨に、掌の熱がじわりと戻ってきた。
夕刻、八幡原には風が吹いた。叫びは枯れ、鼓動だけが残る。 戦場には両軍の旗が折れ伏し、名のある者、名なき者の屍が同じ土に横たわる。
第四次川中島の戦いは、どちらも勝たなかった。どちらも、深く失った。 引き分け、そう呼ぶほかにない結末が、秋の空の下に沈んでいった。
喜兵衛は血に濡れた手を見つめ、ふと顔を上げる。 あの素顔。あの一瞬の瞳。
信玄はただ遠くの白い残光を見ている。それぞれの胸に刻まれた像だけが、戦の後にいつまでも消えずにあった。
◆「第二章 川中島の記憶」に続く




