3話
自炊の方が食費は浮くと言うが、肝心の初料理は全てがヴァリアの胃の中に収まることはなく、余分な焦げた部分を削ぎ落とし、値段に見合わない部分のみを食べた。当然、胃の中の容量はまだまだ空席が目立つ。
仕方なくヴァリアは満足していない朝食を、街に出て食べに行く選択を余儀なくされる。家には盲食料はないからだ。一人暮らし早々に前途多難だ。
朝も早くから、街は人並みに溢れている。
遠くには、空に伸びる尖塔が見える。数日前まで自分が勤めていた場所だ。それを遠くから眺めているのはまだ変な気分でもある。
朝市は採れたての野菜や果実が店先を彩り、今よりも遥かに早い時間に掬い上げられた魚が軒先に並ぶ。まだまだ新鮮な鱗に弾ける水が朝日に煌めいている。
鎧をその身に纏っていた時と同じ町並みなのに、その光景はいつもと違って見えるから不思議だ。いつか、それにも慣れるのだろうか。
市場は、料理スキルのないヴァリアには無用の長物であるからして、差し当たっての目的は即時に腹の満たせる食事処だ。
朝採れの食材を使った料理が味わえる人気店は、すでに早くも人が行列を成している。この列に混じれば食事にありつけるだろうが、その時にはどれくらいの時間になっているだろうか。昼食になるのは言いすぎだが、とてもじゃないが並ぶ気にはなれない。
視線を巡らせてみても、どの店も入るには一定の時間を要しそうだ。
ヴァリアは人並みを避けて、裏路地に入る。
表通りの賑やかさと一転。涼やかな空気が流れる。外の華やかさは無いが、隠れ家的な店も多い。
表通りとは格段に歩きやすくなった石畳の道を歩いていると、微かに漂う香ばしい匂いが鼻に届く。外に出なければ出会わなかった匂いだろう。
「や、やめてください」
そんな香ばしい匂いがもたらす幸福感を寸断するように、か細い女性の声が聞こえた。
何事か、とヴァリアは声のする方へ歩みを進め、角を折れたその時、それを見た。
「へへ。いいじゃねえか」
「ちょっとおじさんたちと遊ぼうぜ」
酔っ払いらしく、ふたりの明らかに回っていない呂律と、朝日に照らされていたのが原因ではない赤い顔。
相手はヴァリアの見た所、まだ若い10代半ばの少女だ。
当然、少女は迷惑そうに表情を困惑で満たし、男たちの絡む手をなんとか躱し続けている。
自分とあまり年の変わらない男の蛮行に、ヴァリアは情けなくも沸き立つ怒りを感じる。それは正義感なんて大層なものではない。
だが、自分の足がそちらに向くのを特に止めようとは思わなかった。
「おいおい。朝っぱらからナンパとは関心しないな。とっとと帰って寝たらどうだ?フラフラだぞ」
あくまでフレンドリーに。事を荒立てないように。
今のヴァリアは街を守る騎士ではないのだ。それでもまだ一般人に遅れを取るつもりは無いけれど。
酔っ払いの意識が少女からヴァリアに向けられる。そして、何が嬉しいのか片割れがヴァリアへと迫り、昔からの友人かのように肩を組んでくる。
・・・酒臭い。やはり完全に酔っている。
ちらりと見る少女の顔は、不安と恐怖から驚きへとその色を変える。
ヴァリアは目で「行け」と訴えたつもりだが、その足を動かすつもりはなかった。
「兄弟、飲み過ぎなんじゃないのか?このまま帰って大人しく寝な。きっと気持ちいい夢が見られるぞ」
とヴァリアが諭すも、酔っ払いのテンションに一切の陰りはなく。よく見ると、片割れはその手に中身の残った酒瓶を握っている。
「おら。兄ちゃんも飲め飲め」
酒瓶の栓を開けようとするのを、ヴァリアは手で制しながら、思案する。
酒の匂いですらヴァリアは苦手だ。自分を送り出してくれる仲間の集う会でもなければ、我慢しようとは思わない。
・・・仕方ない。
「それともお嬢ちゃんにお酌してもらうか?」
