第七話 女神の復活
詩梁はなにごともなかったように瑞生の斜めまえに立っている。
一度は諦めようと思ったものが自分の手のなかに戻ってきたのは、瑞生はやはり単純に嬉しい。だがステージに背中を向け、銃の引き金に指をかけたままの隣りの男は、とくに驚きもしなかった。ぴくりとも表情は変わらない。
手は読まれている。男はAIではないはずだから、記憶は連続しているのだろう。そこは仮想空間の一般のユーザーたちと同じはず。だから詩梁が倒れたのも目撃しているはずである。ついでに瑞生が拳銃で自害したのも目の当たりにしているはずだが、それがなにごともなかったかのように完璧に復元されているのに、まったく動揺をみせない。瑞生が自分の頭を撃ちぬいた時点で、ほんの数秒後にはこうなることがわかっていたとしか思えない。
観客たちは前を向いて、ステージのほうを見ている。こちらも最初からなにごともなかったようにもとどおりだ。AIなので状況をたちまち理解して振るまうわけである。とはいえ瑞生がAIの精度を極限まで高めたから、その影響で彼らの動きはかなり鈍かった。
会場に流れている音楽のBPMはあいかわらず同じテンポである。瑞生の施したプログラム上の可変コントロール(そもそもそれがメインの目的ではないのだが)は、あくまでAIで生成された「疑似人間」たちに限られたものだから、彼ら以外のものは影響をまったく受けないのである。もちろん厳密にいうとAIの生成ではない詩梁もその影響を受けない。音楽にあわせてリズムをとっている人たちの動きは、実際の音楽とはかなりテンポがずれているから、彼らの動きをじっと眺めていると、瑞生は乗り物酔いでもしたように気分がわるくなってくる。
男はステージに背中を向けたまま、詩梁のほうを見もせずに、視線を落として音楽のリズムにあわせて動いている詩梁の頭のちょうど中心軸に向け、銃を水平に傾ける。振り子の的を狙うようにタイミングを計っているわけだ。だがさっきと同じように、あくまで視線を下に落としているため、瑞生もそこはさすがに違和感をおぼえる。
現実世界の公安の人間であっても、これほどの至近距離からターゲットの頭部を撃つ、なんてことはまずありえないはずだから、目を逸らしたい気持ちもわからないでもない。なんせ相手の脳味噌が飛びちるわけで、公安の人間であってもそこは人の子、なるべくなら見ないでおきたいという気持ちもまあわかる。しかし瑞生はやはりどこかひっかかる。とはいえ前も男はこのやり方で詩梁の脳味噌を撃ちぬいてはいるので、そこに素人がケチをつけるのはたぶん筋違いな話なのだろう。
もしかすると射撃の名手かなにかなのだろうか。学生時代にそういったスポーツで全国大会までいった、なんてタイプの人間であれば、顔をそむけたまま、小刻みに動いている他人の頭部を撃ちぬくなんて離れワザも、ごくごく簡単なことなのかもしれない。
瑞生は椅子から立ちあがって詩梁の手をつかむ。優柔不断な国の優柔不断な民に選ばれし優柔不断な王とは思えぬ力づよさで詩梁の手をぎゅっと握りしめ、驚いている詩梁を力まかせに引っぱって、ふたりはそのまま鈍い動きの観客たちの隙間をすりぬけながら、アリーナ席の中央の通路までひた走った。
男が発砲した。弾が瑞生の足元をかすめる。ほんとうは自分の心臓だって命中できるはず。至近距離とはいえ、目を逸らしたまま脳味噌を撃ちぬける手腕の持ち主なのだから、男にとっては、これもまだ脅しの範疇なのである。
会場がどよめく。派手に響いた銃声と、瑞生と詩梁が派手に走りまわることで、AIの群衆も通路に出て逃げまどうが、なんせ動きが遅い。むしろ瑞生たちの進路を妨害して邪魔になる。それでも瑞生と詩梁は器用に彼らのあいだを走りぬけていった。
「みんな避難するときは走っちゃ危ないよー。落ちついて移動してねー」
ステージのメグがふつうの速度で喋る。当然だ。メグはコピーした仮想空間で生成されたAIではない。
