第六話 飛びちった脳味噌と優柔不断な王の決断
瑞生は指先でそっとアイマスクをはずした。見なれた白い天井。孤独を描きだすキャンパス。白地のアイマスクの裏と、ほとんど見わけがつかない。
現代音楽の作曲家が、孤独という概念を音像化したような、耳につんとくる静寂。それが4分33秒で終わるというのなら、聴衆も耐えられるかもしれないが、孤独の耳鳴りというのは永遠に終わらないような気がする。
瑞生はベッドに寝ころんだまま、しばらくのあいだ、なんの汚れもない、クリーンすぎる白い天井をぼうっと眺めていた。
頭はからっぽだ。考えるべきことがたくさんありすぎて、なにひとつ考えられない、といった感じ。それでも瑞生はエンジニアだけあって、想定外の事態がおこった場合は、むしろ冷静沈着となる。自宅からのハッキングがばれて、例の統括者に問いつめられたときに、とっさの言いわけを思いついて切りぬけられたのも、こうした日頃の鍛錬の賜物にほかならない。
日常茶飯事のようにクライアントから納品したシステムについてのクレームの電話があるから、学生時代のような豆腐メンタルのままでは、この業界を生き抜いていくことはできないのである。顧客からのクレームの内容は、たいていは開発者自身も想定していなかったようなこと。もともと陰キャで、つねに頭のなかが独りごとで溢れかえっている瑞生だったが、この仕事に就いてからは、いざというときに冷静になるよう、自分を少しずつ訓練してきた。
その甲斐もあって、瑞生は仕事以外でも、ちょっとやそっとのことでは動揺しないようになった。コンビニのレジで店員になにやらイレギュラーなことを問いかけられて、軽いパニックに陷らなくなっただけでも、瑞生にとっては人類が月面に到達したくらいの、おおいなる進歩なのである。
それにしても頭が痺れる。この表現がまことにふさわしい。いくら仮想空間での出来事とはいえ、詩梁の脳味噌が飛びちるのを目の当たりにしたのは、瑞生にとってやはり刺激がつよすぎた。瑞生のシャツは汗でびっしょりである。悪夢からめざめたような後味のわるさがある。
瑞生は脳味噌の飛びちっていた右手の甲を見る。脳味噌なんて、標本ですら見たことがないのに、牛タンのような断片には、不思議な説得力があった。仮想空間は、筋金いりのオタクたちがほとんど悪ノリで無駄にディテールに凝りまくったから、たとえ死そのものが存在しなくても、現実に忠実な細部をえがくのである。肉眼では見えないミクロな汚れをこすり落とすように、瑞生はもう片方の手で、右手の甲を何度もさすった。
ようやくベッドから立ちあがって、ふらふらと机のノートパソコンに向かう。さすがはエンジニア。パソコンに向かうだけで、瑞生の背筋がシャキッと伸びる。キリマンジャロの頂きに突風が吹いたように、瑞生の思考回路にまとわりついていた霧が晴れる。瑞生は死んだコピーの詩梁についてあらためて思いを巡らせる。
あるていどの外傷なら、このパソコンからでも修正をかけて甦らせることができる。たとえば重度のやけどで皮膚がただれても、詩梁のバックアップデータから皮膚を移植することが可能だ。手足の欠損であれば、同じように部分的にもいで入れかえることだってできる。
だが脳味噌を撃たれていてはどうしようもない。脳味噌の損傷ないし機能停止だけはさすがの瑞生にもお手あげである。生身の人間と同じように、当人のメモリーの制御も担っているわけだから、復元が難しくなる。おそらくこれが向こうの狙いでもあるのだろう。パソコン本体でも同じことだが、物理的な面でのデータの破損ほど修復に厄介なものはないのだ。
パソコンには詩梁のデータのバックアップコピーが保存してある。だがさすがに脳味噌のデータだけを移植したところで意味をなさない。肝心なのは中身、つまり記憶のデータなのである。瑞生のつかっているパソコンが数分おきにバックグラウンドでデータを保存させているから、射殺される直前までの記憶のデータはほとんど残っているはず。しかしその保存データから脳味噌の記憶のデータを抜きだして、蘇生させた詩梁の脳味噌に移植するというのは、瑞生のような手練れのエンジニアにとってさえ、専門外であるだけに難易度が高い。とはいえ不可能というわけでもない。ただ途方もなく手間がかかるだけのことだ。瑞生はその手間を考えると溜め息がでる。
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つぎに男の存在について考えてみる。死が存在しないはずのこの空間で詩梁をわざわざ殺害したのは、おそらく見せしめのためだろう。詩梁を撃ち殺した人間は、あの空間に存在する詩梁がデータのコピーであることを知っている。そのことを瑞生に知らしめるために男は詩梁を撃ち殺したのだ。いや、詩梁を撃ち殺したのが、そもそも公安組織から瑞生に向けての「警告」だと考えるべきなのである。