執拗に絡み続ける酔っ払い。その手が再び少女に向かおうとしている。
少し手荒だが。
「っ!?」
ヴァリアの肩に手を回す酔っ払いの身体が、膝から崩れ落ちた。
「ほら、言わんこっちゃない。もう立ってられないじゃないか」
崩れ落ちる仲間を、もうひとりが慌てて手を貸し、立ち上がらせる。
「・・・そうみたいだな。ったく、これっポッチの量で潰れるなんてな。俺はまだまだ飲み足りねえってのに」
男ふたりがその腹の中にどれだけの量の酒を納めたのか定かではないが、飲酒量を自慢するのは仲間内だけに留めるのを祈るばかりである。
よっこらしょ、と片割れが身体を弛緩させている相方を担ぎ上げ、肩で支えながら少女に向かって「嬢ちゃん、ごめんなぁ」と謝罪の言葉を口にした。
やがて、肩を寄せ合うふたりは、千鳥足を絡ませながらも路地裏の向こうへ消えていった。残るは呆けた顔の少女と、路地に流れ込む朝の喧騒のみ。
・・・やれやれ。
身体を鍛えていた貯金がまだあってよかった。まだ僅かとは言え、少しの間でも本格的な訓練から遠ざかっているのは騎士として致命的だからだ。
武器を持たなくとも相手を制圧する術などいくらでもある。その相手が戦闘能力のない一般人ならなおさらだ。
取り合えずその腕が完全に錆びついていないようでヴァリアは安心した。
さて。
少女の不安を増大させないよう、早々にこの場を去るとするか。
「あの」
だが、そのヴァリアの後姿を呼び止めたのは少女だった。
「ありがとうございます、ヴァリアさん」
お礼も特に無くても良かったのだが、ヴァリアが振り向く原因となったのは、その少女が何故か自分の名を礼の前に連ねたのだ。
当然、ヴァリアは少女の顔に見覚えは・・・あるかと問われれば自信はない。
と、少女はそんなヴァリアの表情を読み取ったのか、眉根を寄せて自分より遥かに長身の男の顔を見上げていた。
・・・はて。
相変わらずヴァリアの頭の中の記憶と、少女の姿は一致しない。少女の記憶違いのほうがまだ信憑性がある。
見覚えありませんか、と言わんばかりに少女はぐい、と詰め寄ってくる。
・・・あ。
その記憶は頭の中のほんの手前にあった。なんなら、ここ最近の出来事の中に埋もれていた。
「えーと・・・」
ただ、肝心の名前が出てこない。・・・これも老いか。
「リアン・シュヴァンツァー、です」
なんてことはない。
「入学式で」
ヴァリアが通うこととなった夜間部で、同じクラスになった女子だ。こんなことを言えるのも不思議な感覚である。
自分の年齢の半分以下の女の子と接点を持つなど、今までは有り得なかった。可能性があるのなら、もはやそれは仲間の誰かの子供として出会しかない。
「もしかして、名前、覚えていませんね」
少し、不満そうにリアンはヴァリアを見る。
正直、あの時は緊張していたし、人の名前までに気を配ることができなかったというのが本音だ。その旨を伝えると、リアンはくす、と柔らかい笑みを零した。
「まさかこんなところで同級生に会うなんて思っても見ませんでした」
と、さらに可笑しそうに微笑んだ。
同級生か。不思議な気分だ。
「改めてありがとうございます。助けていただいて」
ヴァリアはまだ、あんな絵に描いたような酔っぱらいがいるのだと逆に関心していたところだ。
「それにしてもヴァリアさん、本当に騎士だったのですね」
簡単の声を漏らすリアン。リアンの位置からだと、ヴァリアが酔っぱらいに対し放った攻撃が見ていたのだろう。
瞬間的に打撃を当て、酔っぱらいの身体を弛緩させた。武器がない時の攻撃方法も心得ているわけで、今回はその知識が役にたった。
だが、その言葉ぶりから察するに、リアンはヴァリアが騎士だということを疑っていたのだろうか。
「ところで」