しかしなぜこの状況を見ているのだろう。瑞生はふと疑問に思い、足が止まってしまった。会場ごとのデモンストレーションのヴューはもうスクリーンには写し出されてはいないし、メグの足元にそれらしきモニターがあるわけでもない。そもそも各会場でメグの言動はまったく同じのはずである。単にライブ前の注意事項を喋っているだけなのだろうか。
目の前をのろのろ歩いていた若い男が撃たれ、ふたりの目のまえにゆっくり倒れこむ。瑞生はふわりとまたぎ、詩梁は顔をしかめて倒れた男をよけた。観客たちは瑞生の狙ったとおりの役割をきちんと果たしてくれた。走りぬけた道路の脇の壁のレンガがつぎつぎと倒れていくみたいに、公安の男にたいして障壁となってくれるのである。男がいかに射撃の名手であろうと、障壁となる観客たちの動きそのものが落ちているのだから、瑞生たちのように普通の速度で動いている的を反射神経で狙っていれば、どうしても誤って彼らを撃ってしまうことになるわけだ。瑞生は一瞬だけ振りかえって公安の男の顔を見た。だが男は他の観客たちを撃ってしまったところで、とくにどうとも思ってはなさそうだった。男の表情はどこまでも能面のようだった。
*
瑞生たちはなんとか会場の外に出た。会場の外に人はいなかった。物販のテントにも誰もいない。テーブルにところ狭しと並べられていたグッズ類は、すでに跡形もなく撤収されている。テント自体がそのままであるところを見ると、ライヴ終了後にまた売り手が戻ってくるのだろう。詩梁が息をきらせながら言った。
「なんなの、あれ」
「さあ。テロかなにかなんじゃないかな」
あんなことがあったわりに、不自然なほど冷静である瑞生の顔を、詩梁がじつにあやしげに凝視する。
「あいつ、なんかあたしのこと狙ってたような気がするんだけど」
さすがに詩梁はするどい。瑞生はびくっと震える。
「いやあ‥‥たぶん気のせいだよ」
「銃で撃ってたよね。この日本でだよ?」
まるで瑞生が原因であるかのように言う。たしかに当たらずとも遠からずなのではあるが。
瑞生と詩梁はもうちょっと走って、ひとけのない公園まで来た。詩梁は公衆トイレの存在に気づくと、ちらちらとトイレに視線を送りはじめた。
「ええとあのさ⋯⋯こんな状況であれなんだけどさ、生理現象はごまかせないっつうかなんつーか」
詩梁がいちおう恥ずかしそうに言う。瑞生は頷いた。詩梁は小走りで公衆トイレに向かう。オフィス街のど真ん中にある公衆トイレらしい、ふだんから清掃の行きとどいている感じの新しめの小綺麗なトイレ。こういうトイレでもなければ、詩梁が公園のトイレなんかに入ることはまずないだろう。
瑞生は公衆トイレの正面にあるベンチに歩いていって腰を下ろそうとしたが、後ろから荒々しい足音が聞こえてきた。あれだけ鈍重な動きかたをする観客をかいくぐって追いついてこれたのだろうか。瑞生は頭が真っ白になりながらも、震える指でポケットのなかの拳銃を掴む。
「いやあ、まじヤバかったっすよねぇ」
瑞生は振りかえる。詩梁を撃ったあの男ではなかった。
「VRじゃこういうことはないって話だったのに、いったいどうなってんすかねえ」
肥え太った身体、丸い黒縁のメガネをかけ、走って汗をかいたからだろうか、ふだんから櫛のとおっていなさそうな髪の毛はべったりと頭皮に貼りつき、年季ものの萎れた緑色のリュックを背負って、見るからにオタク、といった風情をしている。とはいえ動きは普通だから、こいつは間違いなくストレンジャーだ。おかしなタイミングで厄介な相手につかまってしまったものである。
瑞生はにこっと笑って返した。
「ですよねえ」
「やっぱ現実の世界みたいに警察に通報したほうがいいんすかね」
「いや‥‥大丈夫だと思いますよ。異常事態が起これば、自動的にデスパートに通報されるシステムのはずですから」
もちろんこちらのコピペ空間ではそんなシステムは解除している。というかそもそもその警報システムの部分をプログラミングしたのは瑞生自身なのである。
「途中からみんな、動きがなんか変だったっすよね」
「そうですか?」
瑞生はすっとぼける。
「銃声が鳴った直後から、妙に動きがスローになったじゃないですか」