弾丸にはとくべつな殺傷能力のあるものがつかわれているのだろう。たとえデータのコピーであろうと、死からは絶対的に守られるはずなのである。これは他のエンジニアたちとの合同会議で例の統括者が何度も強調していたことだから、瑞生にはよくわかっている。だからこれは、お前のやっていることはわかっているぞ、という、ある種の脅しなのだ。
たしかにこんな不正行為など、発覚するのは時間の問題だった。現実の詩梁が仮想空間に参加しているからこそ、詩梁をコピーすることが可能だったわけだが、詩梁をコピーした際にくっついていた本人のアカウントを、完全には取りはずせていなかった可能性がある。瑞生は自分ではどうにか見当をつけて取りはずしたつもりだったが、そうした箇所のプログラムにはあくまで専門外である瑞生は、確実に断言できるわけではなかったのだ。
同一のアカウントの保持者がまったく異なる場所で同時に動きまわっていた場合、もし瑞生が設置した自身のセキュリティのプログラムとはまたべつに、仮想空間それ自体のプログラムに自動的に通報するシステムが存在していたのだとしたら、瑞生はだいぶ前からマークされていたことになる。そこから時間をかけてデスパート社が調査を敢行、証拠をかためて公安の人間を差し向けるのはとうぜんの流れなわけである。
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これで終わり、か。ゲーム・オーバー。瑞生は肩をがっくり落として思う。
もう二度と詩梁と会えないかと思うと、瑞生の目からは自然と涙が溢れでてくる。カノジョのできたことのない瑞生にとっては、ここが仮想空間であろうと、相手がデータのコピーであろうと、ほんもののカノジョみたいなものだったのである。
だいぶ前の話になるが、こんなリアルな仮想空間が商業化されるより先に、覚醒したままゴーグルをつけてVRのジェットコースターを体験する人が絶叫する動画を観たことがある。まさか同じように自分も絶叫することになるとは瑞生も思ってもみなかった。瑞生にとっては詩梁にかんする記憶のすべてがひどくなまなましい。
やはり詩梁のことが好きだ。瑞生は肺の底から思いきり溜め息を吐いた。そして性懲りもなく、自身がふたたび仮想空間に舞いもどってみた場合のことを考えてみる。
仮想空間に戻れば、たちまちヴィドルのライヴ会場に戻ることになる。これはシステム的にそうなっているし、プログラムを変更することは、実際のところ外部から国防省のパソコンにアクセスするよりむずかしい。難解をきわめる立体迷路のような仮想空間本体のプログラムのベーシックな部分を、専門外の瑞生はいじりようもないのである。
また詩梁をつくりなおして仮想空間に会いに行くのは、みすみす公安に捕まりにいくようなものだ。彼らの権限はあくまで仮想空間のなかだけのことで、現実ではなんの効力も持たない。デスパートの設定した法令も同様に限定的だ。
しかし仮想空間で拘束されれば勾留され裁判が開かれ、相応の罰を受けることになる。といっても懲役などはない。たとえ仮想空間であの伝説のボニーとクライドのような派手な連続強盗を働いたとしてもだ。たいていは罰金と称する課金コースか、さもなくばアカウント剥奪による事実上の永久追放となる。そこはまあやはりあくまでゲーム的ヴァーチャル空間に過ぎないのである。
仮想空間の入場登録の際に与えられるアカウントは、かならずマイナンバーカードの番号と紐づけされる設定だから、ふたたび仮想空間を利用するには、マイナンバーカード自体を偽造しなければならない。これらの設定は仮想空間自体の難解なプログラムに組みこまれていて、瑞生もうかつに手が出せない代物だ。この部分のプログラムはあくまで会員登録等のプログラム領域であって、瑞生の担当していたセキュリティのプログラム領域ではなかった。凍結されたアカウントを復活させる術はなく(そのやり方を少なくとも瑞生には思いつけない)、ふたたび仮想空間に入場するには、新たにアカウントをつくらなければならない。そのためにはマイナンバーカードを偽造する必要があるわけだ。
詩梁のマイナンバーカードの番号だってべつに偽造しているわけではないのである。単にそこに紐づけられたアカウントの二重流用なのだ。しかしとうぜんながら、マイナンバーカードの偽造はリアルな世界のリアルな犯罪である。瑞生もさすがにそこまで足を踏み入れるつもりはない。そんな度胸はない。
罰金はともかく、永久追放というのが瑞生にとっては痛い。それは詩梁に二度と逢えなくなることを意味するからだ。
瑞生は自分がコピーしたほうの仮想空間の会員登録のページを開いた。試しにこれまでつかっていたアカウントを打ちこんでみる。すると会員登録の画面のバックに写っている仮想空間のゲートが、いつものようにふわりと開いた。
⋯⋯これはいったいどういうことだ?