目を輝かせているリアンの視線がむず痒く、ヴァリアはその居心地の悪さを誤魔化すように、彼女がこの薄暗い路地裏を歩いていた理由を聞いた。
「あ。私今からアルバイトなんです」
と、あっさりとその謎は解けた。リアンが指を指すその先の、微かに香る匂いの元であろうパン屋で働いているようだ。
「この辺りなんですか?」
今度は逆にリアンが尋ねる。その言葉の意は、ヴァリアの住んでいる場所、であろう。
「・・・ああ。そうだな」
体感では、歩いてここまでさほどかからない。まさか朝食を求める道すがらにこんな事態に出くわすとは思いもしなかったが。
「あの」
リアンが改まったように身体を向き直し、
「助けて頂いたお礼がしたいのですが」
そんな大層なことはしていない。騎士ならば、市民の危機を救うのは当たり前のことだ。・・・今はもう騎士じゃないけど。
やんわりと拒否の言葉を口を付く瞬間。
待て。
リアンはそこのパン屋で働いていると言ったな?この漂う美味そうな匂いの正体がその店から流れ出ているものならば、非常に興味は引かれるわけで。
丁度朝食を調達しなければならないという状況も、妙な下心をもたげさせる理由には十分で。
笑顔で路地裏の先に足を進めようとするリアンに連れられ、ヴァリアはその後に続くのだった。
聞けば、そのパン屋は知る人ぞ知る名店であるらしい。表通り面しておらず、ひっそりと裏路地に構えるそこは、なるほど人目に付きにくいだろう。
『白い雲』と銘打たれた看板が、裏路地特有の薄闇に翳る。
まだ開店前らしく、扉に掲げられたプレートには『準備中』と記されている。
それにも関わらず、リアンは勝手知ったるという様子で扉を開け、店内にヴァリアを迎え入れる。
それと同時に、ヴァリアの鼻に届く香りが一段と濃くなる。なんとも腹を刺激するいい匂いだ。
店の奥から、遠目から見ても焼きたての、パンの並んだトレイを手に出てくる。
白いヒゲを蓄えた、一見気難しそう。だが、リアンの顔を見るなり、その顔に柔和なものを覗かせた。
「おお、リアン」
リアンがこの店の店長です、と教えてくれる。そして店長は本来従業員しかは足を踏み入れることを許してはいないだろう開店前の店内に、見知らぬ男がいるのに気がついた。
「どうした。今日は父親と一緒に出勤か?」
そう言いながら、店長は笑って見せる。
・・・まあ、この並びを見て一発で学校の同級生と解る人間は居まい。
「店長、実はね」
リアンは今まさにあった出来事と、ヴァリアとの関係を説明した。
「そりゃあ災難だったな。そうか、リアンが通い始めたとかいう学校の」
店長は納得したように頷く。
リアンは準備をするために店の奥に向かう。その最中、
「だから店長、ヴァリアさんに思いっきりサービスしてあげてください」
笑顔を浮かべながら、リアンは店の奥に消えていった。
店長もリアンの提案に反対する気は無く、手を叩いて破顔する。
「うちの看板娘を助けてくれた礼だ。どれでもサービス価格で持っていっていいぞ。ついでに試食だ、食ってきな」
手が柔らか差を伝うパンを、ヴァリアは口元に運ぶ。
言い過ぎでもなんでも無く。今まで食べたパンの中でヴァリアは少なくとも、これを超える美味さのパンを食べたことはない。
噛みしめる度に、小麦の香りが鼻腔を抜ける。それが更に食欲を増進させる。
店長の満足そうな顔。最初に見た時の厳つさはどこへやら。
ヴァリアはサービス価格に甘えていくつかのパンを購入。
「これからご贔屓にしてくれます?」
着替えを終え、戻ってきたリアンは嬉しいだけではない笑みを浮かべ、その中にタダでは転ばぬ商魂を見た。
数個のパンを紙袋に詰めてもらい、リアンの営業スマイルを背にヴァリアは店を出る。
手の中に僅かのかかる、温かくも心地よい重みに、ヴァリアは満ち足りたものと共に家路に付いたのだった。