「ううん‥‥僕らもそうだったかもしれないですよ。自分じゃわからないってだけで。たぶんおおぜいの人間がいっせいに動いて、仮想空間のプログラムに負荷がかかってしまって、動きが鈍くなって見えたんじゃないかな」
「ああ、なるほど。そういうことか。つうかお兄さん、めちゃくちゃ頭いいっすね。俺、そこまで考えがまわらなかったわ」
瑞生は内心で冷や汗ものである。システムエンジニアとしてクレームを入れてくるクライアントを説き伏せてきた経験が、こういうところでも役に立つわけだ。
「ところでお兄さんのカノジョさん、大丈夫っすか」
そういわれて、瑞生は相手の顔をしばし見据える。たぶんこいつは自分たちを追っかけてきたのだ。ピンポイントで自分たちを追いかけてきたのだから、詩梁の姿も見られているのだろう。いったいどういう風な動きかたに見えていたのだろうか、と瑞生は思った。もしかするとこの男は通常の動きかたをする自分たちに疑問をいだいて追っかけてきたのかもしれなかった。
「ええ‥‥まあ‥‥かすり傷ひとつないですよ」
「あいつ、ずっとカノジョさんのこと狙ってましたよ。銃口がカノジョさんの頭ぴたっと狙ってましたし。カノジョさんのすぐうしろの席の男が背の高い男だったんで、俺もあんまりよく見えなかったんすけど」
瑞生は凍りついた。
「‥‥すみません、いつから見ていたんですか?」
「あいつが紙袋に手を突っこんで、なにか探しはじめたところからっす。メグってまだぜんぜんオフィシャルのグッズが少ないんすよね。物販で売ってたのだって、キーホルダーとかタオルとかその手のありふれたものばっかだったし。運営がそもそも芸能事務所じゃないし、メグの人気が出てきたのもつい最近のことだから、そこまで手がまわらないだけかもしんないんすけど。だから熱心なメグ推しが、お手製もののウチワでもつくってきたのかと、固唾をのんで見守ってたんすよ。あらこいつ、なんか自家製のやつでも持ってきたんかな、と。そしたら拳銃取りだしたんでびっくり仰天っすわ」
男はかなりの早口で喋った。聞き手に相づちを打つ隙さえ与えず、自分の話したいことだけを一方的にまくしたてるのは、世のオタクたちに共通した哀しき習性であり伝統でもある。
「えーと⋯⋯どの席から見てたんですか」
「スタンド席のE26からっす」
事前にスマホで見ていた会場の見とり図を思い浮かべる。瑞生たちの座っていたアリーナ席からはだいぶ後ろの席だ。
「そんなところから、よく僕たちの席が見えましたね」
男はにやっと笑うと、腕をまわして背中のリュックからオペラグラスを取り出した。
「こいつがないとスタンド席からはメグの姿なんて豆粒っすよ。まあアリーナ後方からでも似たようなもんでしょうけど」
この仮想空間ではありとあらゆるものが売られている。現実の世界で一般の流通にのせられているものならなんでも、というのがデスパート社がこの仮想空間を売り出すにあたって、高らかに謳いあげた宣伝文句のひとつだった。国内の著名なミュージシャンたちもこの仮想空間でライヴを行うようになったし、オペラグラスのような比較的ニッチなものでも、需要さえあればこうして販売され入手できるわけだ。
「んー、まあ、大丈夫だったから」
「でもパンパンパンって、たしか三発は銃声が聞こえたんすよ、お兄さんたちが走りだすまえに。ひとつだけ変な響きかたしてたけど」
瑞生は座席に腰をおろしたまま自害したので、こいつの席からは完全に死角になっていたわけである。
「ほんとうに通報しなくていいんすかね」
オタクの口調には、どこかこちらに探りを入れているような感じがあった。むしろ通報されては困るような印象を受けるのだ。瑞生が訝しげな表情になったからだろう、相手はその警戒をとくように、ぎこちない笑顔を浮かべながら言った。
「こんなことになっちゃったから打ち明けるんすけど、じつは俺、バレたら相当ヤバいことやっちゃってるんすよ」
「はあ、ヤバいこと⋯⋯。いったいなにやっているんですか」
男はもったいぶるように少し間をおいてから言った。
「こっち側のVRつくったの、じつは俺なんす」