デスパート社、あるいは公安組織の人間は、こちらのアカウントまでは絞りこめていないということか。たしかに瑞生は、そう簡単に自身のアカウントを特定できないようなトリックを、コピーした仮想空間のプログラムのセキュリティ部分に巧みに組みこんでいる。ややこしい話だが、これは会員登録のプログラムとはまた違う、仮想空間を動きまわるアバターに紐づけされたマイナンバーを暗号化して、その個人情報を外部のハッキング行為からプロテクトするための、セキュア領域のプログラムだ。
瑞生がつくり、本家の仮想空間に組みこんだそのセキュアのプログラムは、いったん暗号化されれば以後ずっと同一の英数字で固定されるが、こちらのコピーした仮想空間に組みこんだプログラムは、滞在する者のアカウントは数分おきにランダムな英数字に変更される仕組みになっている。ようするに、自分のつくったセキュリティのプログラムをちょっと改造して、コピーした仮想空間本体のプログラムにふたたびくっつけ、アカウントをさらにべつの英数字に暗号化させているわけだ。
このプログラムをへたにいじれば、瞬く間にそのプログラムはあとかたもなく消滅するよう細工を施している。この暗号化プログラムを、あちこちに埋めた地雷を踏まずにうまく解体することができるのは、おそらくセキュリティ専門のエンジニアとしてかなりの熟練者だけのはず。
アカウントがそのままつかえるということはつまり、デスパートの優秀なおかかえエンジニアたちや、あるいは公安組織の連中にも、これにはお手あげということか。彼らは瑞生のアカウントを特定できていない。なるほど。瑞生はひとり頷いた。ってことは、僕にもまだチャンスがあるわけだ。勝敗はまだついていない。
瑞生は椅子に座りなおして、コピペした仮想空間のプログラムを開く。もはや見なれた数式。カーソルをどこまで落とせば自分のおめあての箇所にまで辿りつくか、瑞生はほとんど手先の勘でわかる。
瑞生は群衆のAIのプログラムに辿りついて起動する。仮想空間本体からは独立した後づけの比較的平易なプログラムなので、改竄は容易である。瑞生は群衆のリアリティの数値を最大限まで高めた。これで群衆の動く速度が落ちるため、彼らを障害物にして公安の男から詩梁とともに逃亡できるはずだ。またAIで生成された人間とそうでない人間、つまり公安の男の動きも簡単に見きわめることもできる。
それから瑞生はべつのプログラムも起動させた。いまのいままでつくったことさえ忘れていた、ある防犯プログラムである。法的な障壁があってプロジェクトの途中で破棄されたものだ。こうやって消されもせず手つかずのままであるところを見ると、外見からはなんの用途をなすのかまったくわからないプログラムを、後任のセキュリティ担当者や、仮想空間本体のプログラムを構築したエンジニアたちも、あえて抜きとることはしなかったようだ。いまとなってはなかばジョークのようなプログラムではあるのだが、たぶんなにかの役には立つはずである。
*
ほんとうにこんなことで詩梁を取り戻すことができるのだろうか、と瑞生は思う。これ以上ないほどリアルな仮想空間を実現させ、なおかつその商業的成功によって、人類の歴史上で誰も見たことがないような角度をえがき株価が跳ねあがったデスパート社は、海外進出を果たせばグーグルやアマゾンとならぶ世界的な大企業となることが噂されている。そんな企業を相手にケンカするだけの勇気が、果たして自分にあるのか。瑞生は弱々しげに首を横に振る。
しかしいっぽうで優柔不断の王たる瑞生は、詩梁をそうあっさり手放すこともできないのである。詩梁はもはや瑞生の生きがいになっていた。その詩梁の存在を抹消するのは、現実世界の恋愛と同じように、瑞生自身を抹消するようなものなのである。
瑞生はどうしてもそれが選択できない。それを選択するのは、自分の肉体の一部をみずからノコギリで切断するのとなんら変わらない行為なのだ。仮想空間でのさっきまでの詩梁とのギスギスしたやりとりが、瑞生のなかで都合よく暖かい思い出に美化される。それは瑞生が現実世界でこれまでまったく触れたことのない絶妙な温度の暖かさだった。瑞生はただただそれを手放したくなかった。
瑞生はズボンのポケットをまさぐる。もちろん現実世界の瑞生のポケットに拳銃なんかない。だが瑞生はその存在しない拳銃の引き金に指をひっかける。
このとおり、逃げ道は確保されているのだ。もはやこれまで。という状況に追いこまれるまで、とことんやってみてもいいんじゃないか。
瑞生は納得したように、ゆっくりと首を縦に振ると、震える顔にみずから軽くビンタして、キャビネットに置いている睡眠薬をペットボトルの水で流しこむ。ベッドに横たわり、アイマスクをつけた。
やがて、瑞生の意識が落ちる。