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第九話 トイレの花子さんがヲタを救う

「うわ、マジか」

 ご陰キャさまがのけぞる。

「おい、ご陰キャさま、逃げろ」

 すかさず瑞生が叫ぶ。もう敬語をつかっているどころではなかった。

「でもでもカノジョさんが‥‥」

「そんなのいいから。もう死んでるし」

「え。いや、それちょっと冷たくないすか? 俺はカノジョいたことないんで、こういうときのカレシの気持ちとかまったくわかんないすけど、いくらここが仮想空間とはいえ、いやいやさすがにそれはないわ」

「詳しく説明してるヒマがないんだ。そもそもあいつ、ほんとうはご陰キャさまのことを狙っているんじゃないのか」

 瑞生は適当なことを言ったが、目のまえで射殺された人間を見て動揺したご陰キャさまは同意する。

「え。いやまあ。おそらく、そうっす」

「このバッタモンの仮想空間をつくりだしたご陰キャさまを逮捕するために尾行されてたんだろ」 

「ふぇい」

 泣き出しそうな声になり、はい、が言えない。

「あいつ、デスパートが雇ってる公安の男だぜ。捕まったら名前公表されて特定班から住所特定されて世間からお尻ぺんぺんされるんだぞ。暇と体力だけはありあまってるネット民のいつもの凄惨なリンチがはじまるぜ」

「どどどどどーすりゃいいんすか」

「走るんだ。全力で、走るんだ」

「どっちの方向に」

 瑞生は適当な方向を指さすと、ご陰キャさまはよたよたと全力で走りだした。これを心理学というほどおおげさなものでもない。目のまえで人が射殺された直後であれば、どれだけ適当なことを言ったところで、たいていの人間は相手の言うことを素直に受け入れるものなのだ。

 公安の男は逃げていったご陰キャさまを冷淡な目で追っていたが、ご陰キャさまの姿が見えなくなると、迷わずこちらにゆっくり歩いてくる。狙いはあくまで自分のほうなのである。純粋無垢なオタクは簡単に騙せても、こちらのほうはさすがにそううまくはいかない。

 銃口を下げ、男はゆっくりと瑞生の足に狙いをさだめる。単なる脅しのつもりなのかもしれないし、ただこちらの出方を窺っているだけなのかもしれない。瑞生は男が銃の引き金をひくのを辛抱づよく待った。しかし男はいっこうに動く気配がない。さすがに先制攻撃を仕掛けてくるつもりはなさそうだった。しびれをきらせた瑞生はポケットに手をつっこむ。ようやく公安の男は引き金に指をかけた。

 するとその途端、トイレのなかから巨大な手と太くてながい腕が伸びてくる。トイレの出入り口を完全にふさぐくらいの、とてつもなく太い腕が姿を現したのだ。瑞生がつくったトイレの花子さんである。といっても頭や胴体や足は登場しない。文字どおり、手と腕だけが伸びてきたのである。

 巨大な五本の指は公安の男の身体をがっしり掴むと、そのままトイレのなかへとずるずる引きずりこんでいった。男は全力でもがいていたが、巨大な手のなかにがっつりグリップされ、まったく身動きがとれなかった。巨大な手と公安の男はトイレのなかへと消えた。

 静寂。物音ひとつ聞こえてこない。おそらく男は身体ごと巨大な指でロックされ、トイレの個室のなかで身動きできない状態になっているはず。そういう設定になっているのだ。

 デスパートは‥‥というより、例の統括者はあれでけっこう遊びごころがあった。公安組織をつくるという話が出るだいぶ前、仮想空間で犯罪に走ろうとするふとどきものの成敗を、日本に古来から伝わる妖怪たちや、都市伝説に出てくる魔物たちに任せようという案があったのである。防犯プログラムもまあセキュリティのセクションだろうということで、瑞生が担当することになった。瑞生もノリノリでそのプログラムを構築したものである。統括者にプレゼンまでした。

 ところが治安維持がそんなおふざけでは仮想空間の商業化に際して国の営業許可がおりないということになって、その企画はけっきょくお蔵入りとなったのである。だがプログラム自体はそのまま残しておいた。プログラム上でオンオフができるので、あえて抹消する必要もなかったのである。それを瑞生が復活させたわけだ。

 おずおずとご陰キャさまが戻ってきた。

「なんだ、逃げたんじゃなかったのか」

「男がぜんぜん追いかけてくる気配もないし、お兄さんのことが気になって引きかえしてきたんすよ。んにしても、あれなんなんすか」

「たぶんあれ、トイレの花子さんじゃないかな。トイレの花子さん、知らないのか」

 ご陰キャさまは一瞬だけ笑いかけた。

「いや‥‥俺だってトイレの花子さんくらい知ってますけど、なんでそんなもんが出てきたんすか。つか、なんであんなぶっとい腕がトイレの花子さんの腕だって思うんすか」

 たしかに予備知識がなければ、いくらトイレから出現した怪異的事物とはいえ、あんな太い腕の持ち主がトイレの花子さんだなんて思う人間は日本じゅうくまなく探したって存在しないだろう。これでは語るに落ちるというやつである。瑞生らしくない失態だったが、しかしそれを微塵も表情には出さないのが、じつに瑞生らしいところだ。

「‥‥けっこう前にさ、仕事のからみでデスパートで働いているっていうシステムエンジニアと話す機会があったんだけど、公安の人間でも拳銃を持っている人間を相手にするのは心理的な抵抗があるだろうから、銃を発砲しそうな人間を事前にAIに察知させて、トイレの花子さんにひっとらえてもらうっていうアイデアがあったらしいんだよ。といってもその案は諸事情があって商業化のまえの段階でポシャったそうだけど。プログラム自体は完成していて、消さずに残してあるって話だった。たぶんご陰キャさまが本家の空間に穴をあけたときに、バグが生じてそのプログラムが起動しちゃったんじゃないかな」

 瑞生は事実を織りまぜながらまた適当なことを言って、ご陰キャさまはふんふんとうなずきながら聞いていたが、ふと首を傾げた。

「じゃあなんでさっきカノジョさんを撃ったときは出てこなかったんすかね」

 いい質問である。瑞生がこのプログラムを起動させた際、こちらの空間の詩梁が誰かに危害を加えられても、花子さんが反応しないように設定したのだ。といっても、男らしく詩梁の身は自分で守ってみせる、ということではまったくない。

 こうやって公安の人間を敵にまわしている以上、究極的に自分の手でコピーの詩梁を抹消しなければならない状況に追いこまれる可能性もとうぜんあるはずで、そのような場合に備え、詩梁をトイレの花子さんからのプロテクトの対象から外したのだ。状況しだいで自分のつくりあげたものが自分自身の行動の障壁になられては困るわけである。そういうクールな判断はいかにも瑞生らしい選択ではあった。

「男が銃をかまえてから引き金をひくのが早かったんだろ。デスパートのシステムエンジニアが組み立てたのは、あくまで発砲を事前に察知して予防するためのプログラムに過ぎないはずだから」

「ああ、なるほど。AIでもさすがに人間の心理までは読めないすからねえ。‥‥んにしても花子さんって、あんな腕が太いんすか。たしかトイレの花子さんって小学生の女の子のはずっすよね。俺も実際には見たことないすけど」

 たしかにこのプログラムをお披露目した際には、統括者に思いきり笑われたものである。いや花子さんの腕こんな太くないでしょ、と。しかしあくまで犯罪に走るような屈強な相手を想定しているので、その身柄の確保のためには、もともとの小学生の花子さん設定ではいささか腕力が弱すぎるのだ。

 そんなわけなので、瑞生がご陰キャさまに向かって喋る「憶測」は、「憶測」というよりも、ほとんど製作者の弁解じみたものとなる。

「小学生の女の子の腕力じゃ、万引きした中学生を取り押さえるのだって苦労するだろうしさ。かといってマッチョな体型の花子さんだと、そんなのもうどう転んでも花子さんじゃないから、こうせざる得なかったんだろ」

「腕だけぶっとい花子さんっつうのも相当ムリあると思うんすけどね」

 ご陰キャさまは上半身だけ捻り、遠まきに公衆トイレのなかを覗きこんだ。

「でもあの男って、デスパート側が用意した公安の人間っすよね」

 オタクは無駄に鋭い。プロジェクトの初期段階でポシャった犯罪者捕獲プログラムに、公安の人間を見わける能力などもちろんあるわけがない。瑞生も言葉につまる。

「んーまあ‥‥たぶんご陰キャさまが仮想空間のプログラムをいじったせいでバグったんじゃないのか」

「なるほどお。そういうことか。ほんと多方面にご迷惑おかけして、いや、じつにもうしわけないないんす」

 とつぜん公衆トイレが爆発する。コンクリらしき白い粉塵に混じって、茶色い液体やら粉末が空中に舞いあがったが、それらがなにを成分としているかはいやいやいや考えるまい。

 もうもうとする煙のなかから公安の男が現れる。フードの下の表情は、これまで以上に険しい。拳銃の引き金をひこうとしたのがトイレの花子さんの出現した文字どおりのトリガーであることに勘づいたのか、男は気前よく拳銃を地面にぽいと投げすてた。

「やばっ。おい、逃げるぞ」

 公安の男はご陰キャさまに向かって歩いてくる。たぶん事前に掴んでいた情報とはまったく異なる展開となったため、今度はご陰キャさまのほうが疑われだしたのだ。

「なんか思いっきし睨まれてんすけど」

「いいから、走るぞ」

 瑞生とご陰キャさまはそれぞれ逆方向へ一目散にひた走る。しかしぶよぶよおデブちゃんの悲しいサガ、日頃の運動不足がたたったのか、ご陰キャさまはすぐ息がきれ足がもつれ、ぶざまに地面に倒れた。

 ご陰キャさまはあっけなく公安の男に捕まってしまった。仮想空間だからといって早く走れる、なんて都合のいいことにはならないのだ。そこは現代の科学技術が集約されたアイマスクによって寝ている本人の筋力等がシビアに計測され、仮想空間のもうひとつの現実のなかに、もののみごとに反映されてしまうのである。

 瑞生は公園の向かいにあるビルの非常用階段を登りかけていたが、ご陰キャさまをひっとらえた公安の男がこちらを追っかけてくる気配すらないので、足をとめてご陰キャさまのほうを眺めやる。公安の男に捕まってしまったご陰キャさまの、悲哀にみちた姿を目で追いながら、そのままゆっくりと階段を登っていった。男は地面に倒れたご隠キャさまの腕を掴んでむりやり立たせ、通りを引っ張っていく。確保した犯人がおとなしくしているのであれば、ビット世界のならず者とはいえ、わざわざ手荒なことをする必要もない。それは現実世界の公安とまったく同じことだ。

 公安の男にがっしり左腕を掴まれ、ご陰キャさまは連れてかれていく。やはりながいながいトンネルを通って、本家のほうの仮想空間まで連れていかれるのだろうか。瑞生は妙にそこが気になった。

 ひとけのないオフィス街の通りを連行されていくご陰キャさまのほうに視線をおくりながら、瑞生はどんよりとした気分でビルの屋上へと登っていったのだった。


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